第十三章

きょうだい1

 ズボンのポケットの中で、携帯電話が振動した。重たい瞼をゆっくりと持ち上げて、僕は体を起こす。指先の触覚を刺激したのはアスファルトではなく布団だった。

 まるで、短い夢を見た後のようだ。偽物の月の世界で枯葉に殴られ怒鳴られたことも全部、夢だったのではと思ってしまう。それくらいあの世界にいた時間は短く感じた。あれが夢でないのなら、僕は五時間ほども意識を失い続けていたことになるのだろうか。

 そもそも、まだ夢の中にいるような気分だった。けれど握り締めた拳が痛みを知らせてくるから、夢ではないと分かる。

 携帯電話を取り出して見ると、東雲からメールが来ていた。内容の大半は、僕が倒れたことについてだ。東雲が来た時には僕は倒れていて、枯葉が狼狽していたらしい。東雲は彼を落ち着かせて、それから六時になるまで僕の傍にいてくれたようだ。人兎に殺されなくて良かった、と安堵しながら、画面をスクロールする。

 僕が倒れたのは貧血ではないかと書かれていた。もちろん、ちゃんと睡眠を取れという内容の説教付きでだ。東雲らしいと思いながら読んでいくと、何故か話がどんどん脱線して行く。『昨日は仕方なかったので家に送りましたが、学校をサボってはいけませんよ』などと書かれているが、今メールで言わなくても良い内容だと思う。

 枯葉に渡していたバタフライナイフはどうやら回収しておいてくれたらしい。ベストのポケットに手を入れてみると、確かにナイフが入っていた。

 それからまた少しどうでもいい話が始まり、最後の一文でようやく話題が元に戻っている。


『今日はこうなってしまいましたが、明日はどうするんですか?』


 そこまで読んで、僕はとりあえず今日のお礼を先に述べてから、明日こそ蘇芳のもとに行くということだけを打ち込んでメールを送信した。

 電話をポケットに仕舞い直し、ぼうっとする。自分の頭の中に意識を集中させて記憶を遡ってみるが、結局なにも思い出せていなかった。考えても苛立つだけだと判断し、朝食を作るために部屋を出る。

 階段へ向かいながら、朝食は何にしようかと悩んでいると、紫土の部屋の扉が突然勢い良く開いたおかげで衝突しかけた。衝突は回避できたが、咄嗟に後退しようとしたせいで尻餅をつく。


「……なにしてんの?」


 部屋から出てきた紫土は、眠そうな無表情で僕を見下ろした。自分のせいで僕が被害を被ったなんて思ってもいないのであろう彼を、思わず睨め上げてしまう。


「見れば分かるだろ。転んだんだ」

「へぇ、朝から元気だね」

「はぁ? というか、もっとゆっくり開きなよ。なんで扉蹴り破る時みたいな勢いで開けてるんだよ」

「いや、紫苑の部屋の扉の音が聞こえたから、そろそろ来るかと思ってさ」


 表情一つ変えずに言われては、冗談なのか本当なのか分かりかねる。これ以上話しても時間の無駄だと思い、彼の横を通り過ぎて階段を下る。リビングに行って冷蔵庫から食材を取り出し、台所に立った。

 椅子が引かれた音がしたから、紫土が座ったのだろう。起きているのなら僕の代わりに料理をしてくれても、と思ったが、彼が料理をしている姿を見たことがないため、何も言わないでおく。処理に困る物を作られては食材が勿体ない。

 ジャガイモを切って器に入れ、それを電子レンジに入れてからベーコンを切り始める。静かな包丁の音に耳を傾けていると、紫土が「なあ」と呼びかけてきた。何も返さず料理に集中していたら、言葉が続けられる。


「お前、今日学校休みね。俺が連絡しといてやるからさ」

「は?」


 いきなりのことに、危うく手を滑らせるところだった。本当に僕を休ませようとしているらしく、台所の向こう側で椅子に腰掛けている紫土は携帯電話を操作していた。

 状況が一切掴めないまま、僕は彼を止めるように早口で捲くし立てる。


「勝手に休みにされても困るし、わざわざ連絡なんてしなくていいよ。そんなに休んで欲しいなら無断欠席するから。電話はしなくていい」

「無断欠席って、良くないだろ」

「いいんだよ、昨日だってそうしたし。大体いきなり何?」

「今日は俺、仕事休みだから。俺の描画に付き合ってくれない?」


 描画。それを聞いて僕の顔から表情が抜け落ちる。数週間ぶりに刺青の続きを彫られるのか、と視線を落としたら、紫土が暗くなった空気を笑い飛ばそうと、乾いた吐息を響かせた。


「言っておくけど、普通に絵を描くだけだよ。絵の具とかは俺のを貸してやるから、描いてよ」

「あのさ、もしかして僕に何かを描かせようとしてるの? なにがしたいのかよく分からないんだけど」

「……そう、だなぁ。ちょっと待ってて。あ、紫苑、オムレツ作っといてね」


 唐突な注文を受けたが、言われなくても作るつもりだった。彼に出す朝食は、とりあえず卵料理を一品用意しておくことで機嫌を取れる。朝食を作る時間がなかった時はご飯と生卵と醤油だけをテーブルに置いておいたのだが、どうやらそれでも満足出来たらしい。

 電子レンジが音を立てたため、ジャガイモを取り出して潰した。ベーコンをちょうど良い固さになるように焼いて、ジャガイモが入っている器に入れ、塩胡椒を加えながら混ぜる。それを皿によけてから、卵を割って溶き、バターを溶かしたフライパンへ流し込む。火を通しながらフライパンを傾けて形を整え、そろそろ良いかと思ってマッシュポテトの上にオムレツを乗せた。オムレツをナイフで軽く切れば、とろっとした卵がポテトを覆うように零れていく。

