KAGURA
前花しずく
夏の日の幻
ホームに降りると、目の前には山が迫っていた。山と言ってもあまり高くは見えないが、如何せんその勾配の角度が圧倒的だ。夏本番の日差しを受け、深緑を携えた木々が山の存在を誇示している。駅の目の前にある山の頂上には、お城の天守閣のようなものも立っている。
改札で青春18きっぷを駅員に見せて、それをパンパンのバックパックに押し込んで外へ出る。よく言えば古き良き、悪く言えば寂れた駅前広場が光輝を迎えた。夏休みということもあって、一応観光客はそれなりに来ているようだ。
光輝はその観光客の流れに従って、左の方へ歩を進めた。北側にはさっき見えたものも含め、山々が奥の方まで続いている。道を進んでいくに従って、山の斜面に家やら道やらが出現し始める。急斜面に建つ瓦屋根の家々は、まるで時代に取り残された異国の地のような様相だ。
近付くにつれてどんどんその町の迫力は増していく。坂へ伸びる階段の一つへ一歩でも足を踏み入れたなら、誰もがその道に引き込まれるに違いない。光輝の足はどこへともなく進んでいく。
ある道は綺麗に舗装された石畳で、かと思えばそのまま小石をまばらに敷き詰めたようなでこぼこした道もあれば、突然九十度曲がっていたり、あるいは学校の裏口に通じている行き止まりの道もあった。坂の途中から後ろを振り返ってみたならば、瀬戸の穏やかな海峡を見渡すこともできるのだ。
夢中で坂を登っては戻り、坂を登っては戻りしていた光輝は、ふと凛とした空気を感じ取って、その場であたりを見渡した。先ほどまで常に視界に誰かしら他の人間が映っていたのにも関わらず。その坂の上にも、下にも、人影どころか気配すら感じられなくなっていた。
「こりゃいいや」
光輝はそう独り言を呟いた。そして、ふぅーっと軽く息を吐いてジャンプしてから、上り坂に向かって思いっきり身体を傾ける。次の瞬間、左足が限界まで縮んだバネのように、地面を強く突き放した。
一段一段、足の裏全体で着地しては、自慢のふくらはぎで身体を前へ前へと加速させた。一段、また一段と、段の距離が長くなっていく。それをまるで雷獣がごとく跳躍し、駆け上がる。
風を切る音、頬をなでる夏の空気。勢いそのままに、数十メートル、あるいはそれ以上先の直角の角まで、光輝は全身全霊を込めて走りきった。
心地よい疲れが足、そして全身を血に乗って駆け巡る。息をめいっぱいに吸うと、海と森が肺を満たしていく。――改めて目を開けると、目の前の石垣からは青々とした木が眼前に枝葉を広げていた。
まだ汗は少し額に浮いているが、息は落ち着いたので曲がり角の奥へ進んでいく。そこには苔むした薄暗い石段と、石でできた灰色の鳥居がひっそりと佇んでいた。鳥居の横の小さな石碑には、消えかけた「東福神社」の字が彫ってある。
鳥居をくぐると、雑然とした坂の町とは別世界のようで、自然の声だけが耳朶に直接響いてくる。そこには、超自然的な力が介在していると思っても不思議ではないような、そんな空間だ。
そこには赤い社があった。社と言っても立派なものではない。崖のようになっているむき出しの岩盤の、空洞になった部分にすっぽりと収まっている、正味50センチ立方程度の小さなものだ。祠と言ってもいいかもしれない。それはすっかり朽ちていて、朱色は褪せて木の色がむき出しになり、さらには柱が腐って手前側に傾いでいる。そよ風でもあろうものなら倒れてしまいそうだ。
社の下には日本酒を供えていたのであろうおちょこが一つ、土に塗れていた。もう何年も参拝に訪れる人がいない、そんな雰囲気だ。これだけ街に近いにも関わらず、一人も来ないなど妙なようであるが、しかし自分が好き好んで詣でるかと問いかければ、多くの人は首を横に振るだろう。神にすがれども、神を崇めるわけではない。時代に捨てられた神社が現代人に忘れ去られるのも、ある意味で当然の理なのかもしれない。
そのくせ、社の周りは雑草がいくらか覗いている程度で、荒れた様子はない。誰かが草刈りだけしっかりしているのだろうか。しかし、そんな人がいるならば、供え物の一つや二つあってもおかしくなかろうに。
偶然とはいえ、社を目にしたのだから拝んでいこうと、光輝は社の一メートルほど前に立ち、手を合わせて目を瞑った。――その時、どこからとなく、枝葉の囁きと共に、日本風の笛の音と、その笛に負けないほど旋律の滑らかな音が聞こえてきた。その透明度ゆえに、光輝がそれを人の声であると認識するのに十秒の刻が流れた。
それは社に向かって右手、斜面の林の上の方から響いていた。そちらを眺めてみても、木が密集していて奥の方が見えない。その生い茂った葉でやや薄暗くなり、木の根が這って足場も悪い林の中を、誰かに呼び寄せられるように突き進んだ。
しばらく行ったところで、光輝は声の主と思われる人影を発見した。林の中にほんの少しだけある開けた平地で、幾人かが太鼓やら笛やらを持って端の方に座っており、声の主と思われるその人は舞っていた。歌だと思っていたものは、どうやら何かに語り掛けるような「台詞」らしい。
その動きはまるで落ち行く桜の花弁のように繊細で、しなやかで、美しかった。太鼓、そしてよくわからない鐘のような楽器から流れ出る荘厳なオーラを、全身に纏っていた。今まで感じたことのないような気迫に、光輝は思わずまばたきさえ忘れてしまった。
