浮世霞ます奇鬼怪々

 一週間後。再び週末の渋谷は夜の道玄坂。

 繁華街の空気は湿気と人の熱気とをはらみ、微かな粘り気を感じさせる。音は歪み、匂いは混ざり合い、人と喧騒は近くて遠い。混沌のなかで全ては不自然であり、同時に自然であった。


 そんな喧騒のなかをトボトボと歩く若者がいた。リクルートスーツと代わり映えしないスーツにイマイチ締りのない配色のネクタイ。丸まった背中に張り付いたバックパックと野暮ったいビジネスシューズの彼はふと足を止めて綺羅きらびやかな渋谷の街を見つめた。彼にとっては勤務地である渋谷だが自身はこの街にあっては異物のような存在だ――そんな想いがふと胸によぎった。

 憂いに彩られた瞳で眺めた街並みのなかで白い灯りが目に止まった。コンビニだ。若者は誘蛾灯に引き寄せられた虫のようにフラフラと自動ドアをくぐっていった。ここで安酒を買って飲もう。いまの自分はそうする他ないように思えたのだった。


「かんぱーい!」

「……えっ?」


 若者がプルタブをカシュと引き上げると同時に横から声が聞こえた。見るとそこにはパーカーとキャップ姿の男がいた。いつの間に彼はそこにいたのだろう。自分が店に入るときはいなかったような気がするが。


「乾杯、しましょう」

「あっ、はい」


 促されるままに若者は乾杯に応じた。カツと缶と缶がぶつかり合う瞬間、若者は合点がいった。自分と彼の手にしている酒は同じ銘柄だったのだ。低価格でアルコール含有量の多い若者に好まれている酒だ。眼の前の男はその偶然に面白みを感じたに違いない。見ると相手はロング缶を手にしている。酒も手伝って陽気になっているに違いない。


「お疲れ様です。今日はお仕事、ですか?」

「……え、ええ。まぁ」


 若者がひとり納得しているとパーカー男が世間話を始めた。こういう押しの強い相手は苦手だな、と思いながら隣の男の姿をちらりと盗み見る。少年のようなあるいはストリートファンションやラッパー系といった――彼が苦手な陽気な連中に通じる格好をしているが、人当たりの良さそうな柔らかな印象がある。


「やー、お疲れ様ですぅ。やんなっちゃいますよねぇ、飲まなきゃやってらんないですよね~」

「そう、ですね……」


 男の台詞はありきたりだが不思議と本心から頷けた。自分が言葉を返しても良い――そんな妙な安心感があったのだ。


「まっ! 飲める酒は安酒一択なんですけどねっ!」


 そう言いカラカラと男が笑った瞬間、若者はつられてプッと吹き出した。ああそうさ、と自笑する己が胸の内から起き上がる。


「ははっ! かんぱーい!」

「乾杯、です」


 男の掛け声に対して若者は今度は進んで応じた。


 § §


「まったく! やんなっちゃいますよ!」

「マジですよ‼」

「やってらんねぇ、スッよ‼」

「「「ははははっ‼」」」


 気がつけば若者は手を叩き馬鹿笑いしていた。二回目の乾杯をきっかけに堰を切ったように不安や不満が口から溢れ出していた。パーカー男はウンウンと頷き、酒をあおるとなにかしら叫んでから笑い出す。そんなことを繰り返している内にいつの間にか仲間ができていた。

 騒がしくしているはずだが、コンビニの店員も見て見ぬふりなのか追い払われることもなかった。若者たちは酔いに酔っていた。話の内容などとうに頭には入っていない。ただ自分は不安で不満で、同じような人がいて一緒にがなることが楽しく救われている気がしたのだった。

 パーカー男は気前よく周りの仲間に安酒を振る舞った。そして彼等もそれじゃ悪いとお返しを始めた。強い酒だ、そんなことをしたらあっという間に酩酊してしまうに決っている。


 だがそれで良いのだ。彼等はのだから。


「愉しそうやん。今日はアタシも仲間にいれてくれん?」


 騒ぐ若者たちの輪に気安い調子で赤いガウンを着た女が割って入ってきた。若者たちは一瞬訳が分からず固まり、声の主の美貌に目を丸くした。濡羽色の短い髪に吊り目の顔立ちは派手な赤色に霞むことなく凛としていた。


「ええやろ?」


 豊かな胸元の膨らみの前に掲げてみせたのは彼等があおっている物と同じ安酒。彼女は『おそろい』と内緒話でもするように口にしてからケヘと笑った。若者たちはこれ以上ないくらいわかりやすくヒートアップした。


「…………」


 そして、勿論ですと女を招き入れる仲間たちをよそにパーカー男はひとり目を見開き絶句していた。

 

 § §

  

「あ、あの! また機会があれば……!」

「せやな~、バイバ~イ!」


 ひとりまたひとりと男たちが帰路へつき、最後はパーカー男とガウンの女だけになった。終始愛想よく若者を構っていた彼女は最後のひとりを送り出すと男に笑いかけた。


「普段からこんなことしとるん?」

「そうですよ。というか、僕も帰りますんでお姉さんも……」

「やっと二人きりになれたのに、今日も相手をしてくれんの?」

「……何のことです?」


 逃げるようにその場を離れようとする男の足が止まった。女は壁に背を預け小首を傾げてケヘと笑った。


「知りませんね。お姉さんみたいに美人でスタイルのいい人、会ったらそうそう忘れませんよ」

「ん? ああ、胸ぇ、膨らましたまんまやった」


 男の言葉に女は視線を胸元の落とすとトントンと指で胸を叩く。すると音もなくその膨らみがしぼんでいった。


「不特定多数のトコに潜り込むときはこういう分かりやすいのがウケるからなぁ……男の悲しい性やね。けど顔も覚えとらんの? けっこうイケると思うんやが?」


 自信満々に笑う女から目を逸らし男は不機嫌そうに吐き捨てた。


「知らないですよっ、大体、美人だとか言う前にその頭のはなんですか⁉ コスプレですか⁉ そんな人、一度会ったら忘れませんよっ! なんで誰もツッコまないんだか……」


 ケヘッ……!


 風を切るように笑い声が鳴った。


「ボロ出したな、少年。少年にはこのツノぉ、見えとるんやな、やっぱ」

「……は?」


 女は肩を揺らして笑い始めた。悪戯を成功させた子供のように愉しげに。


「コレな? フツーの人には見えんのよ。例外はアタシと契約している人間と霊能者、それと――」


 女は男と自身の胸を交互に指差す。


「アタシらみたいな鬼だけなんよ」


 そう告げて二本のツノを生やした鬼は笑った。 

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