母であろうとした女は、①

「水城が無茶を言ったようですが、私からもお願いさせて頂けませんか?」


 書斎に男を招き入れ、そう切り出す。

 勿論、「組織の一員に」という件だ。まさかそんな事を言われるとは思わなかったのだろう、蒼い男は何か不可解なものを目にしたかのように眉を寄せる。


「正気か?」

「熟考の末です。先に述べますと、娘の頼みだからと何でも言うことを聞くような愚かな母ではないつもりです」

「それは、まぁ、見れば分かる」


 水城が言ったから、決めたわけではない。

 予めそう提示しておくことで警戒を解こうと考えたのだが、男はそれは理解していたらしい。暫く話を続けてみたもののどうにも手応えは薄く感じた。


「不審に思われているようですね」

「俺を招くメリットが無いだろう。君は打算で動くタイプに見える」


 メリットですか。

 そう紅葉は呟いて顔を上げる。損得を真っ先に計算する人間は信用出来る、と彼女は考えている。少なくとも、こちらの行動が利益に繋がる内は。


 視線を上げると椅子に座る自分を見下ろす蒼い瞳がこちらを捉えていた。


 それは、奇しくも──七年も前に喪った色とよく似ていて。


 どうしてだろうか。理由は分からないけれど、酷く、泣きたいような気持ちにさせられた。


「あの子達の父親に当たる男は──即ち、私の伴侶であった男は」


 何故、自分はこんな話をしているのだろう? と彼女は考える。

 分からない。体の内側からせり上がるような、得体の知れない感情の正体も。

 だけど衝動に突き動かされて、唇は言の葉を紡ぐ。


「あの子達が生まれた数日後に、他界しました。……自らの意思で、首を括って」


 事務的に流れ出た言葉は、彼女自身が自覚出来る程度には他人事だと思わせる響きを孕む。何処か、遠い世界で起きた出来事のような。紛れもなく、彼女に関係する物事であったはずなのに。


 脈絡の無い話を突然始めた紅葉を前に、息を呑むでもなく、言葉を発するでもなく、男は彼女を見据えていた。

 虚無を映す、蒼い瞳で。透き通るような蒼でありながら……昏く澱んだ川の底のような深淵だけが在る、蒼玉。


「想像すら、していなかったことでした」


 薄い唇から吐息を漏らす。

 やはり、彼女には分からない。何故出会ったばかりのこの男にこんな話をしているのか──何故今更、とうに過ぎた過去を口にしているのか。


「私は、御影の現当主。不要だと判断した者は何人も処刑してきました。死は、随分と昔から私の身近にあった。だけど……あの人の、百夜、の……死は……」


 衝撃、だった。

 事故なら受け入れただろう。他殺でも、納得出来たはずだ。


 だけど舞い込んできた報せは、予想だにしなかったもの。


 納得出来なかった。あの人が、そんな事をするはずがないと。そして納得出来なかったことに、彼女自身が驚いた。

 互いに顔も知らぬ頃から決められていた婚姻。ただ、後継者を作る為だけの結婚だった。そのはずだった。


「あの人が、自殺なんて……するはずがないんです」


 他人事のような語り口が、初めて熱を持つ。

 根拠など無かった。

 所詮は赤の他人で、決められただけの許嫁。

 紅葉自身が気付いていなかっただけで何か思い詰めていたのかもしれない。いっそ自死を選ぶほどに、何かに追い詰められていたのかもしれない。

 だけど、一度抱いた疑念はただただ膨らんでいく。


「じゃあ、他殺だと?」


 静かに口を開いた男が問う。一蹴するでもなく、かと言ってただ同意するのでもなく、いっそ機械的な態度にも思えた。

 だけど不思議と、この場ではそれが相応しい。


「百夜が、自身の手で首を吊ったのは事実です。そしてその暫く後、彼が唯一側に置いた女中が処刑されました。謀反を企んだのだと報告されています。ですが彼女も、そのような人間ではないのです。……当時の私は、二人の死を偶然だと見ることは出来ませんでした」


 そして、今も。そう呟いて紅葉は目を伏せる。


「何か……何か、大きな思惑がこの組織を覆っている。それが一人の男を死に追いやり、その女中も口封じにと始末された。ですが、私にはその正体が分からない」


 殺された、のだと思う。二人とも。何か大いなる意志によって。

 情けない話だった。“銀の星”統括とされながら、御影の現当主でありながら、彼女にはその正体が分からない。


 紅葉にとってはこの組織が世界の全てで、この組織が彼女の常識の全てを形作っている。

 そんな「世界の全て」が今となっては信用出来ないのだと、気付いてしまったところで彼女にはどうにも出来ない。


「それでも、全ての疑念を殺そうと思ったのです。ただの思い過ごしで、やはりあの人は自死しただけなのだと。私のは、間違っていないのだと」


 だけど、とそこで言葉を切る。

 憂いを帯びた赤い瞳は蒼い男へと向けられている。


「そこに現れたのが、貴方です」

「……」

「水城の口から貴方が六大陸に縁ある者だと知らされた時、また私の常識は壊れました。だって、貴方は……ただの、人間のように見えるわ」


 言葉の端が震える。信じていたものを否定するのは容易ではなかった。


 その昔、先代──即ち、御影の前当主であった父に尋ねたことがある。


『父上様。何故、この組織を作られた六人の魔術師様は、英雄と謳われるのです。この伝承の何処に、魔術師に正義があるのです』


 疑問だった。

 だって、戦争の火種を作ったのは魔術師達のはずだ。それが彼の者達の逆鱗に触れ粛清された。六大陸の者達はただ報復しただけだ。それなのに彼等は悪で、彼等を討った魔術師は、正義なのだと周囲は云う。


『何を、愚かな事を』


 そんな彼女を、先代当主が殴り付けたのはその直後の事だった。


『人のなりをしただけの悪魔共を、命を賭して封じて下さったのだ。奴等は人の言葉も通じぬ化け物。その排除に尽力された方々を敬いこそすれ、その在り方を疑問に思うなどと……お前は次期当主としての自覚があるのか』


 ああ、成る程、それがなのか。

 それならば御影の次期当主である自分は、それを当然として胸に秘めなくてはならない。


 私は御影の次期当主。

 その為だけに、在る存在。


 ──その張りぼてのような決意にヒビが入ったのが、ほんの少し前のこと。


人の言葉も通じぬ化け物?

