溢れる憧憬

文野麗

前編「危うい均衡」

 意識が揺れる。不安定に緩慢に、頭の上で飛び跳ねながら、身体を抜け出て、ピンボールのように部屋の中で弾ける。天井の隅にぶつかって、カーテンの方へと流れ、暗い色に変わった床へと転げ落ちる。嗚呼。自我が引きはがされていく、このえもいわれぬ快感! あの素敵なお薬のおかげで、私は今夜も強制的に夢の世界へ引きずり込まれるのだ。揺れている。揺れている。


 今日も遅刻してしまった。3時限目の途中から、気まずく教室に入って、皆の注目を集めた。誰も何も言わない。陰口を叩く人は一人もいない。いつものことだから、気に留めないし理由も詮索しないのだろう。クラスには問題を抱えた生徒くらいいる。親しくない自分には何の関係もない。きっと皆そう思っている。

 やがて昼休みになれば、違和感すらも完全になくなる。私はまるで朝からきちんと出席しているような顔でお弁当を食べることが出来る。

「ねえ、ゆいの今一番欲しいものは何」

理菜に聞かれて、すぐに答えられなかった。

「うーん、学力かな」

「確かに。私も学力欲しい」

「ウチは絶対彼氏。彼氏しかいらない」

「現実の男子ってイケメンいなくない?」

 理菜と千香乃の会話を横で聞きながら、私は思う。私が欲しいものはピストルだけ。他に何も必要なものはない。ピストルを手に入れたら、自分の部屋で、深夜に頭を撃って自殺する。この子たちは知っているだろうか。絶対知らないだろう。ウェルテルは、惚れた女の名前を走り書きしながら、右目の上をぶち抜いて死ぬんだ。のたうち回って、半日はこと切れない。次の日の正午に絶命する。

 私だったら「真澄ちゃん」と書くんだろうな。ペンで書きながらうまく引き金を引けるだろうか。自信はない。

 昼食後はするべきことがある。会話を続ける二人とは、

「じゃあ私、ちょっとアレだから」

「うん。じゃあね」

なんていう気まずいやりとりをしなければならない。悪いけれど昼休みはあなたたちとは遊ばないの。構わないよ。引き留めたりしないよ。そう確認し合わなければならない。なんという居心地の悪さだろう。この瞬間が毎日あるというだけで学校に来るのが嫌になる。

 教室にいる男子も女子もいまいち清潔感がない。毎日会っているとどうしてこう薄汚れて見えるのだろう。何組か集団が出来ているけれど、あのうちどれくらいが、しっくりこない雑談をただ時間つぶしに行っているんだろう。それを感じているのは何人だろう。

 晩春の午後の日差しは蛍光灯と微妙に合わない。外は晴れているのに、不自然に天井から放たれる光で明るくなったこの教室が、貴重な時間を不意に過ごしている実感を与える。しかし他に誰もそれに気づいていない。

 でもあなたは気づいているんだよね。戻ってきた真澄ちゃんは席についた。

「真澄ちゃん」

「結香ちゃん!」

まるで私が来るのを待ち望んでいたかのような笑顔で、彼女は私の名前を呼んでくれる。

「今日は暑いねえ」

「ねえ。早く夏服にならないかな」

「夏服ってどんな感じだっけ」

「白いセーラー服だよ」

あなたならとてもよくお似合いでしょうね。とは口に出さない。今の冬服姿も大変美しい。制服の赤いリボンがこんなに似合う子は学校中探しても真澄ちゃんしかいない。

「お願い。2限の世界史の赤字だけちょっと写させてほしいの」

「いいよ」

 そう言って今日も真澄ちゃんは私のためにノートを見せてくれる。下を向いて引き出しを開けると、彼女の美しい髪が揺れる。真澄ちゃんは少しカールした豊かなこげ茶色の髪を一つ縛りにしている。すごくかわいい。同じくこげ茶色の大きな瞳も、色白の肌も、本当にお姫様みたいだ。間違いなく、真澄ちゃんには夏服よりずっとドレスのほうが似合う。