最後に大太鼓が演奏の締めに鳴らされる。光輝はそのあまりに神秘的な儀式にしばらく動くことすらできずにいたが、はっと気がつくと、自然と大きく手を叩いていた。
「すごい……すごいです」
光輝が拍手をしながらその空間に足を踏み入れると、彼らはぎょっとした顔をして固まった。真ん中で舞っていた人も、少し驚いた表情で光輝の方を振り返る。
「あ、すみません……そこら辺を歩いてたら演奏が聞こえてきたので、途中から見学させてもらってました」
光輝が後頭部をかきながら軽い笑みを浮かべるが、それを見ても楽器を持っている人たちは互いに顔を見合わせて困っているようだ。とりあえず歓迎ムードではないらしいことは光輝にも理解できた。
「すみません、お邪魔なようなら失礼します」
勝手に入ってきたのはこちらなので、邪険に扱われても文句は言えない。そもそもこの林も、神社の私有地なのではないだろうか。そうこう考えて、このまま帰るのが得策だろうと光輝は思ったのだ。
「ちょっと待って」
意外にも、背後から呼び止める声がかかった。振り返らなくても分かる。先ほど美しい舞と声を披露していた、あの人だ。振り返ると和服姿のその人は、烏帽子を取りつつ光輝の元へ歩み寄ってきた。
「せっかく来てくれたんだし、そのまま帰るのは勿体ないよ。ちょっと寄っていかない?」
中性的な声と長い髪の毛で、男女どちらか分かっていなかったが、ここで向かい合って初めて男であることが分かった。切れ長の目にすっと通った鼻筋、スリムな輪郭、薄い唇。どこをとっても美少年と言うほかない。光源氏が実在したらこうであろうと思わせる、日本的な美形だ。光輝にそっちの気はないが、惚れてしまいそうになる。
「そんな悪いですよ……」
そんなことを言いながらも、光輝は内心嬉しかった。もちろん、休むことができるということもあるが、何よりその美少年の人間性に興味があったのだ。
「いいからいいから、さ、こっちだよ」
着物の袖を振りつつ、その腕は林の奥の方を指していた。ここでさえ、既に林の奥の方だと思うのだが、これより先に「寄っていく」ような場所などあるのだろうか。もしかしたら、そのまま林を向こう側に抜けられるのかもしれない。
「君は見たところ学生っぽいけど……大学生?」
美少年の後ろをついて歩いていると、振り返りながら質問を飛ばしてきた。無言である時間もなかなかつらかったので、ありがたい。
「いえ、高二っス」
「高二ってことは僕と同い年だね」
この美少年が自分と同い年であることに、かなり驚いた。顔こそ幼さが残っているようにも見えるが、その落ち着き払った所作はそこら辺の下手な大人よりも優美だ。
「近所の子?」
「いえ、関東から」
「随分遠くからきたんだね。ご家族と?」
「一人旅っスよ。自分探しっつーかなんつーか」
「一人!? その年ですごい」
美少年は大袈裟に目を丸くして見せる。実際、友人らからもそのたぐいの言葉をもらったことがあるが、光輝からすれば他の人と旅行へ行くのでは意味がないのだ。自分一人でなければ、意味がないのだ。どんな遠くへでも一人で行って、何も考えずに過ごして帰る。その何もなさにこそ意味があるのだ。
「……見えてきたよ」
美少年に言われて目線を上に向けると、思わず感嘆の声が漏れ出た。
「これって……」
それは巨大な木造の建物だった。一階部分はまだ木に遮られて見えないが、二階の部分が清水の舞台のような作りになっており、圧倒的な存在感を放っている。その柱や壁は古そうな木材なのに、その漆を塗ったような濃厚な茶色をきらめかせている。
──こんな立派な建物なのに、下の街からは見えないのだろうか。それとも見えていたのに気付かなかっただけだろうか。
「これがうちの神社だよ。さあ、中へどうぞ」
建物の周りには一段低い、縁側のような廊下が巡らされていて、その手すりが切れているところから靴を脱いで上がる。中へ入ると、そこには丸く太い柱が規則正しく並んでいて、梁が剥き出しになっている天井があった。床は全面板張りで、磨かれているのか林の緑が淡く反射している。
「すげぇ……」
それは修学旅行で見た社寺とさほど変わらないように見えた。──いや、保存状態のよさと神々しさから言うと、こっちの方が価値が高いと思えるほどだ。
「もしかしてこれ、国宝とか文化財とかそういうのっスか!?」
「まさか。田舎のただのおんぼろ神社だよ。今お茶菓子持ってくるね」
この歴史の塊のような建物が見向きもされないなんて、世の中はおかしなことばかりだ。文化財に指定されてもロクに整備がされていないところもあるそうだし、そう国ばかりをアテにすることもいけないだろうが。
基本的に襖やなんかは開け放たれていて、奥の部屋には屏風や掛け軸、活けられた花などが飾ってあるのが見える。振り返って外を見れば、先程の林が広がっている。こうして木造りの額縁に入る林は、林の中から見ている時とはまた違う風情を感じさせた。
──周りを見ていてふと気付いたのだが、いつの間にか楽器を演奏していた人たちはいなくなっていた。この神社の従業員だろうから、恐らくそれぞれの持ち場へ戻ったのだろう。
「お待たせ」
