きょうだい2
本当は、絵を描いていた理由も彼が言ったものだけでは足りない。僕が欲しかったのは両親からの愛だけでもなく、彼のようになりたかっただけでもない。いつだって頭の中で明滅するかつての僕らに、笑い合っていた頃の兄弟に戻りたい――その気持ちが一番大きかった。これを口に出来る勇気など僕にはないけれど。
それゆえ描いていた理由の方には一切触れず、その代わりのように僕は、描かなくなった理由の方をしかと伝える。
「まあつまりさ、何をしても勝てないのに、自分が一番得意だと思うものですら勝てないんだから、競うなんて馬鹿馬鹿しいって思ったんだよ」
「紫苑さ、自分のこと、ちゃんと見えてる?」
「は?」
紫土の発言の意味が掴めず、阿呆みたいに口を開けた。そんな僕に微笑して、その柔らかな表情のまま彼は言った。
「お前の描く絵は、見てて楽しい気持ちになれるものだよ」
「……馬鹿にしてる?」
「なんでそう捻くれた捉え方するかなぁ。馬鹿にしてない。だからさ――追いかけ続けてよ」
真剣な双眼が僕を射抜く。鋭い刃のようだと思ったが、じっと見ていればそうではないことに気が付く。ただただ懇願する手の平がそこに見えた。
「俺はずっと先で、立ち止まったままだから。とっとと追いついて、俺を焦らせて、俺の背中を押して欲しい。俺はお前に、絵を描き続けて欲しいよ」
「どうしてそんなに――」
「あ。待って、今の無し。話す順序間違えた。テイクツー行くからちょっと記憶消して」
「いや無理だから。何言ってるの」
呆れたように返すと、紫土はがくっと肩を落とす。
「そうだよな……じゃあ、いいや。とにかくさ、その絵、絵の具で描こう」
「……分かった。暇だし、描くよ」
「時間的に油絵はやめた方がいいな。水彩とアクリルどっちが良いかな……アクリルでいいか」
紫土は椅子から立ち上がり、食器を台所に運ぶ。僕の分まで持って行ってくれた彼に小さくお礼を言ってから、席を立つ。一応自分の絵の具を探しておこうと思い、部屋に行こうとしたら「そういえばさ」と声をかけられた。足を止めて振り返ると、思わぬ言葉を落とされる。
「お前、まだ進路決めてないんだろ? 俺が行ってた美大行きなよ」
「え、就職するつもりだったんだけど」
「は? なんで? 俺と親父の稼ぎがあるんだからお前働かなくてもいいじゃん。やりたいことやって楽しく生きてよ」
「やりたいことなんてないし、いつまでも養われているままなんて気に食わない」
「ふうん……そうか。まぁ、好きにすればいいと思うけどさ、そういう選択肢もあるって覚えておいて。まだ二年だからもう一年あるんだし、もう少し悩んでもいいと思う。――あ、俺の部屋行って絵の具とか用意しておいて。水は俺が持ってくから待っていていいよ」
彼が洗っている皿に向き直ったことを確認してから、階段に向かった。
彼の言う通り、絵の道に進むという選択肢もあるのだろう。けれどその選択肢を選ぶほど、僕は絵を描くことに執着していない。彼のように仕事にしてずっと描き続けられる自信なんてない。
進路のことは、ただ就職で良いかとしか考えていなかった。まだ二年だから、それほど深く考えていない。けれどこうして話に出されると、考えてしまう。高校生でなくなった僕はいったいどこに行ってどう生きるのだろうかと。
流れに身を任せて生きれば良い。そんな風に結論を出しているうちに、紫土の部屋に着いていた。
部屋の左端に置かれたベッド。その周りには絵の具とペンと紙が散らばっている。窓を隠すように置かれたキャンバスに描かれた絵は、恐らく描きかけなのだろうが、惹き付けた視線を離してくれないくらい美しかった。下の方に控えめに描かれた建物。その上に大きく描かれているのは夜空だ。濃藍と紫紺を混ぜ合わせたような空の中で弓張月が淡く光っている。吸い込まれるような空というのは、きっとこういう空のことを言うのだろう。
階段から聞こえてきた足音にはっとして、僕は慌てて部屋の中を見回した。絵の具を用意しておけと言われたのに、用意する前に紫土が来てしまった。
「あれ、絵の具見つからなかった?」
「いや……えっと、部屋、汚いなって」
「使ってるとこうなるもんだよ」
