蒼玉ヘジテイト③
六大陸、“六角”を司りし少女──そして、六人の覇王の一人。名を、チトセ。
全身全霊をもって彼女に仕えること。それが、新たな生を与えられた彼に課せられた役目だった。
彼と同じ役割を与えられた者はそれこそ星の数ほど存在する。何人も何人も彼女に仕え、そして些細な理由で処刑されてきた。
彼女は横暴であり、尊大であり、紛うことなき暴君だった。
殺して、殺して、殺し尽くして──屍によって築かれた山の頂点に立つ少女。
六大陸と呼ばれた彼の地で、彼女に逆らえる者など一人もいなかった。歯向かえばその場で処刑された。
それでも、彼は覚えている。
『わたし……私は、こんな生は望まなかった』
そう言って、ただ一人。あの黒い巨城で泣いていた少女の涙を。
『ねぇ、どうして私は一人なの?』
だから、彼は手を述べた。
例え、世界の全てを欺くことになろうとも。
そして、世界の全てを焼くことになろうとも。
彼女の望む全てを叶える為に。
♦︎
『その約束は、君を縛るだけで決して救ってはくれないよ』
宝石のように碧く輝く湖の前で。赤い瞳の少女は男にそう突き付けた。
奇妙なことに、まるで憐れむような眼差しで。それは彼女の幼さとはそぐわなくて、言葉に出来ない居心地の悪さを作り出す。
『生者は死者を悼むことはあっても、縋ることはあってはいけない。──分かっているくせに』
すとん、と。奇妙なまでに腑に落ちる感覚があった。
そうだ、分かっていたことだ。だって、彼女自身も今のこんな自分を赦さないだろうから。
『前へ進むには、まず前を見なくてはならない。当たり前のことだ。だけどどうやら、それが出来ない者もいるらしい。私はそれを、今初めて知った』
思い出す。否、ただ反芻する。前を向けと、そう言って薄く微笑んだ女の顔を。
それが約束だった。それこそが、彼女が託した
だけど、だから。
『ねぇ、その約束とやらは、本当に守る必要があるものなのかい?』
出会ったばかりの、この少女がそれを口にしたことが、許せなかったのだと思うのだ。
♦︎
「ねぇ、わざとでしょ」
膨大な数の書物が眠る書庫で。埃を被ってすらいる古書を片端から読み耽っていた男は、人の気配に顔を上げる。立ったまま読んでいたからか、周囲には読み終わった書物が散らばってしまっている事に彼は今更ながらに気が付いた。
普段であればもっと丁重に扱うのだが。彼自身、目当ての内容に行き当たらないことに無自覚に苛立っていたのかもしれない、と思う。
そんな彼に向かって脈絡も無く呟いたのは赤い瞳の──双子の姉に生き写しの少女。
いつの間にか敬語も外れ、ツバキはよくこうして男に会いに来る。それが純粋に慕われているからなのか、それとも監視の役割を兼ねるのか、秋人には未だに判別がつかなかった。
結局ここに居座ることになってしまった理由を、定期的に考える。成り行きだとしか言えないがそれ以外に何かあるとすればロクでもない運命の所為なのかもしれない。
「……何が?」
口の端を軽く持ち上げて、秋人は笑う。
誰もが警戒を解くような、見かけだけは完璧な笑顔。しかしその目には光が宿らないことに彼自身は気付かない。
「あの時」
「あの時?」
「うん。秋人は水城にレイピアを盗られたから。だから仕方なく追いかけてきて……そしてなし崩し的に私達の世話係になった。でも」
あの時。
それが指すのは、男がこの場所に腰を据えるきっかけとなった時のことだ。もう随分と前のことのように思えるが、実際、悠に数週間は前の話になる。
「秋人は武器を召喚出来るでしょう。お母さんに剣先を向けた時みたいに。だから本当は、水城を追いかけなくても取り返せた」
「どうだったかな。俺は動転してたから、そんな事も忘れてただけだと思うけど」
「ううん。あの時の秋人、呆れてたけど焦ってなかった。私、ちゃんと覚えてるもん」
面倒だとでも言いたげに、秋人は息を吐く。破天荒な姉の方に目が行きがちだが、やはり一卵性双生児。妹もなかなかにペテンらしい。
「……君は、案外底が知れないな」