先程の美少年が小さな盆を手に光輝の元は戻ってきた。奥で着替えてきたようで、先程の重そうな衣装ではなく、よく神主が来ている白と水色の装束を着ている。
これまた年季の入っていそうな椀に入った抹茶と、二本爪のフォークをそえられた花の形の桃色の和菓子が、盆の上にちょこんちょこんと乗っていた。
「わあ、風流!」
「ごめんね、こんなものしかなくて。アイスとかスナック菓子とか出せればよかったんだけど」
「俺和菓子大好きっスから! 全然大丈夫です!」
「そう?それならよかった」
美少年はその切れ長の目をさらに細くして、首を少し傾けながら柔和な笑みを浮かべた。後ろで束ねた長く艶のある黒髪が揺れる。
「お水とか欲しかったら言ってね。井戸があるから水だけはいくらでもあるし」
「マジっスか。ありがたいです」
「それと……」
そう言いかけて、美少年はオロオロ、というかモジモジとし出す。今までの言動とのギャップが著しいが、そのビジュアルのせいでそれさえもご愛嬌といった趣である。
「同い年だし、敬語はやめない?なんかすごい気使わせちゃってるみたいで」
何を言われるか検討もついていなかったので、なんだそんなことか、と拍子抜けした。
「おっけ、じゃあ今からタメ口な。俺は石田光輝。君は?」
「光輝くん。僕は高橋啓嗣。よろしくね」
「けいし、か。よろしく」
啓嗣は、また首を少し傾げてはにかんだ。それが笑う時の癖なのかもしれない。
「啓嗣はこの神社の人?」
「この格好を見た通りさ。このおんぼろ神社の息子なんだよ」
クリスマスとかは祝ったことないね、と啓嗣は少し困り顔をする。
「じゃあやっぱりあれ?神主さんになるんだ」
「まあ……そうなるだろうね」
ふっと、啓嗣は儚げな表情を浮かべた。その目に灯る蝋燭の炎が、今にも消えそうに揺らめいている。
「正直、嫌だったりする?」
無礼かもしれないが、いつでも直球というのが光輝の信条である。そのせいでトラブルがあったりなかったりするが、その時はその時で、とりあえず本音をぶつけてみるのである。
「神職が嫌ってわけではないんだけどね。ただ、普通の人みたいに遊んだりできないのがちょっとつらいかな。それに──」
そう言いかけて、彼ははっとしたように空になった盆を掴み、立ち上がった。
「ごめん、今のは忘れて」
それだけ言い残し、そのまま奥へと下がってしまった。彼の性格を見るに逆上することはなかろうが、少し踏み込みすぎたかもしれない、と光輝なりに反省した。
そんな様子だったので、戻ってくるまでに少しかかるだろうと思っていたが、啓嗣は存外すぐに戻ってきた。本当に盆を片付けてそのまま帰ってきたらしい。客人を待たせていけないから、と急いだのなら、申し訳ない。
「話は変わっちゃうけど、光輝くんは色んなところ旅してるの?」
「まあそうだね。もう何ヶ所行ったか覚えてない」
記憶を手繰り寄せるが、いちいち記録などを録っているわけでもないため、かろうじて前回会津に行ったのを思い出せるくらいだ。何かを覚えることが、めっきり苦手なのだ。
「じゃあ京都とかも?」
「京都は修学旅行で行ったし、一人では行ってない」
そもそも、光輝はあまり有名なところへは行かない主義である。中程度の観光地、もしくはほとんど人のいないところへ行っては、人通りの少ない方へ流れていくのだ。
そんなわけで、神社に辿り着いたのも今回が初めてではない。あてもなく彷徨って辿り着くのは、大体登山口か神社なのである。
神社に着いた時には、決まって10円を賽銭箱に投げ、お祈りする。5円や50円がいいとは聞くが、そういった世間の言うことに逆らいたい性格なのである。今回も賽銭箱があればそうするつもりであったが、朽ち果てた祠はおろか、この立派な建物でさえ、未だ賽銭箱が見つけられていない。
「じゃあ北海道とかは?」
「北海道も一回行ったけど……あんときは大変だったね。フェリーで行ったんだけどさ」
「フェリーか! いいなあ! 僕、こんな海に近い所に住んでるけど、恥ずかしい話船なんて一度も乗ったことないんだ」
啓嗣はそう言ってはにかみながら後頭部を掻く。いちいち所作が艶めかしい男である。
「あんまいいもんじゃないぜ? そこまで揺れは酷くなかったけど、酔う人は酔うらしいし」
「でも一度くらいは乗ってみたいな」
啓嗣は光輝の話を聞くがよほど楽しいのか、満面の笑みを浮かべて光輝の目を見つめている。こうして誰かと向かい合って、目と目を合わせて話すことが、光輝にとってはいつぶりであろうか。
「逆に俺からも聞いていいか?」
「もちろん」
「さっきやってた、劇というか踊りというか……なんだったのあれ!」
「ああ、あれね」
啓嗣は少し恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻く。
「あれは神楽って言って、伝統芸能の一つなんだよ。広島とか岡山とか、西日本でよくやるみたい。詳しくは僕も知らないんだけどね」
「啓嗣めちゃめちゃかっこよかった! 声も、動きもめちゃめちゃ綺麗だった! 衣装も似合ってたし!」
「そう?そう言ってもらえると嬉しいけど」
啓嗣は目を細めて控えめに笑う。あまり表には出さないが、すごい喜んでいるように感じる。
「でも、本来人に見せるものじゃないからね。やっぱり恥ずかしいな」
「え? 人の前でやらないの?」
