明日を夢見て鬼は笑う

 ああ……いやだいやだ。

 何もかもいやだ。どうにもならない。どうしようもない。

 変わらない。変えられない。ダメだダメだダメだ。

 怖い怖い、恐ろしい。いやだいやだ。

 無理に決まってる。出来ない。誰も助けてくれない。何も解決しない。

 足りない足りない。時間が金があれもこれも足りない。

 ああ、怖い、苦しい、ムカつく。何もかも、どいつもこいつも。

 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。


「……つまらん。寝覚めの悪ぃ夢、やね」


 酒呑童子は暗いうろのなかで意識を取り戻した。金属の雪崩に飲み込まれる直前に全力で放った一撃で作り出した空間のおかげで押しつぶされることはなかったが、僅かな間その意識が飛んでいたようだ。


「囲まれとるね」


 見れば周囲を無数の蛇が取り囲むように金属片がガラガラと渦巻いている。そこからドロドロと液体が流れ出し、その表面には泡がブツブツを現れては潰れていった。


 いやだ こわい いやだ にげたい


 泡が潰れる度、呟くような声が耳朶じだに触れる。虚ろな声はその内容こそハッキリしないが暗い感情だけはヘドロのように身体に沁みついてくる。


「ぐっ……!」


 ベトついた液が酒呑の肩に垂れるとジュッと音を立ててその肉を抉った。

――鬼の力が鬼によく効くってのは道理……酒に溶ける氷やね、アタシは。

 身を縮め後ずさりながら呑龍を構える酒呑の目の前にひときわ大きなドロドロの塊が落ちてきた。身を庇う腕を焼かれ溶かされる彼女の前でドロドロが囁き始める。

 

「……何も見たくない聞きたくない。アンタも溶けてしまえばいい。それがいいそれがいい」

「…………」


 見ればドロドロのなかで少年が半身を溶かされながら酒呑へと手を伸ばしていた。虚ろな瞳でうわ言のように同じ言葉を繰り返しながら。絶句する彼女の胸元でスマートフォンが激しく震えた。


「潮時だ。酒呑童子、そいつを滅するんだ」

「……上司」

「そいつは力に呑み込まれた。どうすることも出来ない。本体が近いのは幸いだ。早く滅するんだ」


 まるですぐ傍にいるかのように酒呑の仲間の声が響いた。有無を言わさぬ声の圧に彼女は目を伏せる。


「あんたはつまらんな。こんなごく普通の少年一人助けようとしないとは」

「ただ一体のロ号鬼ごうきであるお前を失うわけにはいかん」

「こういう事態の為にアタシは作られたんと違う?」

「場所が悪い。ここ渋谷では人間の悪感情が強すぎる。茨木のときのようにはいかない」

「……だから倒して戻れ、と?」


 呑龍を握りしめた酒呑の指がミシリと軋む。俯いたその視線が少年の姿を捉える。

 酒呑が口を開こうとした瞬間、少年の伸ばした腕は折れ曲がり千切れた。


「あっ……!」


 酒呑は思わず手を伸ばしかけ、そしてそのまま俯いた。


「上司、アタシは……」

「…………」


 息の詰まる沈黙の中、酒呑の身体が侵食される音だけが響く。

 そして――男のバカみたいに大きなため息が聞こえた。

 

