鬼は嘔い宵は廻る

 神だ。


 酒呑童子が振り下ろした一撃が大地を砕き膨れ上がった呑龍の内から吹き出す火焔が全てを抱き込むように花咲いた瞬間、少年の脳裏にそんな言葉が浮かび上がった。

 反射的に自身の肉体を極限まで幽かにしたおかげで衝撃も熱もダメージにはならない。それでも一撃の凄まじさに薄くなった自分が散り散りになっていくのを感じながら少年はその言葉を反芻した。

 圧倒的な力。それを振るう姿。それは遠い。あまりに遠い。恐怖や羨望、悔しさなど湧かない。ただ、思い知らされるのは格の違い。彼我の溝。その大きさ。言葉を失くした先にある表現。

 宙を舞う瓦礫の山も耳をつんざく衝撃も青紫の火焔の色も、残り香のようなもの。

 この結果を引き起こすだけの力――神の如き力の顕現に少年は呆然とした。


「……がっ!?」


 存在を希釈し続けられる限界に達した。一瞬、少年の肉体が凝集し地面を転げ回る衝撃が彼を襲った。

――まずい……!

 瞬時に肉体を霧散させ息を潜ませる。痛みが呼び戻してくれた意識の中で、しかし彼は絶望した。

 勝てるわけがない。逃げたい。避けたい。眼を背けたい。

 あんなのは反則だ。無理だ。どうにもならない。ああ……いやだいやだいやだ。

 

「ああ……クソッ!!」


 圧倒的な壁。超えることも壊すことも叶わない。それは間違いないだろう。

 だが――それを目の前に足掻き方も己の慰め方もわからない自分。これはなんだ。

 繋いだ命の糸と先の見えない思考が絡まりあったジレンマのなかで少年は吐き出すようにうたった。


「こんな現実……なにもかも霞んでしまえっ!」 


 それは誰かの願いの言の葉。彼はそれに応えた。

 彼の行いは誰かの慰めで救いだった。彼の言葉は確かに祝いであった。

 だが、彼自身がその言の葉を紡ぐとき――それは世界にとって呪いである。

 少年の身体がいよいよ霞み幽かになり溶けゆく。

 渋谷の夜が歪み捻じれ、霞んでいく。鬼の願いが世界を溶かし始めた。


 § §


「溶けて、消えた……?」


 酒呑は振り下ろした呑龍を掲げあげながら隙なく辺りに視線をやる。弛緩していない空気が頬に触れる。相手を未だ仕留めていないことを確信すると酒呑はケヘと笑った。


「そう、いまのは避けるんが正解。けど、どうする?」


 攻め手がない。少年の状況はその一言に尽きる。彼の特性はこちらの攻撃を避けることには発揮されているが攻めには向いていない。

――さっきの一発を単純に力の差って、思わんでくれんならいいけど。

 神の如き一撃にも理屈は存在する。酒呑童子の特性と合致しているからこそあれだけのことが成せたのだ。

――そこに気づけるかどうか……それが分かれ目よ。

 元のサイズに戻った呑龍を片手で構え相手の出方を待つ。しばしの静寂の後、大気がピリリと震えた。そして次の瞬間映画の場面転換のように辺りが濃霧に包まれていた。


「……濃いな。濃すぎと、違う……?」


 ミルクの海を漂っている錯覚を起こしそうな視界のなか、何かが光り風切り音が聞こえた。

 酒呑が難なく迎撃するとキンと軽い金属音が鳴る。続けて飛んでくる第二波、今度は複数。大ぶりの横薙ぎに飛来物は弾かれる。すかさず襲いくる第三波は酒呑の懐めがけて飛んできた。呑龍をクルリと回しながら引き戻す動きで身を守りつつ、空いた拳で叩き落とす。


「いっちょ捕まえた! ナイスキャッチ♪」


 酒呑は手中に収めた相手の獲物を確認するとニィと口角を吊り上げる。そこにあったのは安酒の缶。少年が仲間たちと飲み交わしていたものと同じ様な謳い文句で売られている品であった。


「あったやん、攻め手」


 攻撃的な笑みを浮かべると濃霧の中へ酒呑は駆け出した。途端に四方八方から缶が飛来する。呑龍を左右に振るたび無数の酒缶が弾き飛ばされる。一見デタラメに振り回しているかのようだが鬼の駆け足は乱れない。次々と霧のなかから湧き出る飛び道具を金砕棒一本で迎撃しきっている。


「しゃぁらぁぁぁっ…!!」


 真っ直ぐに駆けているうちに敵の弾丸は数と速さを増していく。人間の投擲程だった速度がいまでは人の目には追えない域に達し、さながら弾丸の雨の如く酒呑に降りかかる。それでも酒呑は止まらない。呑龍で右を左を薙ぎ払い、右に左に持ち替え振り回す。クルリと獲物を軸に舞い踊り拳を咲かせ脚で切り伏せる。鉄の雨も龍と舞う鬼を阻むことは叶わない。

――これだけ攻撃がみつっちこたぁ、本体はココらか?