紫土は筆洗バケツを机に置いてから棚を漁って首を捻り、洋服箪笥を漁ってまた首を捻り、今度はベッドの下を覗き込む。そこから引っ張り出した長方形の箱を開け、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった、失くしたかと思った」
「整理整頓しないからそうなるんだよ」
「整頓したところで、使えばまたぐちゃぐちゃになるだろ? ほら、整理整頓なんてする意味がない」
「……あんたには何を言っても無駄だよね」
「しっかり者の兄を持って幸せでしょ?」
否定も肯定も出来ずに顔を引き攣らせる。僕よりも優れている兄だけれど、しっかり者かと言われると首を縦に振れない。
微妙な顔をしていたら、紫土が僕の両肩を押してくる。
「はいはい、そんな目で見てないでとっとと座って」
「はいはい」
「はいは一回でしょ」
「あんたが先に二回言ったんだろ」
紫土の勉強机の椅子に座り、頬杖をつく。待っていると、何も置かれていなかった机の上にあのスケッチブックと消しゴムが置かれた。
「とりあえずそのデッサン薄くして、下書きに使おう。お前が絵を薄くしてる間に絵の具厳選しといてやるから」
線を擦らないように気を付けつつ消しゴムをかける。薄くし終えると絵の具と筆と水、パレットが机に置かれたため、僕は筆を手に取った。
「あ、見本忘れてた」
絵の具をパレットに出していたら、紫土がポストカードを取り出してくる。そこに印刷されているのはこれから模写する絵だ。よくそんなものを持っていたなと思いつつ、それを見ながらベースとなる色を塗って行く。
久しぶりの感覚に、不思議と溜息が出た。筆がスケッチブックの上を滑る感触、すっと塗られていく絵の具、筆を洗う際に水に溶けていく色。どれもこれも、どうしてか心を落ち着かせてくれる。
水の音も筆の音も、聞き心地が良くて無心になれる。色を広げて重ねて、紙上の世界を作り上げていくことだけに夢中になれる。これから少しずつ奥行きを描いて、少しずつ光を乗せて、細かい所に手を付けることを想像すれば、ざっくりと色を置くことも楽しめた。
どのくらいの間、そうして筆を動かしていたのだろう。
木の陰影を描いていた僕の背に、紫土が声をかけてくる。
「お前、母さんがなんで死んだか、覚えてない、よな?」
聞きづらそうな声だ。突然そんな質問が浮かんだわけではないようだった。恐らく、ずっと聞きたくて、けれど聞けなかったのだろう。そんな語調だった。
僕はパレットで色を混ぜながら、過去に思いを馳せる。深緑になった絵の具をそっと紙に乗せ始める。
「足を滑らせて階段から落ちて亡くなった、って父さんから聞いた気がするけど」
「俺が突き落として殺したんだよ」
一瞬、筆を動かす手を止めてしまった。紫土が言っていることが事実なのだと、どうしてかすぐに受け入れられる。大きな動揺を見せずに描画を続けていたら、彼は自嘲的に笑っていた。
「あんたも親父も紫苑も死ねばいいって言ってさ、母さん突き落としたら、お前が下にいた。お前、救急車をすぐ呼んだ後、俺を抱きしめたんだよ。母さん助かるから、大丈夫だ、って。震えてるくせに俺を落ち着かせようとしてた」
「……そう」
「驚かないんだ? 俺のこと、恨みもしないんだね」
「驚いているけど、恨むわけないでしょ」
絵の細部を描いて、一旦色を変えるために筆を洗う。紫土が何も返してこないから、僕は付け加えるように呟いた。
「その時の僕があんたを突き放さなかったんだから、今更恨んだり嫌悪感を抱いたりなんてするわけない。……まぁ、好きではないけど」
「はは、知ってるよ。お前、俺が嫌いだって言ってたし。けど優しいね。許してくれるんだ?」
「許すとか許さないとか、そんなことを決めるのは僕じゃない。あんた自身だろ?」
「……そう、かもね。紫苑、その色、もう少し白を足した方がいい」
パレットで明るい緑を作っていた僕に、アドバイスが出される。言われた通り、少しだけ白を足した。すると今度は「この色も入れてみて」と黄色い絵の具を差し出してくる。ほんの少し黄色を足してみると、陽光に照らされた草木の色が出来上がる。
その色を細筆で塗っていたら、再び声がかかった。
