23 一番怖いのは人間
中国の豪族の家に生まれた彼は、名も与えられずに育った。
兄が3人おり男では4番目、姉も合わせたら6人目の子どもとなることから
母が奇病に倒れ、その薬を探すため四六は旅に出た。最初は手足が冷える程度だったのが、だんだんと身体全身が凍え、やがて心臓を止めるに至るものであるということが医者の見立てでわかった。その幼い四六の旅を止めるものが誰一人としていなかったのはいつも母に可愛がられていた四六を妬んでのことだったのか、単にその存在に気付かなかったのかはわからない。
旅の途中で山賊に殺されかけたところを、通りかかった老師の護衛に助けてもらった。何よりも幸運だったのは、その老師は薬師で奇病に効く薬を持っていたことだった。手持ちの金と引き換えに薬を譲ってもらい、四六はさっそく家に戻ろうとした。
そう、戻ろうとしたのだ。帰ろうとした家が、とっくに川の底に沈んでいることなんて知らずに。
やがて2年の旅を経て、帰ってきた四六は大河の底に呑まれた家に向かって涙を流していた。「
<小さき者よ、なぜ泣いている?>
「母様、母様を……なぜ、母様がなにをしたと……」
<母……ああ、生贄の女か。安心するとよい、慈悲深くも我自ら食ろうてやったわ>
膝をつき、土を殴り。むせび泣く四六の前で大河より上半身のみを出した水神は、なにかを胃の底から吐き出すようにせり出してわざわざ地面と同じ高さにまで下げてからその突き出た口を開けた。青い鱗がなめらかに光り、象牙色の一本一本が恐るべき牙のその奥。
恐怖に彩られた血塗れの顔、叫びをあげていたと思われる大きく開いた口。長い髪はやせ細ってなお高く結上げていて。その髪留めは四六が近所の子らに勉強を教えその対価の賃金で買ったものだ。それは間違いようもなく、四六の母だった。懐かしき母の面影に、目の前の事実を否定しようとふらふら自ら龍の口の中へと入っていく四六。その愚かな行為に口端を深くまでつりあげたのは誰だったか。
「あ……あ……」
<どうした、贄よ。我が体内で母と再会できるのだ、ありがたく思うがいい>
『坊や』
水神は、神だった。神が故にどこまでも傲慢で、人間を贄としてしか見ていなかった。おのれの食欲を満たし、享楽を得るための道具にしか思っていなかった。
そして四六は、どこまでも欲深な人間にしか過ぎなかった。小さき故に、堕ちる存在でしかなかった。
優しい母の声が耳元で蘇る。穏やかでいつも四六を抱きしめてくれていた母。温かい体温と、さらりとこぼれる黒髪。
そして足もとに転がっている、生首。閉ざされる顎。暗い視界と襲い来る身を裂かれる痛み。
『私の可愛い坊や』
「あああああ―――!!」
水神に呑まれた四六を、しかし世界は見捨てなかった。
欲深な人間の
そのどこまでも母の愛を受けたことだけを心に残して、矮小で卑小なはずの人間の
それから気づけば100年の時が立ち、四六は水神として生きていくほかなくなってしまった。
人里を襲い。母の死を弔うためだけに人を殺し、怪奇を殺し、死体を積み上げ。やがて中国中にその名は轟き居場所がなくなった。その頃には何のために殺し続けているのかわからなくなるくらい時を経ていた。
やがて追われて中国を出てきた四六は次の標的を日本という小島に決め、海を渡った。
そんな時だった。
海を渡りきり、手始めに一番近くにあった港町を襲おうとした四六に。その港町より突き出た岬に立つ空亡と名乗った男が赤い刀を龍形態であった四六に、その鱗の一枚を鮮やかにも切り裂きながら注意をそちらにそらさせたのは。満月に映える長い黒髪を揺らしながら陽気に話しかけてきたのは。
「やあ、こんにちは。……いや、こんばんはかな? 元人間の水神」
<元……人間?>
「あれ、ボクはそう聞いたんだけどな? ……ああ、人間であったことすら忘れてしまったのかな」
<あ……ああ……あああ……>
「どっちみち、ここはボクの妻の生まれ故郷でね。忌々しいが人間は誰一人として殺させないし、怪奇だってボクの配下だ。食わせやしないよ」
<母……様。母様……オレは、オレは何のために……」
母の愛を遠い過去とするくらいに時を過ごしていた。
なぜ死体を積み上げるのか、そんな疑問すら抱かぬほどにそれは習慣と化していた。元は母の遺体を弔うためだったというのに。
そんな思い出を、人間だった自分を取り戻した四六はその龍の目からただ涙をぼろぼろとこぼしていた。その四六を前に、刀を抜いていつでも殺せるようにしていた空亡はため息をついてそれをかちんと鞘へとしまう。
狩られると思っていた。自分より強者をいままで何度も倒してきたが、今回が最初で最期の失敗だったと。それくらいにこの男は、空亡という存在は大きかった。なぜこんな小さな島国にとどまっているのか不思議に思うほどに。
<お前はなぜここにいる? なぜ世界に出ない? お前ほどの力があれば……>
「変わらないよ。世界なんて、日本なんて本当はどうでもいい。ボクの居場所は、家族はここにあるのだから」
<か……ぞく、居場所……>
それは四六が切り捨ててきたものだ。中国で人を襲い怪奇を襲い。菩提に死体を積み上げることだけをしてきた四六はいつからか疎まれ嫌われ恐れられて。自分に、嘆く権利などないことは百も千も承知だった。
それでも、それでも。
ぼろぼろとこぼれる涙は水晶のように透き通っていて、四六の意思では止まってはくれなかった。静かに、途方に暮れて泣くことしかできない子どもみたいな四六を、見上げていた空亡は唐突に言った。
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