「もちろんほとんどの神楽は人に見せるためにやるものだけど、この神社での神楽は神事だから。本番もさっきの場所だよ」
「そんなの勿体ない! もっとたくさんの人に見てもらった方がいいぜ。絶対金とれるレベルだって」
「いやいや、光輝くんにそう言ってもらえるだけで十分だよ」
本人がそう言っている以上、さらに強く薦めることは光輝にはできないが、しかしあれだけ素晴らしいものが誰にも見られないのはやはり勿体ない。他の神楽を見たことがないから何とも言えないが、完成度は恐らく高い方だと思う。
「実は、その神楽の本番が明日なんだよね」
「そうなの! じゃあ今日のはリハーサルみたいなものだったんだ」
「うん、まあそんな感じ」
「明日も見に行っていいかな」
「もちろん。光輝なら歓迎するよ」
だったらなおさら練習しなきゃね、と言って、啓嗣はあーあー、と軽い発声練習のようなことを始めた。声は木造りの床や天井に跳ね返り、建物中に響き渡る。本気の声ではないと言えど、その透明感のある声が鼓膜を震わせるだけで、耳が溶ける心地だった。
「いい声だよなあ」
「褒めても何も出ないよ」
「冗談ではないぜ? ずっと聞いてたくなるような声だ」
啓嗣はその白い顔をほんのり赤くし、袖口で口元を隠した。このまま褒め殺していれば、そのうち真っ赤になった啓嗣が見れそうだ。
それを察してか否か、啓嗣はすくっと立ち上がって別の話題を持ち出した。
「光輝のカバン、パンパンだけど、何が入ってるの?」
啓嗣はそう言って光輝のカバンの近くに寄る。
「何ったって、数日分の着替えと寝袋くらいだな」
「寝袋!? 野宿するつもりだったの!?」
光輝の答えに啓嗣はその細い目を真ん丸にした。そこまで驚くようなことを言っただろうか。
「てっきりホテルかどっかに泊まるんだとばかり」
「高校生にそんな金ねえよ。切符代と食事代でいっぱいいっぱいだ」
「そうなんだ……」
それに、金がなくとも光輝は寝床についてまるで無頓着なので、寝られそうな場所があるならば自分から野宿を選ぶ可能性すらある。変人だと言われてもそこは素直に受け入れるつもりだ。
「だったら今日うちに泊まっていきなよ!」
「へ? いいの?」
光輝はこの建物が気に入っていたので、それは願ってもない申し入れだった。林から聞こえる虫の音を聞きながら、敷布団に寝転がるのは気持ちよさそうだ。
「どうせ僕しかいないからね。同い年の子と泊まりなんてワクワクしちゃうな……あ、嫌だったら無理にとは言わないよ」
「嫌なわけあるもんか! 喜んで泊まらせてもらうよ」
「本当!? やった! じゃあ客間に案内するよ!」
啓嗣は無邪気な笑顔を浮かべながら、光輝を奥の部屋へと誘導した。案内されたのは旅館のような畳の部屋。壁には掛け軸がかかっていて、いかにも「和室」という感じの部屋だ。
「じゃあ僕は準備してくるね!」
張り切っているのか、綺麗な声を張りながら、啓嗣は奥へと下がった。よほどうれしいのだろう。それほど友達が少ないのか、あるいは友達を作らせてもらえないのか……光輝はなんとなく、啓嗣が神主になりたくない理由を垣間見たような気がした。
それはそうと、泊まるとなればとことん楽しまなくては意味がない。男二人、腹を割って話してみるのもいいかもしれない。あれだけ美形なのだから、むかっしからさぞかしモテていることだろう。モテ男の恋愛事情を聴くのも面白そうだ。
「お風呂にする? ご飯にする?」
しばらくして戻ってきた啓嗣が開口一番そう言った。
「げっ、なんだよその新婚夫婦みてえな言い方……」
「あはは、ちょっとふざけた」
啓嗣は、今までの笑い方とは違う、いたずらっぽい笑みを浮かべた。この整った顔で歯を見せて笑う様子はミスマッチで面白い。
「先に風呂入るかな~。さっきちょっと走っちゃったし」
そう言いつつ、光輝は自分のTシャツのにおいを嗅ぐ。男はあまりにおいや汚れを気にしないイメージがあるかもしれないが、実際ものすごく気を使っている。運動部の部室は大体制汗剤のにおいが充満していて、逆に鼻がおかしくなりそうになるほどだ。光輝もそこまでではないにしろ、地味にこまめにシャワーを浴びたりしている。
「オッケー。それなら着替え持ってこっちに来て。寝巻はこっちで用意しとくから」
指示通り、カバンからパンツ一枚だけ取り出して、一応ミニタオルも持って、啓嗣の後をついていく。二人はそのまま渡り廊下を歩き、これまた古そうな小さな小屋へとやってきた。
「この中だよ。ここで服脱いで、奥がお風呂になってるから」
案内されるままに小屋に入って、六畳ほどの部屋で服を脱ぎ、タオル片手に奥の戸に手をかけた。開けて現れたのは、人が一人入れるくらいの大きなお釜のようなもの。
「すっげえ、五右衛門風呂じゃん……」
既にお湯が沸いているようで、その水面からはゆらゆらと水蒸気が上がっていた。
「光輝くーん、聞こえる?」
声の方に目をやると、壁の上の方に小窓があって、そこから啓嗣の頭だけが見えている。
「おう、聞こえてる」
「一応お湯は用意してあるけど、熱いかもしれないから気を付けてね。水で埋めるんなら隣の湧水を使って」
熱いかもしれない、と言われたので、一旦手を入れて確認してみる。……少なくとも熱すぎて火傷するような温度ではなさそうだ。湯船の隣に置かれた段を踏み台にして、右足、左足、そして胴体と、ゆっくり湯に沈めていく。溢れた湯は一気に流れ落ち、威勢のいい音を立てた。
