5 そう、平和だったから。
ふと。
月が陰った。
そう、平和だったから。
忘れていたのだ、王里たちは。いや、忘れていたわけではない。ただ、魔がさしていたといえばいいのだろうか。
この日本という国は怪奇は茅花という権力のもとにあり、鬼札はいつも自分たちの手元にあって当然だと思い込んでいた。他の花札は奪い合いをしていても、自分たちの鬼札を狙うものは現れないだろうといままでそうだったからという理由だけで。
故に、ざざあとひときわ強く冷たい11月の風が吹いた瞬間にはもう遅かったことを知らなかったのだ。
「ひゃっ」
「おい、華大丈夫か……は、な?」
「かいきのわかさま?」
「鬼札殿⁉」
「「「鬼札様⁉」」」
華は宙に浮かんでいた。ゴシックロリータについている長い真っ赤なリボンがひらひらと揺れて金魚みたいだった。比喩ではない。文字通り、浮かんでいたのだ。もっと正確に言うならば何者かの肩に担がれていた。しかしその正体はすぐわかることになる。
山伏装束に赤く鼻の高い目の部分だけを掘り抜いた面をかぶり、そこから赤い目が覗いている大男。そして花を抱えている左肩とは違う右手で持った9……11、13枚の鷹羽でできた大き目のうちわ。鷹羽でできたうちわは大天狗の証である。
影がないこと、赤い目は怪奇の証と日ごろから教えられ。昼間は日本人間方面賊改方として百目鬼町をとびまわっている人間の魂を持つ王里とは違い、茅花の本家で怪奇のことを教えられている華にはわかった。
「て……てんぐさん?」
「ほう、自らを攫うものに敬称をつけるか。大物と見るかうつけと見るかによるな」
「おい、そこの大天狗よォ。俺たちの華をどうする気だい?」
「決まっているだろう? 鬼札は我らがいただき、貴様ら空亡の時代を終わらせ大天狗の時代を始まらせるのだ!」
大仰に、まるで演説でも謳うように告げ、宙に浮かぶ大天狗は目元だけでにたりと笑う。その言葉に、王里は不愉快気に目を眇める。大天狗の言い方は華を花札としてしか見ていない。思考があり、生きていることを全否定するような兆候があったから。また、空亡の力を侮っているかのようで。
いきり立つ茅花の怪奇たちを手で留めながら、王里はどうするかを考える。いつのまにか出てきていた月がその白い肌を照らす。
(
怪奇日蝕とは、空亡のみに引き継がれその技が使えるからこそ空亡と認められるのである。それはまるで日輪で食むように怪奇たちを滅する御業だ。それから逃れられる怪奇などいるはずもなく。それが故に空亡は怪奇からすら畏怖を集める存在なのだ。
にやにやと意地悪く笑いこちらを見る大天狗を滅ぼしたくなったが万が一、億が一にも華に怪我をさせてしまったら。現在の華の身体は誰だかはわからないが怪奇の身体だと聞いている。鬼札は一新されるごとに新しい依代に宿り、その依代が例え老婆であろうとも年齢を巻き戻し赤子へと変えるのだ。
その時。
しゅるりとひそかになった木綿の音を、いったいどれだけの怪奇が聞きとれていたのだろうか。少なくとも羽扇の力で浮いている大天狗には聞こえず、王里だけは確かに聞き取っていた。にたりと、王里は笑う。それが気に障ったのか、苛立たしげな声で大天狗は問うた。
「次期の空亡よ。なんだ、その顔は」
「おい、大天狗とやらよォ。あんまり俺ら茅花をなめちゃいかんぜ」
「その通りですや、長官」
「なっ……貴様!!」
何ものかが声を出した途端、身体の自由が取れなくなって大天狗は驚く。唯一自由な顔だけを動かしてみると、自身の身体にはしゅるしゅると巻き付く白い布。先ほどまでなかったはずのそれに目を見開く。
町の見回りをざっと済ませてきた一反木綿が帰って来た時、運良くも大天狗の背後をとれたことは幸いだった。そのため、静かにその巨大な体躯に絡みついたのだった。もちろん白い布である一反木綿自身を見られてしまえば一目でわかられてしまうため、そちらに意識がいかないように反応を示していた王里や茅花の怪奇たちはたいそうの役者だった。巻き付いていく一反木綿を見ても声を上げないどころか顔色1つ変えずに、自らの手元に鬼札が、華が帰ってくるものだと思っていたのだ。
その時までは。
「なにをぐずぐずしているのだ?」
「お……長」
「鬼札を捕らえたなら行くぞ」
「華っ!」
「鬼札殿!」
「「「鬼札様!」」」
ぬうっと暗い空、その空間が歪んでそこからもう一人の天狗面をかぶった細身の青年が現れるまでは、確かに勝機はこちらにあったのだ。顔はわからないが、その身体つきを見るに大男とは親と子ほどの差がある。「長」と呼ばれたことにより、実力がこの華を米抱きにしている大天狗の上だということに王里は驚く。
本来、怪奇たちの世界では完全なる実力主義で上下関係も全て、一切合切は実力で決められる。たとえ生まれたばかりの赤子だろうが、長よりも強い力を示したらそれが長である。
ただ例外が空亡で。空亡は怪奇日蝕が使えるためにその血筋が重要視されているにすぎないのだ。
「かつての栄光どもよ、さらばなり」
「長」と呼ばれた大天狗は、鷹羽のうちわで大天狗ごと扇ぐ。ばさりと大きな音がしたと思ったら、不自然に歪んだ鷹羽の先から勢いよく二筋の炎が噴き出る。正確に言うならば、一つの主流から枝分かれした一筋が。枝分かれした方の方が動きが早く、華を抱えている大天狗に向かう。
「あちちちちっ!」
「一反!」
「いったんさん!」
放射された炎は意思を持つようにうねり、華を抱えた大天狗を傷つけることなく一反木綿だけを襲う。身体に燃え移ってしまった炎にたまらず声を上げた一反木綿はしゅるりと身体を大天狗から離す。
それだけではない。もう一方、主流の炎は吹き出された瞬間からその小さな羽根うちわから出たのだと思えないほどに大きな龍の形をとり、王里たちめがけて襲いかかった。
その巨大な咢を広げ、勢いよく襲いかかってくる炎の龍に気をとられたほんの一瞬の間に。
「かいきのわかさま!」
「っ! 華っ!」
ぬるりと歪んだ空間に身体を滑り込ませ、華を抱えた大天狗と「長」はまるで最初からいなかったかのように消えたのだった。
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