後編「災難」
いつものように真澄ちゃんのところへ行こうとすると、思わぬ光景が目に飛び込んできた。クラスの男子の一グループが、真澄ちゃんの席を取り囲んで質問攻めにしているのだ。
「岸川さんって何部?」
「弓道部……」
「そんなん今更聞くなよ。岸川さん、美容院どこ行ってる?」
「アイドルとか好き? もしかして男のアイドル好き?」
やめて! 男子なんかが私の真澄ちゃんに近づかないで! そんないやらしい目でその子を見ないで!
私は激しく嫉妬した。疎外感と惨めさと羨ましさの混じった、底の辺りに快感すらある強い怒りが身体の中から真っ黒く噴き出した。
それでも人間は平静を装わなければならないのか。私は表情を崩さないように気を付けて近づいた。
「真澄ちゃん、ちょっと」
「麻見さん来た!」
男子が無駄に大きい声を出す。
「真澄ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」
「……うん。行こう」
教室を出て、階段まで避難した。こちらを見てくれない真澄ちゃんに声をかける。
「大丈夫だった?」
「うん。大丈夫」
「それは良かった」
あなたを守って差し上げられて。
「それで、相談って何」
「えっ」
軽く失望した。どうしよう。相談するべきことなんて思いつかない。
「結香ちゃんってすごく遠くに住んでいるの?」
「どうして」
「だっていつも遅めに学校来るじゃない」
「それは、ね」
言いたくなかった。真澄ちゃんにだけは。こんなこと。
「私ちょっと精神的な病気で、睡眠薬飲んでるから、朝とか、結構起きられないんだ。先生は知っているんだけど」
「ふうん」
なんだかとても冷淡な表情に見えた。
放課後、咲苗ちゃんに言われた。
「今日岸川さんのこと助けてたよね」
「えっ?」
「男子たちから救ってたじゃん」
見られていたんだ。妙に恥ずかしい。でもすごくうれしかった。悪い男から真澄ちゃんを助ける私の構図が、教室で展開されていたんだ。
ところが次の発言で、私の喜びは台無しになったしまった。
「いつも岸川さんにノート借りてるもんね、ゆい。あれはうまく選んだと思うよ。岸川さん頭いいけど大人しいから、そういう子がいると便利だよね」
あなたには世界がそんな風にしか見えていないのね。かわいそうな人。卑劣な人。前からずっと、あなたが一番嫌いだった。
以後は口数が減った私の機嫌を必死に取りながら、咲苗ちゃんはかなり居心地悪そうに歩いていた。
帰っても気分が悪かった。最近治まっていたのに、またしても死ぬことを考えてしまった。生きていたくない。学校に行くくらいなら死んだほうがましだ。でも学校をやめるのも嫌だ。中退するくらいなら死ぬ。こうやって今ここに存在すること自体が耐えがたいんだ。すぐに自分という存在を消したい。
なるべく日光を浴びるようにと望月先生に言われている。太陽の光には抗うつ効果があるそうだ。死にたい気持ちでいるのが直るなら外を歩こう。
もう少しで日が暮れるのが嘘のように明るかった。昨日より良く晴れている。文具店へ自然と足が向いた。外を歩くときは、私も健康な人と全く変わりない。不思議なことだ。
地面を見ながら、ピストルの入手経路を考えていたら、奇跡が起こった。文具店からジャージ姿の真澄ちゃんが出てくるのが見えたのだ。距離は200メートルほどだった。間違いない。こちらへ向かってくる。
その時だった。突然右肩を叩かれた。驚いて振り向くと、懐かしい顔があった。
「結香じゃーん。久しぶりー」
「里美! 会いたかったー。卒業式以来じゃん!」
久しぶりに安心感を覚えた。真澄ちゃんが知らない、私の親しい人に出会ったら、やることは一つだ。
里美の手を両方握って、大げさに揺らす。ためらっている暇はない。
「里美、ホントに会いたかったよ。こんなところで会えるなんて奇跡に等しいよ。家出てきてよかった。私ね、微妙に落ち込んでたんだよ。でも里美に会えてチョーうれしい!」
「そ、それはありがとうだな」
真澄ちゃん見て。私にもこんなにも親しい人がいるんだよ。少しはやきもち焼いて。私の結香ちゃんが知らない人と仲良くしているって悔しがってよ。ねえ。悔しがって。
空の高いテンションで里美との再開を喜んで見せたけれど、真澄ちゃんがこちらに注目することはなかった。一瞥すら加えなかった。
ただただ空しく、私はそこに取り残された。
「急にどうした結香。おい、賢者タイム?」
「そう」
少しの間、旧友の語りかけをずっと上の空で聞いていた。里美への申し訳なさと喪失感の相克が、無駄に私のエネルギーを奪っていった。
次の日学校に着いたのは昼休みだった。食べたくないお弁当を仕方なく持って、食事を終えかけている理菜と千香子の席へ向かうと、千賀子が突然言った。
「ゆいさあ、岸川さんとお昼食べたかったら食べてもいいんだよ」
驚きのあまり声が出なかった。身体が硬直して座ることもできない。
「どうしてそんなこと言うの?」
「別に。ただ岸川さんと仲がいいから、そっちのほうがいいかなと思って」
「ゆいが私たちと食べたいならこのままでもいいんだけど」
拒絶された。気まずさが一番嫌いな私に、最大の気まずさが襲い掛かった。なぜだろう。この間咲苗ちゃんと悪口を言ってしまったのが、二人の耳に入ったのだろうか。なんだろうこの表情は。わからない。
それでも私は知らんぷりして食い下がらなければならない。媚びてでも。他に行くところなんてないんだから。
「真澄ちゃんはね」
絞りだすしかないのだ。
「真澄ちゃんは、昼は彼氏さんと会ってくるから、一緒に食べたりとかそういうのは、できないんだ」
一番認めたくないことを、口に出して言わなければならないこの苦しみ。世界中で誰も、今この胸が締め付けられていることを知らない。
「へー意外。あの子彼氏いるんだ」
「ちょ、ちょっと私たちそんなつもりで言ったわけじゃないから泣かないで! ごめん。ねえ。ゆいってば」
泣くなと言われても、涙を止めることはできなかった。傍から見れば、誰と一緒にいるいないのトラブルでしかなかっただろう。私以外の誰一人、この涙の意味を知らない。誰にも言えない。
鼻の先から細くて固い自我が抜けていく。少しずつ少しずつ動かなくなっていく身体。混濁する意識。一切のつらいことから解放される、たった独りのこの時間。私は明日も真澄ちゃんのためだけに目を覚ます。
溢れる憧憬 文野麗 @lei_fumi_zb8
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