別に隠していたわけではない。少女が口にしたのは真実だが、指摘されなかったので黙っていただけの話。
「水城も多分気付いてるよ。だけど秋人が欲しかったから何も言わなかった。そして秋人は……閲覧禁止指定されてる区域の、書物の閲覧許可が必要だった。だよね?」
ツバキが指差すのは、秋人が先程まで目を通していた書物である。黒く、表紙には何一つ書かれていない古い本。本来、人目に触れるような場所に置かれていてはならないもの。
無論、彼等がいるこの場所は一般開放されている書庫だ。誰でも出入り可能であり、だからこそ誰にも不都合が無い文書しか置かれていない。
「水城は昔、【ミミルの知恵】で大人達の弱みを握って禁書の閲覧許可証を手に入れちゃったからね。そしてそれと引き換えにあなたを引き込んだ」
詰問するような言葉にも思えるが、不思議と椿自身に悪意は無いように見えた。ただ、何処か憐れむような目はいつか彼女の片割れから向けられたものと酷似している。
こんな感情を、七歳の少女が瞳に宿すのか、と。
あくまで他人事のように頭の片隅に浮かべながら秋人は目を細める。
「それが駄目だって言ってるんじゃないの。どうせ、お母さんも許可したでしょう? あの人はそういう人だもの。いつだって損得だけで動くんだから」
やや棘のある物言いに秋人は眉をひそめた。姉……つまりはミズキは、少々度が越しているとも思えるほど母である紅葉に心酔している。何か大層な理由がある訳ではないらしいが、そんなミズキとは違いどうやらツバキが母へ抱く感情はミズキとは違っているらしい。
この場合正しいのは二人の少女のうちどちらの反応なのか秋人には分からなかった。
ぽすん、と自身の足元に座り込んだ少女を見下ろす。男を見上げる赤い瞳は、あくまでも穏やかだった。
「お母さんの話は良いや。そんな事より、秋人にどうしても聞いておきたいことがあったの」
「また唐突だな。良いよ、何? 答えられる範囲でしか、俺は答えないけど」
「うん、大丈夫。……秋人はそういうところ、誠実だよね」
は? と。男は動きを止めて、再び少女に目をやった。それくらい、その二文字とは縁が無かった。
そもそも彼女の言葉には脈絡が無い。自分は『答えられる範囲でしか答えない』と言ったのだ。言い換えると口にしたくない事は教えないという意味であり、逃げの一手として秋人はよく利用する。
だから眉を顰められこそすれそんな言葉が飛び出す道理は無い。
聞き違いだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎり、不思議そうに首を傾げているツバキと視線が絡む。
彼の困惑を理解し得ない、幼い少女がそこに在った。
「……卑怯だと、そう言われる事の方が多いんだけどな」
「秋人?」
「いや……こっちの話だ。君はどうにも、」
ツバキは小首を傾げ、眉を下げて笑う。表情はまさしく幼い子供のそれだ。しかし、彼女の赤い目には時折何処か遠くを見るような、達観した色が混ざる。
──だけど、初めてではないのだ。似たようなやり取りの中、同じように返して笑った女が、かつて。
「水城が前に言ってたよ。『虚言を吐くことは害悪だが、真実を口にしないことは必ずしも悪だとは限らない』って。それはよく分かんないけど……秋人は少なくとも嘘はつかないって、そういう意味でわざわざ前置きしたんでしょう?」
いくら何でも、都合の良い解釈をし過ぎだろう。しかしそれは言葉にはならなくて、重い溜息が溢れただけだった。
ツバキには悪意や邪気が一切無い。だからこそ対応に困る事が増えている。
──ここに来てから、よく昔を思い出す。そして思うのだ。
「だからね、気にしなくて良いの。秋人はちょっと要らない保険をかけ過ぎてると思うんだよね」
「いや、俺は」
続く言葉は見つからなかった。
どうしてか居た堪れないような気分になり、男は手元の本に意識を落とす。瞼の裏がずきりと痛んだ気がして目を細めた。
様子のおかしい彼を不審に思ったのか、少女が名を呼ぶ声が酷く遠く聞こえる。