 完成したそれをテーブルに置いてからソースを作り忘れたことに気が付いて、とりあえずケチャップと中濃ソースのどちらかを使ってもらうことにした。ご飯や箸などを並べていると、紫土がようやく戻ってきた。

 彼が持っているスケッチブックに、見覚えがある。気付けば、僕はそれを引っ手繰ろうとしていた。

 しかし紫土の頭上に上げられたそれに手は届かず、彼を睨みつける。


「なんで、あんたがそれを持ってるわけ」

「ゴミ袋に捨てられてたからさ、カラスの真似事をしてみたんだよ」

「今すぐ捨て直せ」

「嫌だよ。俺は、これを拾った時からずっと、お前にこの絵を完成させて欲しいと思ってた」


 彼の影が蠢く。頭上に掲げられたままのスケッチブックが、影に捲られていった。ゆっくりと捲られる紙に描かれているのは、どれもこれも稚拙な絵。彼の描く絵と並べたら笑われるだけのものだ。それを見ていたくなくて目を逸らし、紫土にバタフライナイフを向けた。


「もういい。それを捨てる気がないなら僕に返せ」

「――あ、これこれ。この絵さ、俺も協力するから、完成させない?」


 僕の言葉は聞こえていないかのように流される。首に向けられた刃がその皮膚を裂くかもしれないというのに、紫土は焦りも動揺も一切滲ませない。涼しげな顔を上目遣いに睨むと、開かれたスケッチブックが視界に入る。

 そこに描かれていたのは、一切塗られていないただのデッサン画だ。ルノワールの、シャトゥーのセーヌ川を模写したもの。瞠目してそれを見つめていたら、紫土がゆっくりと手を下ろし、スケッチブックを僕に差し出してくる。


「小学生の時にデッサンでここまでやれるなら上出来だ。まあ、所々雑だったり大きさおかしかったり誤魔化しているような部分があって物凄く下手だけど」

「……悪かったね下手で。だからいいんだよ。もう絵なんて描かない。描く理由なんてとっくに無くなったからさ」

「勝手に無くさないでよ。お前、俺に追いつきたかったんじゃないの? いや、違うか。追い抜きたかったんじゃないの?」


 紫土は僕の気持ちなんて何も知らないと思っていた。兄はいつからか、弟に無関心になっていたような気がしていた。だからこそ、真意を突かれた僕は息を呑む。


「なんで……」

「知ってるよ。お前がなんで絵を描いてたか、なんで描くのをやめたのか、俺は全部分かったつもりでいる。俺に向けられてる両親の愛が欲しかったから、ちやほやされてる俺が羨ましかったから、俺みたいになりたかったんでしょ? けど母さんが死んで、親父が俺らに無関心になったから、もうなにもいらないんだよね」

「は……?」


 始めはただ知られていることが不思議で黙って聞いていた。けれど、違う風に解釈されている部分があり、つい疑問符を口に出す。すると紫土は、どこか歪な笑みを浮かべて不気味に首を傾げる。


「あれ、違う? あー、じゃあ、トモダチに拒絶されたから、もう何もしたくないし何も欲しくない、ってなったんだっけ?」

「お前、さっきから僕に喧嘩売ってるのか?」


 肌に触れる空気が、いつの間にか殺伐としたものになっていた。殺意と敵意の視線が絡み合う。気を抜けば刺されそうな雰囲気に、瞬きすら忘れる。

 紫土の鋭い瞳の下で、愉しそうに笑う口がゆっくりと開いた。


「はは、そんな目しないでよ。殺したくなる」

「殺せるものなら殺してみれば? それで社会的にお前を殺せるんだから、最高だ。まあ、たかが僕一人の命でどの程度苦しめられるか知らないけど」

「……俺が悪かった。ごめん」


 一瞬で空気ががらっと変わった。頭を抱えた彼に、僕は小さく溜息を吐く。挑発に乗って挑発を返した僕だって悪かった。だから謝ろうとしたが、その前に彼が続けた。


「違うんだ。こんな話をしたいわけじゃない。紫苑を苛立たせたいわけでも苦しめたいわけでもない」

「分かってるよ。言いたいことがあるならとっとと言えば?」


 僕が『分かっている』と言ったことがそれほど予想外だったのか、紫土は面白いくらいに目を見開いていた。何年共に過ごしていると思っているのだろう。彼が僕に牙を剥くのも、毒を吐くのも、恐らく言いたいことを言う代わりの行為だ。

 本当は言葉にしたいことが別にある。そんなことは、僕を傷付けた後の彼の顔を何度も見ていれば、誰だって分かるはずだ。

 きょとんとしたままの彼をちらと見てから、僕は椅子に座って箸を手に持った。


「まあ、言わなくてもいいけど、とりあえず早くご飯食べて。冷める」

「ああ、そうだね」


 何気なく、会話がなくなる。話し声以外の生活音だけが室内を占めて、落ち着く。僕は紫土よりも先に食事を終え、先ほどの会話を思い出しながら彼の言葉の修正を始めた。


「僕が絵を描いていた理由は、あんたの言う通りだよ。けど、描くのをやめた理由は違う」


 目線を上げると紫土と目が合う。どうやら、やめた理由までは分からないみたいだ。僕は促されるまでもなく再び開口した。


「追いかけていた背中には絶対届かないし、肩を掴んで振り向かせてやることも絶対に出来ないって思ったから、描くのをやめたんだ」

「なにそれ」

「僕とあんたの視線の先が違った。求めているものが違った。だから僕は、紫土にはなれないし、紫土みたいな絵を描けないし、誰にも褒められない駄作だけしか描けないって思い知ったんだよ」


 ここまで言ってもなお、彼は理解出来ないと言いたげに眉を寄せていた。

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