今こうして、言葉を交わしているのに?


「偽りで作られた常識を自覚しました。いいえ、ずっと昔から気付いていたわ。だけど、認めるのが怖かったの。この組織の外が、私が思うよりずっと広く……未知のもので溢れているということを」


 こんな事は誰にも口にしたことがなかった。それでもきっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 だから唐突に、こんな場所で胸中を吐露している。


「それで、君は……俺に何を望んでいるんだ?」

「私は、この組織に毒されていない者の目線が欲しいのです」


 紅葉の言葉に男は訝しむように目を細めた。

 自分の常識は当てにならない。信頼している部下達は、夫やその女中の死に関わっているかもしれない。誰一人信用出来ないというのが現状の本音だった。


「私の目では、信用出来る者と出来ない者を見極めることは不可能です。私の世界はあまりにも狭過ぎるから。でも……それでは子供達を守れない」


 身内に既に死者が出ている。本当に何者かの策謀によって死亡したのだとすればだが──。

 仮にそう仮定するのなら、悪意持つ何者かの魔の手が二人の娘へと向かわないとは限らない。だが今の紅葉は、組織の誰が黒で誰を信じれば良いのか、その判断がつかない袋小路へと追いやられている。


「だから部外者の俺に彼女達を任せようと? それは、あまりにも──」

「ええ、あまりにも愚かでしょう」


 遮るように言って、紅葉は微笑む。それは束の間だが男を押し黙らせるだけの力があったらしい。


「だけど私には選択肢が無いわ。貴方を信じるしか、道は」


 何も無かったのならそれで良い。だけど何事もなく日々は終わらないだろうとの予感があった。常に首筋にナイフを突き付けられているかのような緊張感が、既に日常を覆っている。


 だから信じるしかない。


 例え、得体の知れない存在であれ。


「でも、それと同時に確信もあります。貴方ならと。だって、椿の目は確かだもの」

「……?」


 紅葉は僅かながらに逡巡する。この男は恐らく、自ら歩み寄ることを良しとしない。紅葉のような人間からすればそれは有難くもあるが、そのままでは信頼を築くことは不可能だ。

 だから、ここで口を閉ざすのは得策ではない気がした。


「あの子は、魔術師としての素養は然程ありませんが……少々、特殊な目をしておりまして。不完全な上にこれは水城も知らない事ですが」

「……まさか、魔眼か?」

「ご存知、なのですか?」


 これには紅葉も目を見開く。

 魔眼、というのは読んで字の如く魔力を宿す瞳のことだ。あまりに貴重であり言い換えるとメジャーではないことから魔術師ですら知らない者も多い。

 そもそも、魔術というのは魔術師が魔力を練り上げて使用することで初めて現象として成立する。魔力は作らなければ生まれないのだ。

 それに対し、魔眼は眼球そのものに純度の高い魔力が宿というものである。効果は魔眼にもよるが、所有者が魔術師である必要も無い。魔眼所有者が魔力を練る必要もなく、それ単体で『魔術』として完成している。

 魔力の要らない一つの装置なのだ。どちらかと言うと魔導具に近い。


 椿の目も、それだった。

 最も、極論、正式な魔眼は眼球だけをくり貫いて使用することが出来るのに対して椿は本人にしか使えないらしい……というのは魔力を解析出来る部下からの進言である。らしい、というのはまさか実際にくり貫くわけにもいかないからだ。


「どうやら、人の致命的な欠陥を見抜けるようなのです。どういうことかは、私にもよく分からないのですけれど……」


 椿が見る景色は椿にしか分からない。当たり前のことだが、それ故に椿の目が捉える世界は母である紅葉にも想像が及ばない。

 だが、要するにものすごく人を見る目に長けている、ということで良いのだと紅葉は考えている。事実、椿が一目見て本能的に避けた内部の人間はこれまでに何度も処刑リストに上がってきた。


 それと同時に、椿が水城をやけに心配するのも『そういうこと』なのだろうと彼女は思う。

 魔眼など無くとも看破出来てしまうくらいにあの子の人間性には問題があるのだから……と。


「……俺が、悪意ある人間なら。その情報は絶対に渡してはいけなかったものだ。例え所有者が小さな子供でも、殺してでも魔眼を欲しがる馬鹿はいるはずだろう。それを、」

「ですから、この情報が私の貴方への信頼の証です」

「……っ、娘を、守りたいんだろう。それなのに」


 それなのに、その他でもない娘を対価にしたのか。


 そう口から絞り出した男の目に、奇妙な感情が灯った。紅葉の勘違いでなければそれは怒りと呼ばれるはずのものだ。


 何故、と紅葉は考える。


 何故、この男が、何に憤っているのだろう? と。


「他に、は必要ですか? 私は“銀の星”の主。外部の者に握られては困る情報などいくらでもありますよ」


 ともすれば、神に祈りを捧げる聖女のように。

 男の激情の意味が理解出来ない彼女は、ただ微笑んだ。


「御影の当主ではなく、ただの一人の母親として。どうか、私に力を貸して頂きたいのです。私の二人の娘を、守る為に」


 その言葉の矛盾には、最後まで気付かないまま。

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