「ちょうどいい湯加減だよ」
「本当? それならよかった」
そう聞こえると、小窓から見えていた頭は横に動いてどこかに消え、代わりに小屋の周りを歩く音が聞こえた。きっとさっき言っていた寝巻を用意してくれているんだろう。
外からはセミの声が聞こえるが、煩いと感じるほどではない。街中で聞くとイライラする声も、今この瞬間は秋の虫のように穏やかに聞こえるのだ。
そうやっていい気持ちで浸かっていると、ついつい長湯していたようで、小屋の周りを歩く音がまた聞こえたと思うと、さっきの小窓にまた頭が覗いた。そして、背伸びをしたのか、ギリギリ目も小窓から見えた。
「大丈夫? 生きてる?」
「あーすまん、長湯し過ぎたな。今出る」
「うん。じゃあ夕食の支度して待ってるからね」
啓嗣はそう言うと、まるで跳ねるような足音を響かせながら、風呂の小屋から離れていった。風呂を用意してもらって、さらにはご飯を作って待っているなんて、本当に新婚の夫のような気になってくる。
身体を拭いて、脱衣所に戻ると、旅館にあるような、浴衣タイプの寝巻が綺麗に畳んで置いてあった。着方はよく分からないので、適当に羽織って帯を適当に締めた。最悪下着が見えなければいいだろう。
元来た道を帰り、部屋に戻ると、そこには黒塗りの膳に乗せられた、まるでコースの料理のような食事が用意されていた。膳は向かい合わせに置かれていて、片方には啓嗣が座っている。
「おお〜、うまそう」
「ほぼその辺に生えてるのとってきただけだけどね」
漬物、おひたし、てんぷら、赤い椀には味噌汁。肉はわさび和えにされた鶏肉だけだ。ヘルシーではあるが美味しそうな品々である。
「それじゃあ早速、いただきまーす!」
神様の御前ということもあり、しっかり律儀に手を合わせ、光輝は白米と共に山菜のてんぷらを口にかきこんだ。軽く振られた塩がいい塩梅だ。
「うまい! こんなにうまいんなら俺も近所の山で探そっかな」
「変なの持って帰ると苦くて食べられないよ」
「やっぱある程度知識がないとダメかぁ」
光輝はそれぞれ形の違う葉っぱを箸でつまんでしげしげと眺める。ただの雑草のように見えても、なかなかに美味しいものだ。
「あっ、そういえばさ」
突然ふと思い出して、光輝は声を上げた。
「神楽のことについてもっと教えてくんない? すごいってのは分かるんだけど、細かいことがよく分かんなくてさ」
「うん、なんでも聞いてよ」
啓嗣はモグモグしながら光輝の質問を待っている。正直、何から質問すればいいか分からないので、根本的なところから聞いてみることにした。
「あれさ、劇みたいなものなんでしょ」
「うん、神道にまつわるエピソードを効果音付きで演じるみたいな感じかなあ」
「啓嗣がやってたあれはどういう話なんだ?」
啓嗣は箸を止め、一瞬考える。さっき見た感じでもかなり長そうだったし、一言でまとめることは難しいのかもしれない。
「まあ簡単に言うと……滝夜叉姫っていう悪者がいて、僕が演じてる大宅中将光圀が倒すって感じ」
「おおやの……なんつった?」
「おおやのちゅうじょうみつくに」
啓嗣は聞き取りやすいように一文字一文字ゆっくり口を動かす。
「いわゆる陰陽師ってやつだよ」
「お! 陰陽師! かっけぇ」
光輝はさっき啓嗣が舞っていた時の服装を思い出した。確かに、言われてみればあの着物は陰陽師のイメージそのものである。
そのあとも演目「滝夜叉姫」について、啓嗣は楽しそうに、詳しく話をした。具体的なお話の内容、見どころ、動きの名称なんか、いろいろと。
しかし、そこで光輝はあることに気付く。
「あれ? でもさっき啓嗣は一人でやってなかった? そのなんとか姫役なんていなかったような……」
「あ、うん。意外に細かいところまで見てるんだね」
意外というのは光輝の性格からして予想できないということなのか、単に触れられたくなかったのかは、啓嗣の態度からは測りかねる。
「実は今日は滝夜叉姫役の子が来れなかったんだよね」
「え? 明日本番なんだろ?」
「明日は来れるんだけど、彼女いろいろと忙しいみたいだから」
啓嗣は困ったように眉を下げる。その姫役がどんな子か気になったが、それは明日、本番を見てのお楽しみにすることにした。
──なんてことを話していると、いつの間にか光輝の茶碗は空になっていた。啓嗣はまだモグモグと食べている。日頃から部活などで早弁をしているから、その癖がついてしまっているのかもしれない。
「ごっそさん。全部うまかったぜ」
「お粗末様でした。食器はあとで片付けるから、そのままにしておいて」
「いや、流しまで持ってくよ。流しどこ?」
全部任せきりというのもなんなので、膳を持って立ち上がる。
「流しはそこを左に行ったとこだよ」
「りょーかい」
言われた通りに外の廊下を進むと、突き当たりにこれまた古めかしい流しがあった。その中に食器を置いていく。
隣にはご飯を炊くのに使ったのであろう釜があった。なんだかんだ、釜など日常生活の中では滅多に見ないので、光輝にとっては珍しいものだ。
調理場は目の前に横長の窓があり、外がよく見える。夏とはいえ、そろそろ夜の帳が降りて来る頃。セミの勢いも先ほどより大人しくなったようだ。