 私がノートの文字を書き写している間、彼女の視線は私に注がれる。言葉を発しないで、二人の間に静かな時間が流れる。確実にお互いのことを考えながら。

 真澄ちゃんは成績優秀だ。クラスで1番か2番に成績が良いのは周知の事実で、「岸川さん」と「頭がいい」は必ずセットで口にされる。このクラスで彼女を真澄ちゃんと呼ぶのは私だけだ。ちなみに私を名字や短縮系のニックネームなんかでなく「結香ちゃん」と呼ぶのは真澄ちゃんだけ。この事実に真澄ちゃんは気づいているかしら。私は毎日喜びを享受しているけれど。

 もし、彼女が優秀だからノートを見るために利用しているんだろうなんて、あの子が思っていたらどうしよう。


 放課後は嫌でもやってくるし、どうしても徒歩で帰らなければならない。下駄箱の周りはなぜかいつも暗く、校内シューズを脱ぐと床がひどく冷たかった。磨滅した古い簀の子の荒い感触が嫌だ。涼しい外気が出入り口から入ってくる。

 外に出ると、眠い目には日光がつらかった。スマートフォンをいじっている咲苗ちゃんが見える。

 やあと声をかけると、咲苗ちゃんはこちらをちらりと見て、ゆい来たね。とつぶやき、少々何かを打ち込んでから、スマートフォンをポケットにしまった。

 当たり障りのない日常の会話をしつつ学校の外へと出た。暑さが戻ってくる。見慣れた住宅街。川喜料理教室という錆が付いた看板が目に入る。この道を通るたびにこの看板ばかり眺めている気がする。

「ぶっちゃけさあ」

咲苗ちゃんの声が突然小さくなる。誰もいないのに周りを気にするそぶりをする。

「千香乃ってちょっときつくない?」

顔を私に寄せてそうささやき、悪巧みを持ちかけるような顔をする。

「どんだけ自己主張激しいのって感じ」

「うん……ちょっと、そんな感じあるよね」

言ってしまった。今まで全然千香乃を悪く思ったことなんてないのに、そう言われると不満に思っていたような気がしてしまう。卑怯な私。口にしたこの瞬間から、私は千香乃をいくらかでもきつく感じ続けるんだろう。千香乃は理菜と一緒に、一人だった私をお昼に誘ってくれたのに。気に入っていないとはいえニックネームも考えてくれたのに。こんな会話をするくらいなら女の子に生まれてきたくなかった。

 悪口は最低限に留めたつもりだけど、全く同意しないわけにもいかず、別れるまで下世話な会話を続けてしまった。こういうイライラが、正式な人間関係のストレスに入るのだろうか。これなら望月先生にもきっと相談できる。

 いくら第三者には絶対秘密だからって、いくら精神科の先生だからって、本当に一番悩んでいる事は相談できない。実は女の子が好きだなんて自分以外に言えるはずがない。同性に恋をしてしまって悩む思春期の女の子。そんなみじめな存在として扱われるのは耐えられない。全くおかしいことじゃないとか、世の中の何%はそういう人で、現代ならいつかきっと良いパートナーに巡り合えるとか、そんなことを真剣に言い聞かされるのは嫌だ。女の子にしか恋できない? あたりまえじゃないか。どうして他の女子は女子に恋しないのかがわからない。私は自分が女性にしか恋愛感情を抱けないことくらいわかりきっているから、いちいち驚いたりしないのだ。いくら頑張っても他人にはわかってもらえないだろうけど。

 要するに、診察では大して悩んでもいない学校の成績とか、漠然とした人間関係とか、そういうストレスがあるとしか相談できないのだ。痛くないところを撫でられて、本当に痛いところには毎回手が届かない。だいたい人間関係だって、朝まともに起きられないせいで、怠け者と思われている気がするのが悩みなのに、それは先生がくれる睡眠導入剤のせいだから、先生のせいということになってしまう。結局話せるわけがない。

 5時を過ぎても外は明るい。カーテンを開けてみる。まだ何か活動できそうで、実のところ、何かできたためしはない。ベッドに座って、そのまま寝転んでみた。制服の生地の厚みが感じられる。寝にくい。やっぱり着替えるしかないのだ。

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