きょうだい3
▽
朝六時。元の世界に戻されたあたしは、すぐに支度をして家を出た。もちろん、こんな時間に学校へ行っても昇降口は開いていない。そのため、いつものようにコンビニエンスストアに寄って朝食を買い、その近くにある公園のベンチに座った。
冷たい風に憂鬱の吐息を乗せてから、サンドイッチを口に含む。
朝食を食べて、一時間ほど携帯電話を眺めて学校に向かうのがいつもの朝だ。家にいたくないし、祖父母と顔を合わせることすら嫌だから、毎日こうしている。あたしに食事を作るのが面倒くさいからか、兄が植物状態になってからは毎月食事代として十分すぎるお小遣いをもらっているため、お金には困らない。それまでは兄が、溜めていた小遣いで食べ物を買ってくれていたから、祖父母から何かを与えられることはなかった。
兄がいなくなったことで流石に困ったあたしが食事を求めたら、札束を投げつけられたのだ。その日から毎月、あたしの靴の中に札束が入れられているようになっている。
サンドイッチを食べ終えて、ゴミをゴミ箱に投げ入れると、ちょうどそのタイミングで携帯電話が振動した。誰からのメールが届いたのか、予想は付く。ポケットから取り出して画面を見てみれば、予想通りの名前が表示されていた。甲斐崎だ。
昨日、あたしが呉羽先輩を殺してしまった後、甲斐崎は『大丈夫か?』とだけ書かれたメールを送ってきた。それを無視していたら、夜に『一人で抱え込むなよ』と、また一言だけ送られてきた。その文面を見ても正直苛立ちしか湧かない。どうせあたしのことなんてどうでも良いと思っているくせに、心配するような態度を取られても不愉快なだけだ。
今届いたメールも、昨日の二件と似たような内容だった。
『おはよう。お前さ、辛いならちゃんと吐き出せよ。ストレス発散したいなら付き合ってやるし、力になりてぇし。お前がウサギだったとしても、俺達協力者なんだから、遠慮すんなよ』
「むかつく……」
思わず口に出してしまうくらい、気に食わなかった。
協力者。確かにそうだ。甲斐崎とあたしの関係は、協力者というだけ。あたしがたまたま目を付けて、弱そうで馬鹿そうで騙しやすそうだからと、たまたま協力者になっただけの関係。『ウサギ』を探して殺すための協力者だったのだから、もう放っておいて欲しかった。『ウサギ』を絶対に殺すとよく口にしていたくせに、『ウサギ』が分かった今、あたしに刃を向けすらしない彼が理解出来なかった。
そもそも彼があたしのことを良く思っていないことなんて、ずっと前から知っている。ただ、彼の能力的に協力者が必須だったから、あたしの話に乗って協力者になっただけだと思われる。二人でいる時、口を開けばいつも言い合いが始まっていたし、目が合えば何故か咎めるような瞳を向けられてばかりだった。ずっとあたしに何かしらの不満を抱えていたと思うのに、善人ぶってこんなメールを送りつけてくる彼の人間性を疑う。
宮下センパイに向けている心配の方が大きいのだろうな、と思えば苛立ちはどんどん増していった。今目の前に彼が現れたなら殴り飛ばしているだろう。
甲斐崎も、宮下センパイも、呉羽先輩も、東雲さんも、きっと誰一人として、本気であたしの心配なんてしていない。
もう、なにもかもどうでも良い。そう思うのに、頭に浮かぶのは協力者達の顔だ。呉羽先輩に近付きたいから騙してきた彼らの顔。彼らと過ごした時間。全部、偽物の友情の産物でしかないのに、記憶の中にいるあたしが楽しそうに笑っていて、思い出せば思い出すほど表情が歪む。
嘘吐きのあたしは、嘘がバレたからもう友達ごっこすらままならない。偽りだらけだったとしても、孤独に比べたらずっと楽しくて、もう楽しめないのかと思うと涙が溢れそうだった。
死にたい。
気付くとそんなことばかり考えてしまうのは、いつからだったか。考えて、すぐに笑い飛ばそうとする。死ぬ勇気なんてないくせに、口だけは達者で馬鹿馬鹿しい。
助けてほしい。
孤独からかけ離れた場所に、あたしを連れて行って欲しかった。自殺なんて馬鹿な考えを忘れられるくらい、楽しい日々が、欲しい。
多分、呉羽先輩と協力者になってからは、楽しかったのだ。彼といたあたしは、心から笑っていた。ずっと嘘を吐き続けて、ずっと『ウサギ』じゃないと言い続けていれば、あの日々のまま、生きたいと思い続けることが出来たかもしれない。けれどあの状況で言い逃れなんて出来るはずがなかった。
