交渉の鬼界

「……鬼?」

「そう、鬼」

「バカバカしい」

「そう?」

「そんなもの、常識的にありえないでしょう? だって――」

「常識うんぬん言うなら、少年もずいぶんおかしない?」


 鬼の言葉を一蹴しようとした男に、彼女は疑問を被せてきた。


「アタシのツノにせぇ、おっぽい縮ませたことにせぇ普通なんかあるやろ? まるで見ようとしてないみたいやん? んん?」

「多少おかしな事があっても深入りせずにスルーが基本でしょう? 今の世の中」

「そうかもしれんな。けど、それは人間の理屈やん。アタシら鬼には――」

「僕はそんなものじゃない‼」


 男が叫ぶ。鬼という言葉そのものを否定するように。

 その様子に鬼はヤレヤレと肩をすくめた。


「じゃあ、いくつか質問な? 少年、君は昼間は何してるん?」

「そ、そんなの……普通に、生活……」

「普通ち、言うても色々あるやろ? 学生? 社会人?」

「それ、は……」

「学生ならどこの学校通うとる? 勤め先の名前は?」

「っ、あ、ああ……⁉」


 女が質問を重ねるたび、男の余裕が失われていく。確かにそうだ。自分は普通に暮らしている普通の人間のはずだ。それなのにそれなのに。。自分は日頃何をしているのだ。いやそもそも――


「もっと言えば、少年――」


 鬼がケヘと笑い、その黄金色の瞳で自分を見据えた。止めろ。止めてくれ。


「君の名前、教えてくれん?」

「あ、あっ、あっ……! ああ――」


 そうだ。俺は誰なのだ。

 熱湯に放り込まれたガラスのように男の幻想が砕け散ると同時、その姿が歪み霞み――掻き消えた。


「――消えた。まっ、何にせよ、これなら現行犯やろ? 上司?」


 女は眼の前で男の姿が消失してもケロッとした調子で懐からスマートフォンを取り出し語りかけた。ややあってその画面にメモ書きの画像が表示される。


『力の行使を許可するって by ご主人』


 それを確認すると鬼はそれはそれは楽しそうに笑みを浮かべた。


「ケヘッ! そやろそやろ⁉ まずは『鬼界きかい』張りぃ、茨木ィ!」


 鬼の言葉に従って

 瞬く間に彼女の周囲から人間の姿が消失した。


「さあ、犯人逮捕といこかぁ? あの少年は悪いことは何にもしとらんけどなっ!」


 § §


「はっ、はっ、はっ……!」


 逃げろ逃げろ。逃げろ。逃げろ。

 ここから逃げろ。早く逃げろ。速く逃げろ。

 鬼から逃げろ。鬼から逃げろ。恐ろしい鬼から。逃げろ逃げろ。


 姿を掻き消した男は気がつけば坂道を疾走していた。その速さは人間離れしておりバイクのような速度で坂を駆け上がっていた。

 もう少し、もう少しだ。坂を登り切ればアレは追ってこない。追って来られないはずだ。少なくとも前はそうだった。男は半狂乱になりながら祈るように走り続けた。


「あ、あとっ……少し、もう――」


 もうすぐだと言い切る前に男は見えない壁にめり込み、弾き返された。トランポリンで跳びはねたかのように身体は浮かび上がり、数秒後地面に叩きつけられた。


「がはっ⁉」


 凄まじい衝撃が男を襲う。だが、すぐ起き上がると再び見えない壁の前へと向う。


「逃げないと……! アレから、逃げないと!」


 どうにか壁をこじ開けたり出来ないものかと力任せに手を突っ込むがぶ厚いゼラチンのような手応えしか返ってこない。焦る男の背に鈴の音のように鬼の声が響いた。


「レッスン一、鬼の身体能力は人間のそれを凌駕りょうがしとる。危うくまた逃げられるトコだったわぁ」


 振り返ると鬼が講師のような調子で語りながらこちらに向かってきていた。


「何だこれは⁉ あんたがやったのか⁉」

「いんや? アタシはこうゆーのは好かん。細かいことは茨木が担当やね」


 まあ助かるけどねと鬼は笑い、男を見据える。


「なんにせよ、少年はこのままだとここから逃げられん。と、するとどうする?」


 無人の世界を背景に鬼は不敵に笑い頭をゆらゆら揺らしながら男を煽る。まるで創作に出てくる悪役のような台詞だ。しかし、そうであるなら答えは一つだろう。男は拳を握りしめ構える。

 眼の前の存在は敵だ。

 それが何であれ排除しないければならない。気勢が萎える前に男は脚を踏みしめ突撃した。


「……せやね、力ずくやね♪」


 しかし、駆け出すと同時に懐から女の愉しげな声が聞こる。反射的に眼球がその姿を捉えようとした視界の中、女の拳がすっと迫り――あごに叩き込まれた。


「ぐ……‼」


 脳天に衝撃が走り視界が白むと同時、身体が浮かび上がる。人間同士の格闘ではありえない吹き飛び方で宙に打ち上げられた男の身体は見えない壁にめり込み弾き出され、街路樹やアスファルトを滅茶苦茶にしながら地面に着弾した。


「レッスン一、鬼のパワァは滅茶苦茶凄いっ‼」


 女は興奮しているのか相手に聞こえているかも構わずに高らかに宣言した。


「って、死んどらん……よね?」 

 

 砂煙の中からムクリと男が立ち上がるのを見て鬼はホッと胸を撫で下ろした。同じ鬼である以上、あの程度で滅することはないだろうが、初手でやり過ぎただろうか。

――いや。どの道、ここである程度仕上げんと滅する他ないしな。


「うーんまあ、イケるか?」


 こちらを見据える瞳に先程までの怯えがないことを確認すると、彼女は追撃を開始した。思うところはあれど、愉しげにケヘと口元を歪めながら。

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