8 面白いことは率先して顔を突っ込んでいく

「……親父殿」

「なにかな? ぬらりひょん」

「親父殿には感謝してもしきれねえほどしとる。わしらぬらりひょんなんつー得体の知れねえ怪奇が西の賊改方なんて大それた地位につけたのは親父殿のおかげ。それはわかっとるんだが……」

「なんだ、王里になびくきかい?」


 腰の曲がった老人の姿をした空亡は楽しそうにそのしわのある顔をにやにやと歪めた。そこには目の前で部下が盗られようとしているのに焦った様子もなく、ただ愉快気で。リヒトの赤い目と合わさったそれは下向きの半月を描いている。それに対して困ったようにリヒトはがしがしとその短い短髪を掻く。

 再び目をつぶって、あーだとかうーだとか悩みに悩んでいる様子で腕を組んでから。ふっきれたようによし! と声を上げると、紫色の座布団の上に立ち上がり。固まっている他の怪奇たちを後目に。

 かっ!! とその切れ長の両目を見開く。

 それだけで。

 まるで魔法みたいに認識がずれ、蜃気楼のごとくゆらゆらとその身の輪郭が揺れて唐突に消えた。

 ざわめく空亡と王里以外の怪奇たち。


「なんだ⁉ ぬらりひょんはどこへ行った⁉」

「あいつめ、逃げたのか!」


 そんな声の中かすかに聞こえる音を、王里は決して聞き逃さなかった。いや、顔には出さないまでも必死に聞き逃さないようにしていたといえる。

 ひた……ひた……その静かな足音を。

 足袋と床のこすれる、そのわずかな音を掴んだ瞬間。王里は目を閉じた。

 世界は暗闇へと変わり、視覚を失った五感が、聴覚が鋭くなる。幹部たちの声が大きく聞こえるようになり左手に持った扇子を自分の頭より上の高さまで持ち上げる。頭の中が冴え冴えと研ぎ澄まされて一点の音だけに集中できる。その足音が上座、自分の座るところの前まで来て。

 一呼吸置き。

 ふと声変わりの終わった、けれど自分よりはまだまだ高い少年の声が頭の中で囁く。


 いまだよ。


 かっと赤い目を見開き、間になにかを捕らえるように扇子を閉じれば。

 ぱしんと振り下ろされた十手を、扇子の天辺……扇頂が受け止めた。それに再びざわめく幹部たち。

 十手は現役の賊改方のみが持っているものであり、この中では王里しか持っていないものだ。なぜなら改方から長になるため、ここにいる幹部たちは改方を経験こそすれ現役ではない。そしてこのリヒトも例にもれず現役ではない。ということはだ。ちらりと自身の座っている座布団の横を見ればそこに置いておいたはずの十手がなくなっている。つまりこの十手は誰のものか。十手についたぼろぼろになった古めかしい房飾りでわかる。

 幼い頃は人間の生活を学ぶためにと幼稚園に通っていた人間方面賊改方長官である王里の半身が、女の子たちに習ったのだと作ってくれたものだからだ。

 ぬらりひょんとはどこからともなく現れて「この家の主だ」と思わせることで居座る怪奇である。つまり認識をずらして思いこませる能力を持った怪奇であると王里は思ったのだ。

 だから理屈ではなく感覚を、自分ではなくこの身体に宿るもう一つの魂を信じ能力に惑わされないようにしたのだ。

 驚いた顔をしている十手を振り下ろしたまま固まっているリヒトと面白いものを見たと言わんばかりに長いひげをこすっている祖父。愉快気な態度を隠しもしない。


「坊……お前さん……」

「手癖が悪りィな、リヒトよォ。そらァ俺の十手だ、俺の半身が付けてくれた房飾りがついてんだろうが。返せ」

「……ふっ、面白いのう。親父殿」

「なんだい?」

「ここまで言われて断るっつーのは名が廃るってもんで。わしは次代様につかせてもらいますや。恩を返さずに失礼すること、どうかお許しを」


 どこか敬語のイントネーションが関西風なのはご愛敬というものだろう。口元を緩ませると、また蜃気楼のごとくゆらゆら輪郭がぶれ始め幹部たちの背後に等間隔に並べられた燭台のろうそく、その灯りだけが唯一の光源広間からその姿がかき消える。同時にまた、ひた……ひた……と足音だけを響かせて。

 次に現れたときには。

 王里側の、王里に一番近い下座の座布団へと悠々と座っていた。その意味に。王里に与するという行動に。

 幹部たちは騒ぎ始める。特に、炎のほの暗い灯りの下でもわかるほどに美麗というに相応しい顔、透き通った青白い肌に白い着物の袖で口元を隠した黒髪も美しい女がその赤い目を吊り上げて激しく言葉を吐きだす。つらら女だ。


「ぬらりひょん、あんた次代様につこうっての⁉ ……呆れた! そこまで先見がないなんて思わなかったわ!!」

「つらら女。いま必要なのは先見か? 違ぇだろ? そもそもわしが誰につこうが、てめえには関係のねえ話だろうが」

「空亡様に取り立ててもらって西の賊改方長官になって、空亡様を裏切ろうっての!?」

「それを言うなら坊こそ次期空亡よ。仕えるのがちょっとばかり早くなっただけの話だろうあしゃあ空亡に仕えることにしただけよ」

「そうだね、だから西の賊改方長官はぬらりひょんのままでいいよ」

「空亡様!! ……うー、なによ! このとんちんかんの鈍感野郎!」


 元々は青白いまでに白かった顔を真っ赤にしながら震え罵るつらら女に誰しもが生暖かい目を向ける。このぬらりくらりとしたぬらりひょんに対し、つらら女が秋波を送り続けていることは毎回のことで。2人が揃えば漫才じみたやり取りもいつものことだ。それでもその秋波に気付かないぬらりひょんにはある意味尊敬の念すらわき上がる。

 いつものやり取りで場が和んだところで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る