あたしが『ウサギ』ではないと否定出来る材料が、なかった。神屋敷とかいう少年を殺したタイミングが、悪すぎた。あの少年が楽しい日々を奪う悪魔にしか見えなくて、心から笑える時間を奪われる恐怖に焦りを抑えられなかった。
だが、そこまでは良かったと思う。呉羽先輩の怒りを買えて、彼に嫌われたはずだった。絶対に殺してもらえると思ったのに、彼が殺してくれなかった事実が今でも信じられない。
呉羽先輩は、あたしを庇って死んだ時と本質的には変わっていない。変わったと感じたのは、思い違いだった。どこまでも甘くて、優しくて、残酷な人。どうして宮下センパイを庇ったのかなんて、思案の海に浸らずとも分かる。彼は自分の命を捨ててでも守りたいと思うほど、大切に思っていたのだ。宮下センパイへの思いを見せ付けられたような気分になって息が詰まった。彼を刺してしまったあたしの醜さを嫌というほど理解して、全身が強張った。今思い出しても、体が震える。
その醜さを知ってしまったら、自分を殺してまで誰かを助けようとする呉羽先輩の隣に、自分の我侭で誰かを殺そうとするあたしは相応しくないのだと、認めたくなくても認めるしかなかった。
現状は自業自得であたしに相応しい。元々、あの楽しかった日々はあたしに相応しくなかったのだ。あたしのような人間は、ずっと孤独で生きなければならない。それが出来ないなら、死ぬしかない。死ねないなら、殺してもらうしかない。
ふと、呉羽先輩の顔を思い出した。あの時、あたしに刺されても、あたしを受け入れるように微笑んでこちらに手を伸ばしていた。「こんな偽物の世界がなくても」という言葉の先に、なんという言葉を続けるつもりだったのか、あたしでは見当もつかない。伸ばされた手が何を意味していたのか、予想はつくがそれが外れていて欲しいと思う。
優しさに触れるのが、ただただ、熱くて怖い。優しい手があたしに触れたら、その手が汚れてしまうように感じて、思わず振り払ってしまう。優しさに甘えたいのに、甘えた先でもし拒絶されたらと思うと怖くなる。
――助けてって叫んだら来てくれます?
あの時、何故あんな問いを、あんな弱さを、彼に向けてしまったのだろう。どうして、彼の静かな優しさに甘えて、救いを求めたのだろう。あんな顔を見せなければ、もっと嫌われる態度を取っていれば、殺してもらえたと思うのに。
それなのに、未だに「助けて」なんて叫びが喉から溢れそうで、自分自身が分からなくなる。死にたい思いと、生きていたい思いがぐちゃぐちゃに絡まって心臓を締め付ける。
「あたしなんて、生まれてこなければ良かったのに」
嗚咽を漏らす代わりに吐き捨てた。あたしがいなければ、両親が死ぬことはなかったし、兄が苦しむこともなかった。あたしが生きていて、一体誰が幸せになっているのだろう。あたしの存在は、誰にとっても邪魔でしかない。
どうして、そんなあたしがまだ生きているの?
自分自身に、囁く。鞄から取り出したカッターナイフを、手首に押し当てた。薄く皮が裂けて、血が滲む。もっと深く切れば、すぐに死ねるはずだ。けれど手は震えるばかりで、力を込めることが出来ない。溢れ出した血を見て、いつもなら心が落ち着くのに、今は取り乱されるばかりだった。あたしの犯した罪の色が呉羽先輩を刺したことを思い出させて、罪悪感で心を満たす。
喉に通したばかりの朝食を戻しそうになって、口元を押さえた。呼吸を落ち着かせ、ポケットから絆創膏を取り出して手首に貼る。時間を確認し、学校へ向かった。
▽
教室に入ると、不愉快な声が流れ込んでくる。楽しそうにテレビの内容を喋る声。授業の宿題のことを話す声。それらには害がないと分かっていても不快な気分になる。
どうしてあたしは独りなのにあいつらは楽しそうに声を上げているんだろう。そう思ってしまうし、孤独の寂しさを思い知らされる。
けれど今は寂しさよりも苛立ちの方が勝っていた。くすくす、と小さな嘲笑があたしを突き刺す。またか、と呆れながら、教室の一番後ろで一番廊下側にある自分の席に座ろうとした。いつもなら机の上にゴミが置かれていたりするけれど、今日は違った。思わず息を呑む。