くるくると回る視界の中、迫りくる鉄雨を捉えつつ相手の気配を探る。冷たいスープをかき回すような感触の大気に僅かに重さを感じる。


「そこっ!」


 手応えはあったが幽かだ。酒呑はすぐに迎撃の体勢に戻ろうとするが、その動きが固まる。


「なん、こ……あぐぅ!?」


 何かに引っかかったように固まった彼女のこめかみに弾丸が命中した。酒呑の額から生え出た二本のツノ。そのツノと彼女の腕を結びつけるようにモザイクの紐が生じていた。


「しゃらくさいっ!!」


 鬼の一吼えと共にその腕がみるみる巨大化し、追撃を叩き落とす。動作が完了すると同時、その巨腕は元の姿に戻る。

――こら、ラチあかんのはアタシもか?

 いまのところ自身に危機が迫ってはいない。しかし、このままの状態が続くのはまずい。おそらくそれほど少年の時間は残されていないであろうから。


「五里霧中は拳で砕けん……使うか?」


 であれば切るべき手札は決っている。けれど立て続けに大技を繰り出すのは相手をいたずらに追い詰めてしまうのではないか。酒呑は胸元に視線を落として沈黙し、それから大きく息を吐いた。


「気張ってよ、ほんとに……」


 両手持ちした呑龍を地面と水平に眼前に構えると鬼の姫はカッと眼を見開く。

  

 大気震わせドウドウ唸れ。揺らすは心骨底の底。

 黒き孔は龍の口。とどろき廻り捩じ切る颶風ぐふう

 主浮かべるは嗜虐の三日月。音は止み闇来る。

 毟り呑み込め。龍の風。


「呑龍! 吸い上げ枯らせぇ!! 吽龍封枯うんりゅうふうこ!!」


 金砕棒の突起が次々とカメラのシャッターのように開放する。そこには何もない。ただ黒い孔が空いているだけだ。しかし、次の瞬間――


 ドゥォゥ


 空間が締め上げられ軋む音がした。


「そぉぉらぁぁっ……!」


 酒呑が気合一薙ぎ呑龍を振るう。その風圧は周囲の霧を吹き飛ばすには充分だが、すぐにまた霧は元通りになる


 ドゥォゥ


 しかし、霧は吹き飛ばされることもなく。異常を察知してか弾丸の雨が一面に降り注ぐ。酒呑は呑龍を頭上に掲げると獲物を軽く前後左右に振った。


 ドゥォゥ ドゥォゥ


 唸るような音が響くと同時、鉄の雨も掻き消える。呑龍が触れていないにも関わらず無数の弾丸が消えたのだ。


「ケヘッ! 相変わらずエゲツないなっ! 手応えがイマイチなんがアレやけど」


 呵々と大笑すると酒呑は呑龍を肩に担いで霧の中をのんびりと歩みだした。弾丸が飛んでくるとゆったりと呑龍を振るう。その度、奇妙な音とともに周囲の霧と弾丸が消えていった。


「吽龍封枯は近くのあらゆるもんを吸い上げて呑み込む。特に鬼の力にゃ効果テキメンよ。飛んでくる攻撃も、少年の隠れとるこの霧もよぉ呑み込んどるやろ?」


 吽龍封枯の音が響く。そのたびに彼女の周囲の霧は消えていく。


「さぁ~! どうする、少年? コイツのエゲツなさはこれだけやないよっ!? そらっ!」


 ドゥォゥ ドゥォゥ


 濃霧を空間ごと毟り取る呑龍の唸りとその姿が段々と大きくなっていた。

 白い霧の世界を呑み込みながら龍はその影を増していたのだった。


 ドゥォゥ ドゥォゥ ドゥォゥ


「アタシの特性とおんなじ。呑み込んで……膨れ上がる。つまりは……」


 酒呑童子が巨大化した呑龍を頭上に掲げる。その両腕がみるみるうちに膨れ上がり力の開放のときがきた。


「奪った分だけ強なるってぇこっちゃ……!」


 ドゥォゥォゥ!


 巨腕の一振りは文字通り嵐の一撃であった。周囲のあらゆる物が捻じれ毟り取られ吸い上げられて呑み込まれた。

 いよいよ霧は晴れ荒廃した渋谷の姿があらわになった。


「どぉよっ!?」


 一帯の霧を一掃してみせた酒呑が勝ち誇りケヘケヘ笑う。

 しかし応えはなく渋谷の残骸は沈黙したままだ。酒呑の唇がツンと尖り、への字に変わる。呑龍と腕も萎んでいき元通りとなった。


 カラカラカラ


 音をたて転がる空き缶がその足に触れた。その軌跡を追う酒呑の瞳が宙へと向かう。

――手応えの無さ。不気味な静けさ。嫌な、感じやね。

 その視線の先には一軒のビル。一抹の不安に囚われてなるかと踏み出した瞬間カラカラと乾いた音が聞こえてきた。

――音? なんで? ドコから?

 捉えどころのない感覚。周囲には音を立てるようなものも動きもない。音の発生源も自分がどこで音を感じているかも定かでない。


 カラカラ ガラガラ


 しかしその捉えどころのない音は確実に大きくなっていた。缶が転がるようなものだったソレは波打つようなリズムで濁音を混じらせながら響き始めた。

――波打ち際みたいな感じ……コレ、足元から?

 酒呑が再びビルを見上げる。足先に意識を集中しながらその表面をなぞるように眺める。


 カラカラ ガラガラ


 足先から伝わるリズムヒントでその動き答えが見えた。

 


「……やっば」


 その瞬間、ビルに見えるほどの金属の山が酒呑目掛けて倒れ込んできた。

 龍の咆哮さえ呑み込むほどの轟音と共に金属の雪崩が鬼の姫を呑み込んだ。

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