第ニ話
そうして霧が漂う早朝、華鈴は山神様の祠へと連れられてきた。木でできた小さな祠は、山の木々に挟まれ埋もれるように建っていて、とてもこの山を守る神様の祠だとは思えなかった。
祠の前で山神様が出てくるのを待てと言われ、華鈴は寒さに耐えながら大人しく待っていた。しかし、どれだけ待っても山神様は現れず、仕方なく生贄である華鈴が山神様を探し歩くことにしたのである。しかし、村から一歩も出たことがない華鈴が山歩きに慣れている訳もなく、山神様に会うより先に迷子になりそうだ。裸足で歩き回っているために、もう手足の感覚はなく、凍傷寸前だった。
それにしても、本来なら祠にいるべき神がどうしていないのだろうか。
震える身体を抱き締めながら、華鈴は不思議に思う。しかし、その答えとして思いつくのは華鈴自身の問題だ。村人たちの言葉を思い出すと、胸が痛くなる。
「山神様、華鈴はここです。私があまりに罪深い者だから出てきてくれないのですか?」
華鈴が足元から崩れ落ち、地面に向かって嘆いた時……後ろから、ガサッという音がした。
山神様だろうか? そう思い震えながら華鈴が振り返ると、分厚い毛皮を着込んだ、人ではない何かが立っていた。華鈴の三倍はあろうかと思う背丈、肩幅、存在感に圧倒される。
華鈴を見下ろす何かと目が合う。口元の鋭い牙、額の角、ギラリと光る瞳、それら全てが恐ろしく、同時に美しいとも思った。
先程まで暗く曇っていた空の隙間から顔を出した太陽の光を背に、その存在は華鈴をじっと見つめていた。
きっと、山神様に違いない。
「どうか、私を召し上がって、この胡群に恵みを与えてください」
華鈴は、落ち着いた丁寧な所作で頭を下げた。気配が近づく。食べられて、自分も両親のところへ行くのだ。もう誰にも迷惑をかけない場所に行ける。
恐怖よりも、この世から解放されることに喜びを感じた。
それなのに、いっこうに山神様は触れてこないし、牙も立てない。何をしているのか華鈴は気になって、華鈴は恐る恐る顔を上げてみた。
すると、山神様も何故か同じように頭を下げているではないか。
「……あ、あの? 山神様? 何を……?」
戸惑いながら声をかけると、山神様は口の端を上げて、牙を見せる。まるで、笑っているようだ。そこに可愛げも無邪気さも明るさも感じられず、ただただ怖いだけなのだが、華鈴は思わず笑みを零した。
しかし華鈴はすぐに表情を引き締め、身体を萎縮させる。
「ごめんなさい、私なんかが……山神様に笑いかけるなんて。本当に、ごめんなさい」
何度も頭を下げていると、山神様の大きな手に止められた。不思議に思い山神様を見つめると、首を横に振る。
謝らなくてもいいということだろうか?
しかしそれは自分に都合良く考え過ぎだろう。
本当に、何もかもうまくいかない。後ろ向きな考えは止まらないし、涙だって枯れることなく流れ続ける。落ち込んで、華鈴は下を向く。
「……わわわっ!」
突然、山神様に抱えられ、その広い肩に乗せられた。硬くて、しっかりした皮膚が布越しに伝わる。山神様はそのまま華鈴が来た道をずんずんと戻って行く。目的地は、おそらく山神様の祠だ。
降ろして欲しいとも言えず、大人しく山神様の肩に座り、落ちないように山神様の着ている毛皮を持つ。
祠に着くと、山神様は優しく華鈴を下ろした。こんなに大きな山神様が華鈴の背丈よりも小さい祠に入れるのだろうか。と華鈴は心配していたが、それは杞憂に終わった。
祠は、主が戻ったことで、大きな
門のように立つ二本の柱には境界となる縄が渡されており、その縄をくぐった先に社の入り口となる扉がある。
山神様に入るように促され、華鈴はおずおずと足を踏み入れる。美しく磨き上げられた床板が、傷ついた足に暖かく感じられた。どうやらこの社、幻ではないらしい。確かに華鈴の脚は木の板を踏んでいる。
「おい、山神。お前どこほっつき歩いてた?」
扉を開けると、突然、鋭い叱責の声が耳に届いた。
反射的に華鈴は謝り、頭を下げる。怒鳴られることと、謝ることには慣れ過ぎていて、身体が勝手に反応してしまう。
「山神……なんだ、このこ汚ねぇガキは」
口がとんでもなく悪い人だ。ビクビクしながら顔を上げると、こちらを訝しげに見ているその人と目があった。どこか人間離れした雰囲気を持ち、長い赤銀色の髪を紐で無造作にまとめている、しかし綺麗な顔立ちの青年だった。鋭い碧の瞳と目が合うと、大きく舌打ちをされた。青年は濃紺色の着物を着崩し、不遜な態度でこちらを睨んでいる。
青年の背丈程もある大きな鎌を軽々と手に持ち、「こいつ、斬るか?」とでも言いたげな目をしている。青年が肩に乗せた鎌の刃には美しい龍が彫られていて、華鈴は思わず見惚れていた。今にも動き出しそうなほどに力強い龍と、強そうな青年にかかれば華鈴の魂など簡単に狩られてしまいそうだ。
しかし、山神様に命を捧げるために来たのに、こんなところで見ず知らずの青年に殺される訳にはいかない。慌てて華鈴は声を出す。
「……あ、あのっ! 私は華鈴といいます。山神様にこの身を捧げるためにここにいるのです。あ、あなた様に捧げる命はないのです……ご、ごめんなさい……」
ギロリと睨まれ、後半はボソボソとしりつぼみになる。
「俺は別にあんたみたいなガキには興味ねぇ……俺は山神に用があんだよ」
山神様に対してなんとも失礼な態度である。神を前にしても動じない、むしろ傲慢な態度をとるこの青年は、一体何者なのだろうか。
それに、ガキガキと言われているが、華鈴はもう十六。冥零国は十六で成人だ。もう子どもではない。そう反論したいが、気弱な華鈴には到底できそうになかった。
山神様は華鈴を庇うように前に出て、青年に近づく。そして、華鈴をちらりと見てにっと笑う。大丈夫だよ、とでも言うように。そして、山神様は青年の耳元で何かを囁く。その言葉を聞いた途端、青年の瞳が大きく見開かれた。彼は、信じられない何かを見るような目で華鈴を凝視していた。
「このガキが、
青年の呟きが、静謐な空気に吸い込まれた。
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