机には、水をたっぷり含んだ雑巾が置かれていた。それは今までも何度かあったからどうでも良かった。問題はその上だ。雑巾の上には数枚の写真。写っているのはあたしの後ろ姿や横顔。盗撮されたのだろう。あたしの家が写っている写真もあって、流石に気持ち悪いと思った。
立ち竦んでいると、窓側にいる女子達があたしを嗤う。――むかつく。むかつく。こんな奴ら、すぐ殺せるのに。
耐え切れなくなって彼女達を睨もうとした時、
「こんな低レベルの下らない嫌がらせする奴って現実にいるんだ?」
聞き覚えのない声がすぐ傍で響いた。教室の後ろの扉、つまりあたしのほぼ真横に、二人の女子生徒が立っていた。
短髪の子があたしの机の上を見て顔を顰めている。今しがたの非難の声も彼女のものだろう。その横でお下げの子が、彼女の袖を引っ張っていた。
「声おっきいって! やめなよ……!」
「なんで? わたし今むかついてるから聞こえるように言ってるんだけど」
二人組の女子は係か委員会の仕事で来たらしく、プリントを抱えていた。短髪の子が、持っていたプリントをお下げの子に預けてずかずかと教室に踏み込んできた。あたしの前を通り抜けて、窓側にいるあいつらの前に立つと、彼女は冷たい声を落とす。
「美優、あんたさ、昨日美化委員の仕事サボったくせになに机汚してんの?」
「う、うるさいな! もえには関係ないじゃん!」
「は? 関係あるよ。あんたの仕事を代わりにやったの誰だと思ってるわけ? っていうかこんな下らないことしてるあんたが可哀想だから言ってるんだけど」
美優、と呼ばれたのは嫌がらせをしている奴らの中心人物だったはずだ。もえと呼ばれた彼女は、淡々と吐き捨てる。
「盗撮もいじめもストーカー行為も犯罪だよ。進路滅茶苦茶になりたくなかったらすぐにやめた方がいい。もしやめる気がないなら目障りだからさ――」
そのあと、彼女がどう言ったのかは聞き取れなかった。ただ、彼女の言葉はあの女子達を簡単に凍り付かせてしまうものだったようだ。
それから何事も無かったかのようにあたしの傍に来て、あたしの机の上を片付けようとした。あたしはその手を払う。
「助けてとか、言ってないんだけど」
お礼を言えばいいのに、刺々しい言葉を放ってしまった。自分が虐げられている事実を認めたくなかったし、見ず知らずの子に色々言ってもらえて救われたなんて思いたくもなかったのだ。あたしはそんなに弱くないのだと、思い込んでいたかった。
手を払ったにもかかわらず、彼女はまたあたしの机の上に手を伸ばす。
「わたしも助けたなんて思ってないんだけど? 自意識過剰?」
「っはぁ!?」
「わたしはただ仕事をサボった彼女を咎めただけだし、美化委員としてこの汚い机を見過ごせないだけ。あなたを助けようとかそういう正義感で動いてるわけじゃないから、偽善者とか思わないで欲しいね。悪いけど、わたしは自分の為にしか動いてないよ」
言いながら、その白く綺麗な手で、写真と汚い雑巾を回収していく。それを片手で握り締めると、ポケットから取り出したハンカチであたしの机を拭く。ハンカチが汚れるだろうに、そんなことはどうでもいいみたいだった。
「あ、そうだ」
片付け終わって立ち去ろうとした彼女が振り返る。凛とした涼し気な目はあたしをしかと捉えていた。
「わたし、宮下萌葱っていうんだけど、よかったら友達にならない?」
宮下、という苗字を頭の中で反芻する。宮下センパイの姿を思い浮かべてから、驚いて目の前の彼女を見つめる。似ているといえば似ている。彼女が笑えばきっと宮下センパイにそっくりだろうし、宮下センパイが鋭い表情をすれば彼女にそっくりだろう。
戸惑っていれば、宮下萌葱は猫みたいに笑ってくるりと背を向けた。
「一組にいるからさ、いつでもおいでよ。それと、わたしはいつか絶対あなたの順位を抜いてみせるからこの程度のことでやめないでね。学年一位の河内さん」
やめないで、という言葉は、学校をという意味なのか。それとも、生きることをという意味なのか。きっと前者だ。ただどちらにしろ、それは優しく暖かな響きで胸の奥に染み込んでいく。不思議と、心が少しだけ軽くなったような気がした。
けれどそんなのは錯覚だ。この程度のことで、あたしの心は溶けてなんてくれない。
鋭い瞳で自分の机を睨んでから、あたしは授業の準備を始めた。
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