「刺青のことも、首絞めたことも許してくれる? まぁ……またするかもしれないけどさ」
「……やめて欲しいとは思ってたけど、吐き出し方がそれしかないのなら好きなだけ抉れば良いとも思ってたから、別にいいよ」
これからもまた苦しめられるのかもしれないと思うと項垂れたくなるが、反抗するのも抵抗するのも面倒くさい。そもそも僕が黙ってそれを受け入れれば、紫土が一人で抱え込んで苦しむようなことがなくなるのだからそれでいい。真っ当に生きようとしている彼の闇を少しでも取り除けるのなら、協力したい。
そうすることで、家族でいられるように感じているのかもしれない。歪な絆だったとしても、それが切れてしまったら、お互いに無関心になって『他人』になるような気がしていた。きっとそれが、痛みなんかよりもどうしようもなく怖い。
父親と最後に目を合わせた時のことを思い出して、筆を持つ手が震えた。無感情で真っ黒な瞳は、脳裏にこびり付いてなかなか消えてくれない。ゆっくりと息を吐いてなんとか落ち着こうとしていると、僕の背後で紫土が苦笑する。
「お前って意外とマゾヒストだったりする?」
「はぁ? その首百八十度回転させてやろうか?」
「やめてよ、俺フクロウじゃないんだから死んじゃう」
冗談だ、と言うように笑われる。僅かに苛立ちながら筆を動かしていたら、その手を紫土に掴まれた。
「苛立ちに任せて描かない。そういう描き方もあるけど、この絵にその感情は合ってないよ」
「あんたが苛立たせてるくせに」
「あれ、そうだったっけ」
「……はぁ」
飄々とした物言いに、呆れて苛立ちも失せていく。紙にそっと筆を付け、柔らかい線を描く。少しずつ完成に向かって行く絵は、先ほど見た紫土の絵と違って引き込まれない。これが実力の差だ。それでも、過去の自分の絵と比べたら彼に近付けているような気がして、嬉しさに似た感情が込み上げる。
紙の上で、筆は止まることなく躍っていた。
途中で何度か紫土がアドバイスをしてきた。それを聞き入れて絵を描き続ける。紫土のおかげか、色は綺麗に再現されている。絵から拙さが垣間見えるのは、筆遣いと色の置き方が稚拙だからだ。きっと、彼が描いたならもっと綺麗な絵が完成したことだろう。
「……これが今の僕の限界、かな」
これ以上描き足すのは良くないと判断し、溜息混じりに吐いて筆を置く。顔を振り向かせると、頬にペットボトルがぶつかった。
水が入ったそれを受け取り、蓋を開けて乾いた喉に流し込む。蓋を閉めて返そうとした僕の頭に彼の手が置かれた。いきなり頭を撫でられて、咄嗟にその手を振り払う。
「何してるの」
「よくできましたねーって労ってみただけだよ」
「あんた絶対僕のこと馬鹿にしてるだろ」
「そんなことないって。この絵、まぁまぁな出来だし」
描き上がった絵をじっと見ながら、紫土が眉を寄せる。完成に手を貸した彼だからこそ、この出来に納得がいっていないのかもしれない。悩むように唸ってから、彼は「あ」と口を開けた。
「夕飯は俺が作るよ。何がいい?」
「昼食は?」
「今十四時だけど、昼飯食う?」
そんなにずっと描いていたとは思わなかった。時間の経過に驚きながらも、僕は頷く。
「夕食の時間をずらそう。お腹空いたから何か作る」
「俺が作るって言ってるでしょ。お前は絵の具とか片付けといて。適当に作ってくるから」
有無を言わさぬ語調に圧倒され、仕方なく彼に昼食を任せることにした。洗わなければいけないものを手に持って部屋を出ようとすると、先に廊下に出ていた紫土が顔を覗かせてくる。
「紫苑。お前の場合、もっと描いているものをよく見て、どんな筆遣いで描けばいいか考えて、描くものによって筆遣いを変えてみたりしたら上手くなると思うよ。センスは悪くないから、才能がないわけじゃない。庭に転がってた石を磨いてみたらダイヤモンドでした、ってなりそう」
「例えのセンスがないね」
「俺が珍しく褒めてやったのに、お前ってほんと可愛くないよな」
再び一階に向かって行く紫土の背中を追うように、僕も部屋を後にした。
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