──約束を。約束を、果たさなくては。
この本には、求める情報は記されていなかった。『禁書』と指定され、誰の目にも触れられなかった多くの書物が男の周囲に無造作に散らばっている。
目を通せば呪われる。そう伝えられているのだと紅葉は口にした。『誰に』もしくは『何に』呪われるのかは不明だと付け足して。
どうなっても責任は持てないが読みたいのなら好きにすれば良い。読んだ後は元に戻すか、自分の物にするのであれば厳重に保管するか、最悪燃やしても構わないと、そう言って疲れたような表情を浮かべていた。
──こんな事をしている場合ではないのに。
実際のところ、秋人が望んでいたのは『本当に呪われる本』であった。とは言え呪われたかったなどと訳の分からない願望を抱いていたわけではない。求めていたのはそこに記載されているであろう事柄だけ。
しかし、閲覧禁止指定されている書物はどれもただの古い魔導書だった。様々な魔術が記載されたそれは、魔術師でもない秋人にはチリ紙に等しい価値しか無い。第一、“当たり”であったなら読む場所にも気を遣う。うっかり無関係の人間が読んでは目も当てられない。
そもそも基本は閲覧出来ないとは言え当主の許可さえあれば読めるような代物がそんなに得体の知れない書物であるはずもなかったのだ。
──こんな所には、いつまでもいられない。
(……耳鳴りが、)
刺すような痛みを訴える瞼を押さえる。目の前がチカチカと点滅しているような気がした。少々“読書”に熱中し過ぎたらしい。
ふ、と視線を戻すと、ツバキは黙って男を見上げていた。
「自覚は、無いの?」
自覚、とは何の事だろう。よく分からない。そう言えば彼女は何故ここにいるのだろうか。先程まで自分が何を考えていたかも曖昧で、意識がこんがらがっているような感覚だけが残っている。最近は不思議と、よくある事だ。
そうやって答えずにいるとツバキは何故か今にも泣き出しそうな顔をした。
「聞いておきたいこと、がね。あるの」
「──……急にどうした? 答えられる範囲でしか、俺は答えないけど」
そう口にすると、少女は唇を引き結んだ。卑怯だとでも思われたのだろうか、と男は考える。とは言え、慣れているのでそんな事は気にならないのだが。
だがそれにしては反応が妙にも見えるのは気のせいだろうか。
そう、まるで。何か手の施しようがない、痛々しい傷痕を目にしたかのような。
「あなたは暫くは、私達の側にいてくれるんでしょう?」
暫くとはどれくらいの期間を指すのだろう。数ヶ月か、半年か、数年か……それとも。
考えてみる。魔術師ですらない自分が、この地に長く身を置く未来を。自身が秘める目的すら果たさず、この場所で燻るだけの日常を。
それはまるで、
「大丈夫。深く考えないで、聞き流して?」
少女の声が思考を遮る。それだけで熱に浮かされたような思考がすぅ、と引いたような気がした。
彼女の瞳は澄んでいて、どうしてかこの場に似つかわしくない。幼い少女は微笑んでいた。あどけない表情に正体の分からない諦観を宿して。
「秋人。もしものことがあったら──お姉ちゃんを、守ってくれる?」
刹那の思考の空白の末に咄嗟に口を動かしたが、声にならない。言葉は紡がれない。
答えることは出来なかった。言葉の意味が、分からなかったから。
「この話はね、私と秋人だけの秘密ね。じゃあ、また」
それだけ言って、ツバキは立ち去ってしまった。もう話すことは無いとでも言わんばかりに。
残された彼は、ただその場に立ち尽くしていた。
……彼女には、一体何が見えているというのだろう?
姉と同じ顔をして、母に似た表情で。それでもあの少女が見る景色は他とあまりに違い過ぎるように思う。
真実を見通す水晶玉のような赤い瞳。あの目が拾い上げている真実は彼には分からない。
そうして、男はふと思い出す。
少女の母親との、あるやり取りを。
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