「お待たせ、今食器洗っちゃうね」
外を見てぼーっとしていると、後ろから啓嗣が早歩きでやってきた。さっき、器にはまだだいぶ残っていたような気がしたが、一気に食べてしまったのだろうが。あおれこそ光輝が急かしてしまったようである。
「もっとゆっくり食べててもよかったのに」
「でもその間暇になっちゃうでしょ?」
袖をまくり上げて水の中に手を突っ込みながら啓嗣はそう返してくる。広くはない調理場に冷たい水の音が反響する。
「先も戻っててよ。僕もすぐ戻るから」
光輝も何か手伝いたいと思ったが、正直この場にいてもなにもできることはなさそうで、逆に邪魔になりそうなので、おとなしく部屋に戻ることにした。
この部屋からも林がよく見える。こうして眺めると木々は一本一本形が違うのがよく分かる。闇に浮かぶそのとりどりの形の影は、電球色の明かりにあたってぼやっと浮かび上がっている。
動物の一匹でもいればまた違う趣があるのだが、なかなか野生動物と遭遇することは難しいかもしれない。そもそもこの林も大きいものではない上、住宅街に囲まれているので、そんな大層な生物は住んでいないだろう。いたとしてせいぜいカブトムシくらいか。
「お待たせ」
そうやって林を見つめていると、啓嗣が駆け足で戻ってきた。どうにもここへ来てから林に見とれて啓嗣が来る、を繰り返しているようだ。
「それじゃあ布団を敷こうか」
そう言って啓嗣は押入れを開けた。掛布団と敷布団が上下にそれぞれ積み上げられている。枕やシーツもその横に重なっている。
「それぐらいなら俺にもできるぜ」
できることはやらねば、と光輝は押入れから敷布団を引っ張り出し、適当に配置した。しかし、啓嗣はそれを横目にもう一枚敷布団を取り出す。
「あれ? もしかして啓嗣もここでねんの?」
「いやぁ、せっかくだから一緒に寝ようかなぁと思ったんだけど……だめ、かな」
啓嗣は懇願するような目線を送ってくる。別に啓嗣と一緒が嫌というわけではない。ただ、ここは客間で、啓嗣には啓嗣自身の部屋があるんだろうから、てっきり別の部屋で寝るのだろうと勘違いしていただけである。
「全然大丈夫だよ。さ、早く敷いちまおうぜ」
布団を敷くなんていうのはそこまで時間のかかることではない。ホテルやなんかだと敷いてくれることが多いが、この程度客にやらせればいいのに、と思わないでもない。敷き終わって、光輝は布団に寝転がった。
「久しぶりの布団だなあ」
「いつもはベッドなの?」
「そうなんだよ。まあベッドもベッドでいいけど、布団も布団でいいよな」
「僕はベッドに寝たことがないから分かんないや……電気消すよ?」
ああ、と答えると、その瞬間視覚情報が一切消えた。そこにあるのは耳から入ってくる夜の虫の声と、たまに吹く風に揺れる枝葉の音だけ。
「いいねえ、こういうの。自然と調和してる気がするわ」
「そう? でも喜んでくれたならよかったよ」
啓嗣の声だけが耳に届く。本当にうっとりするような声だ。囁く声なんかは、木の葉のこすれる音と聞き間違えるほど繊細だ。
「……なあ、せっかくだしコイバナでもしようぜ」
「コイバナ?」
「それだけイケメンだったら色恋話の一つでもあるだろ?」
そう言うと、しばらく返答は返ってこなかった。話したくないのか、それとも考えているのか、顔が見えないから判断できない。
「……とりあえず、僕は女っ気ゼロだよ。お付き合いしたこともないし、告白したこともされたこともない」
「嘘だろ? その見た目でか」
クラスのやつらでも、ただチャラいだけの男が彼女を作ってたり、正直かっこよさの欠片もないヤツが何股もかけていたりするのに、啓嗣に彼女がいないなんてありえるのだろうか。世の中分からないものである。
「コイバナではないけど、かわいい子なら一人知ってるよ」
「かわいい子? 惚れてんの?」
「そういうわけじゃないけどね。ほら、例の滝夜叉姫役の子。姫を演じるだけあって、なかなかの美人さんだよ。明日見てみるといい」
啓嗣の言葉をもとに、少し想像してみた。お姫様、といっても日本のだろうから、十二単とかを着て、引目鉤鼻おちょぼ口……? それだと光輝の感性で見るとかわいいとは思えない。
「まあ、姫って言っても悪役だから鬼みたいなお面つけるんだけどね。でも彼女自身はかわいいよ」
これだけ「かわいい」を連呼するあたり、やはり惚れているのだろうが。しかし、あんまりいじりすぎると啓嗣も参ってしまうかもしれないので、ここはちょっと我慢することにした。
……さて、コイバナがひと段落してしまうとなかなか話題が見つからない。光輝も話がうまい方ではないから、そんなにポンポンと言葉が出てくるわけではないのだ。そのままお互い何も発せずにいたが、光輝は遂にその静寂に耐えかねて適当に話しかけた。
「なあ」
だが、返答はなかった。代わりにスースーと心地よさそうな寝息が聞こえてきた。どうやらこの短時間ですっかり寝てしまったようだ。今日は光輝が来て張り切っていたし、多少普段とは違う疲れもあっただろう。
気持ちよさそうに寝てるし、いびきで起こさないようにしねえとな。光輝も、そんなことを考えながら目を閉じた。そこから夢の中に引きずり込まれるまでに、そう時間はかからなかった。