「はぁ、馬鹿馬鹿しい。まったくもって馬鹿馬鹿しい! 第一どうする気だ?」

「上司? ええの?」

「策があれば、だ。無策で特攻など認めん」


 ケヘッ‼


 その言葉に鬼の姫は不敵な笑みで応えた。



 § §



「……結局、力押しか。理には適っているが」

「あっ!? ええやろ!? コレなら最悪アタシは逃げ帰られるんやから」

「どうせそんな気は……いや、いい。こちらは回収ポイントに向かう」

「分かった」


 手短にやり取りを済ませると酒呑童子はスマートフォンを胸元に突っ込もうとする。するとスマートフォンがブルッと激しく震えた。


「ッ!……おい、酒呑。必ず戻ってこい。そいつも連れてだ。これは命令だ」


 一方的にそれだけ告げるとスマートフォンは電池が切れたようになんの反応もしなくなった。


「……バカ。最初からそれを言いよ。そしたらアタシだって……」


 酒呑は唇を尖らせスマートフォンを睨みつける。

 彼女は胸元にそれをしまい込むと金砕棒をブンと振り回し構えた。その瞳に迷いはない。


「ええわ。どのみち今日は珍しく言うこときいたるつもりでいるんやからなぁ!」


 鬼の姫は吠えると自らを溶かす汚泥へと迷うことなく歩を進めた。

 ジュウジュウと音を立てて溶け出すその脚が溶けると同時に内側から膨れ上がり元通りになっていく。


「少年! アタシはアンタを無理やり助けて連れ帰ることにした! 珍しく上司からのお許しももらっとることだし勝手にそうさせてもらうよ!」

「…………」


 顔と胴体を残して汚泥に溶けかけた少年は虚ろな瞳で彼女の姿を追っていた。それは助けを懇願こんがんしているようにも怒りを訴えているようにも見える。

 汚泥に身体を溶かされながらも酒呑は肉体の再生と歩みを止めない。泥をかき分け腕を少年へと伸ばす。


 いやだ、いやだ、いやだ。

 怖い、怖い、怖い、怖い。

 いやだ、いやだ、いやだ。


 汚泥から無数のうめき声が聞こえてくる。その声に呼応するように少年の身体が揺らめき始めた。


「つらつらやかましいっ‼ こんなんアタシらにとっちゃ当たり前やろ‼ アンタも鬼やろが!? 人の悲しみと一緒に沈むなや‼ 上を見上げぇ‼ アタシを見ろ‼」


 うめき声を叩き潰すかのようにもがき腕を伸ばす酒呑の指先に少年の手が触れた。ケヘッと笑い彼女は少年を汚泥から引っ張り上げた。



 § §



「やっと捕まえた! 少年聞こえる!?」

「……ああ、なんとか。こんなんでも、鬼は死なないんだね」

「そらそーよ! 鬼やからね」


 酒呑の笑みに目を細めた少年はぎこちなく周囲を見回し彼女に尋ねる。


「……どーすんの、この状況?」


 辺りは汚泥で溢れ、そこから無数のうめき声が漏れだし空間を満たしていた。その様は人間の悪感情の坩堝るつぼであり人の身であればまたたく間に発狂してしまう地獄の光景と化していた。


「少年! そっちの残った手でアタシと握手しとって!」

「わかった」


 言われるがまま少年は抱きとめられた状態で酒呑の手をとった。


「おしっ! こっから少年を通してアタシがこの一帯のエネルギーを吸い上げる。暴走するだけのパワーがなくなれば無事脱出って算段よ!」

「……え? 流石に無理、でしょ?」


 辺りに満ちた人間の悪感情というエネルギーが桁違いなのはその核である少年が一番良くわかる。いくら眼の前の鬼の姫でもこれをどうにかできるとは考えられない。彼女の能力でエネルギーを集めたところで捌け口がなければどうしようもないではないか。


「ええから! 少年は最後の最後で命まで吸い上げられないように気張っとり! ここはアタシとこの、呑龍にお任せよ!」


 胸を張って告げる酒呑に少年は思わず頷いた。彼女は満足そうに笑みを浮かべると呑龍を天に掲げた。


「呑龍! 鬼門開放、龍脈接続! さあさあ! いくよ、呑ちゃん!」


 主の声に呑龍が。龍はそのあぎとを開き天を捉える。


 欠けたる魂の音なき嘆き。瞳に映らぬ涙の軌跡。

 龍よ謳え。萎れた草花の埋もれた願い。

 主は傍に在りて大笑す。重ねた声が新たな光。

 響き輝け。鬼龍の歌。


「呑龍! 嘆き束ねて光放てぇ! 我龍天晴がりょうてんせい ‼」


 龍が天に咆哮した。

 かき集められたエネルギーが凝縮されスパークすると同時、光の柱となり天へと放たれる。辺りを覆い尽くすエネルギーがまたたく間に光へと変わり天へと昇っていく。身体が浮かび上がるほどの力の奔流のなか少年は見た。

 呑龍が熱で溶けようとも自身の腕が内側から弾け飛ぼうともただ笑みを浮かべ天を見つめる鬼の姫の姿を。


「少年! 鬼は人の悲しみと共に在る。だからこそ人がどんだけ俯こうと鬼は笑わないかんっ!! だから!!」


 龍と鬼が天に願いをがなりたてる。

 黒く淀んだ渋谷の空がひび割れ、砕け散った。

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