朝はセミの鳴き声と日差しで目が覚めた。目をこすりながら状態を起こすと、隣にあった啓嗣の布団は既に畳まれてなくなっていた。お寺や神社の朝は早いと聞くから、四時か五時には起きていたのかもしれない。
のそのそと起き上がって布団を畳み、シーツだけ別にして押入れの元の場所に戻した。ちょうど押入れを閉めたときに、奥から啓嗣が顔を出した。何やら家事をしていたのか、袖は方のところで縛られている。
「おはよう。今朝ごはん持ってくね」
仕事をしている姿も優雅だなあ、などと考えていると、醤油とみりんの混ざったような香りが漂ってきた。運ばれてきたのは甘辛く煮た大きく切られた鶏肉と、お味噌汁、そしてお漬物。量は晩御飯よりも控えめな感じだ。
「いただきます」
朝と言えど光輝の早飯っぷりは変わらずで、飲むように次々食べていく。味噌汁の具材が昨日は豆腐と山菜類だったのに、今朝は茄子やネギも入って具沢山だ。
「ごっそーさま!」
「相変わらず早いなあ。お粗末様でした」
今回はしっかり啓嗣が食べ終わるのを待ってから、一緒に流しまで膳を運んだ。
「いやあ、そろそろ本番じゃん。緊張してる?」
「まあね。しかも今回は観客が一人いるしね」
啓嗣は洗い物をしながらまた恥ずかしそうに笑う。後ろから見ると、その長い黒髪が小刻みに右へ左へ揺れる。触れてみたいくらいにサラサラな髪だ。
「よし、じゃあ行こうか」
髪に見とれているといつの間にか皿洗いは終わっていたようだ。男の髪に見とれるなんて気持ち悪いじゃないか、なんて光輝は心の中で自分に毒づきつつ、また一緒に並んで部屋に戻った。
「じゃあ僕は準備してくるから、光輝は先に出てて」
そう言ってまた啓嗣は奥に引っ込んだ。早く例の衣装を纏った啓嗣をもう一度拝みたいものだ。しかし、昨日から楽器を演奏していた人たち以外の人間をこの神社で見ていないが、啓嗣の着付けをしてくれる人がこの奥にいるのだろうか。さすがにあの衣装を一人で着ることは例え啓嗣でもできないのではなかろうか。
あれこれ考えても仕方ないので、とりあえず自分の持ち物をすべてカバンに詰め込み、外廊下を歩いて、昨日上がったところで靴を履く。
「おまたせ」
靴の紐を結び直している時に後ろから声をかけられ、振り返ると、既に着替えを済ませた啓嗣がそこにいた。光輝もそこまでモタモタしていたわけでもないので、啓嗣はかなりの早さで着替えてきたことになる。この重厚そうな衣装をこんな短時間で着ることなどできるのだろうか。
「早かったね」
「早く舞台に行きたかったからね」
啓嗣は冗談めかして言う。まあ、いくらありえないと言ったところで、現実に着替えて啓嗣は目の前にいるのだから、どうこう言っても仕方あるまい。
「啓嗣様」
急に啓嗣ではない、野太い男の声が聞こえてぎょっとして辺りを見回すと、目の前にいつのまにか例の楽器奏者たちがいた。今の声はそのうちの一人のおじいさんのものだったようだ。
「本当にこの者に見物させるのですか……?」
他の若い男女三人の奏者もうんうん、とやめさせるように促している。やはり、啓嗣以外には光輝は歓迎されていないらしい。
「いつも通りやれば大丈夫だよ。そうでしょ。さ、行こう、光輝」
「しかし……」
啓嗣は奏者たちの進言を無視して、光輝の腕を引っ張って半ば強引に歩き出す。
「啓嗣、本当に大丈夫なの? 険悪ムードだけど」
光輝も流石に心配になって小声で啓嗣に訊ねる。
「大丈夫だ。僕に任せて」
啓嗣はそうやって、至近距離でウインクをしてくる。その黒い瞳に光輝は引き込まれ、なんだか難しいことを考えることができなくなって、なんとなく首を縦に振っていた。
「さあ、ついたよ」
昨日の広場に到着するや否や、さっきの奏者のおじいさんに腕を痛いほど捕まれ、広場の端っこの方に押し倒された。
「今から舞が終わるまで、ここから断じて動くな。断じてだ」
「あ……はい」
そこまで強く念押しされてそれに反抗しようとは思わないが、見る場所を指定するのにそんなに強く言う必要があるだろうか。
光輝が座って動かないのを確認すると、奏者は舞台左奥の定位置に、座布団をおいて楽器を構える。啓嗣はもちろん舞台の真ん中に立って、目を瞑って深呼吸をしていた。その神々しささえ感じる面持ちは、さっきまでの恥ずかしそうな表情を浮かべていた啓嗣とはまるで別人だ。
――そして、その啓嗣の横に、いつの間にか鬼の面を付けた、巫女衣装の人が立っていた。お面を付け、黒くでかいカツラを被っているので顔は全然見えないが、その小柄で華奢な身体から見るに女の子だろう。啓嗣が言っていた、例の「かわいい子」なのかもしれない。
光輝の視線に気付いてか気付かずか、その人は仮面を静かに外した。でかい面に似合わず顔は小顔で、どちらかというと幼いような子だった。確かにこれは美人の部類かもしれない。後で話せる機会があれば話そう、と光輝は勝手に一人で盛り上がっていた。
……と、神楽は突然に始まりを告げた。和笛の甲高い音が場の空気を一変させる。そして、かねの「ちゃんかちゃんか」というリズミカルな音に合わせて啓嗣演じる光圀がスピード感溢れる舞を見せる。回転が非常に多い構成で、常人だと目を回してしまうに違いない。
光圀のソロパートが終わると、待機していた滝夜叉姫のソロパートが始まる。この時点ではまだ化け物の滝夜叉姫ではなく、人間の五月姫なんだと、啓嗣は昨日言っていた。さっきの鬼の面は化け物になった時に使うらしい。前半は五月姫のところは、女性らしい舞を楽しむといい、とも言っていた。
そして光圀のソロをもう一度挟んで、いよいよ化け物滝夜叉姫の登場となる。さっきまで綺麗にまとめていた髪を振りしだき、太刀を振るう。光圀もそれに太刀と幣束を持って対抗する。
ここで、滝夜叉姫役の最大の見せ場、鬼の面を被るシーンがやってくる。奥から手前に大きく跳ねて着地したかと思うと、その髪が乱れた一瞬で鬼の面を被る。観客からは付けている瞬間が分からないほどの早業だ。
仮面を被った瞬間から禍々しい気が彼女を包み、黒い空気が渦巻いているように見えた。――いや、本当に渦巻いていた。
光輝も自分の目を疑って幾度となく瞬きをしたが、明らかに彼女の身体から自然発生的に黒い渦が生成されていた。それを見た啓嗣は舞を乱し、流れを無視して仁王立ちになった。滝夜叉姫役の子も、もはや神楽など眼中にないといった様子で、黒い霧を纏って高らかに笑い始めた。
「いーひっひっひっひ……この場に人間を連れてくるとは……我も舐められたものよ」
彼女がそう言ったかと思うと、黒い霧はさらに濃さを増し、あろうことか彼女は黒い霧に紛れて宙に浮かび上がった。鬼の面は青い炎に焼かれて灰になり、彼女本人の顔がはっきりと見えた。顔こそはさっきみたままの女の子の顔だが、その表情は愉悦に浸り、半ば狂気のにじむような顔をしている。彼女の纏う黒い霧からは黒い稲妻が四方に飛び出し、空中で何度も折れ曲がって、近くの地面を轟音と共に焼いた。
そんな中でも、囃子だけは止まることなく軽快なリズムを奏で続けている。
「くそっ、例年より力が増している……」
「ふふふ……去年まで芸能ごっこに付き合ってやっていたのは服従したからではない。こうして復活の時を待ちわびておったのだ」
そういいながら彼女――滝夜叉姫が腕を一振りすると、啓嗣に向かって無数の黒い稲妻が飛び掛かった。光輝は思わず目を瞑ったが、啓嗣は幣束を掲げて、その雷撃を逸らせた。
かと思うと、啓嗣は左に持っていた太刀を捨て、空いた左手の人差し指と中指を立てた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……」
そう唱えながら、啓嗣が不思議な手の動かし方――印を結ぶというやつだろうか――をすると、途端に滝夜叉姫は苦悶の表情を浮かべ、黒い霧がまるでにぎり潰されるように小さくなっていく。
「おのれ小癪なあ……!」
呻き声にも近い低い声を発すると、滝夜叉姫は光輝と目を合わせ、そこでニヤッと恐ろしい笑みを浮かべた。
「悪く思うな……人間」
「まずい……!」
次の瞬間、光輝へ向かって黒い稲妻が牙を剥いた――……が、稲妻は光輝に直撃することはなく、それて近くの木を燃やした。顔を上げると光輝の目の前には、この期に及んで笛を吹き続けている、先ほどのおじいさんが立っていた。
「伴造!」
伴造、と呼ばれたおじいさんは、笛を吹きながらも啓嗣に向かって目で合図する。啓嗣はそれに大きく頷くと、再び力強く呪文らしきものを唱え始めた。
「急々如律令、急々如律令……」
「ヤメロォォ……ソレ以上忌々シイ言葉ヲ発スルナ……」
徐々に滝夜叉姫の勢いが収まっていき、彼女は頭を抱え込んだ。
「オノレ……ミツクニィィィィィィ」
「……今世では仲良くできると思ってたのに。残念だよ、五月姫」
そう言い残し、啓嗣は懐から何やら札を取り出して、そのまま滝夜叉姫に投げつけた。滝夜叉姫はつんざくような悲鳴を上げたかと思うと、黒い霧もろとも、異界に吸い込まれるかのように忽然と姿を消した。
「啓嗣、お前は……」
「光輝くん、ごめん」
啓嗣は悲しげな顔をして光輝の元へ歩み寄ってきた。
「もしかして」
「何も言わないで、何も」
啓嗣はその細く長い、綺麗な指を、光輝の口に当てた。
「何も言わないで、そのまま目を閉じて」
でも。そう言いたかった。しかし、啓嗣の目を見ると、なぜかそれは憚られた。そしてゆっくりと、光輝は自らの瞼を閉じた。
「ありがとう、楽しかった」
至近距離でそう言われたかと思うと、次の瞬間、唇に何かが触れた。その甘さに脳が溶け、そして意識もゆっくりと溶けていった。
あまりの暑さに光輝は飛び起きた。一瞬状況が分からなくて、周りをきょろきょろ見渡す。しばらくぼーっとして、街の景色からやっと自分が尾道にいることを思い出した。
そう、衝動に駆られて目の前の坂を駆け上がってきたのは覚えている。だがそれから自分は何をしていたのだろう。疲れたとしてもこんな炎天下の道端で寝るだなんてこと、適当人間の光輝といえどもありえない。
道は左右ともに壁になっていて、これ以上上がれそうもない。完全な行き止まりだ。首をひねりつつも、光輝は元来た道を下り始めた。
……だが、まだロクに観光もしていないのに、光輝はこの街がやたらに好きな気がした。そしてもう一度、今度は友達や家族なんかと一緒にこの地を訪れたいと、そう思った。
KAGURA 前花しずく @shizuku_maehana
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