きょうだい4
□
河内
そんな彼の存在を意識し始めたのは、彼が中学三年生だった年の、秋頃のことだった。それ以前は、座学だけでなく調理実習などの実技も真面目にこなす、優秀な生徒だなという印象しかなかった。
彼への印象が変わった日のことは、よく覚えている。
「それじゃあ、また。機会があったら会いましょうね」
秋風が香る夜の街の中、スーツを着た男性に微笑んで手を振る。この男性と会ったのは今日が初めてで、そしてもう二度と会うことはないだろう。彼の連絡先が書かれている紙は、去って行く後ろ姿を眺めながらすぐに破り捨てた。
顔立ちや背格好は好みだった。けれど、ただひたすら己の欲望に任せて女を抱く男は、好みとは程遠い。こちらが苦痛に顔を歪ませてもなお、優しさを見せる余裕などないかのように貪られた。仕事のストレスを発散するために快楽を求めて来たはずが、得たのは疲労ばかり。
この疲労感を癒すほどの快楽が欲しかった。別の男を探そうと思って歩き出した私の肩に、誰かが手を置いた。自分から出向くまでもなく男を釣れたのか、と振り返ってみれば、そこにいたのは、私が教師を勤める中学校の制服を着た男子生徒だ。
「あなた……三年生の、河内くんだったかしら」
「覚えていてくれたんですか。ありがとうございます、綾瀬先生」
にこりと微笑む顔は、綺麗だ。先ほどの男よりも美形かもしれない。
今は夜十一時。こんな時間に中学生が外にいることを、まず咎めるべきだったはずだ。しかし私は、彼の頬に触れて妖艶な笑みを浮かべていた。
「それで? あなた、私とやりたいの?」
「何を言っているんですか。俺は、先生にそういうことやめた方がいいって言いたくて引き止めたんですよ」
「あら、中学生の坊やが随分堅苦しいこと言うのね。もう少し欲望に忠実に生きた方がいいわよ?」
そっと彼の手を取り、その手を私の胸に押し付ける。感触を確かめさせるように触らせていたら、彼に手を振り払われた。
きっと面白い顔をしているだろうと予想して目線を上げてみたが、彼は毅然としていた。その表情から動揺は見て取れない。そこにあったのは、憐れみに似た顔だった。
思わずきょとんとした私に、河内くんは静かな怒声を突き刺す。
「綾瀬先生。もっと、自分を大切にしてください。もし妊娠でもさせられたらどうするんですか。もし、妊娠出来ない体になったらどうするんですか。相手が病気を持っていて、感染したらどうするつもりですか」
「……生徒のくせに、説教?」
「違います! 説教っぽく聞こえるかもしれないですけど、俺はただ、自分の身を汚している先生が……えっと、その、可哀想だなって、思っただけで」
可哀想。そんなことを言われるとは思っていなくて、目を瞠ってしまう。言いにくそうに紡いだ彼はきっと、可哀想という言葉をかけることが失礼だと思っているのだろう。けれど私は気分を害さず、それどころかおかしなことに、笑いたくなっていた。少しずつ頬が緩んでいく私の前で、彼は必死に説得のようなものを続ける。
「だって、綾瀬先生がしていることって、自傷行為と同じじゃないですか。自分を傷付けるなんて、やめてください。それで気が楽になるとしても、そんなの、一時的に騙しているだけだ。消えない傷が残ってしまったら、取り返しが付かないんですよ? 俺は、先生の人生がこんなことのせいで滅茶苦茶になったら嫌です。いつも料理や裁縫を優しく教えてくれる綾瀬先生には、幸せな家庭を築いてもらいたい」
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね。口説いているのかしら?」
「だからそういうことじゃなくて!」
「分かってるわよ、もうしない」
河内くんの頭を撫でながら言い切ってみせると、彼は少しの間の後、ほっとしたように双肩を落とした。それからすぐさま私の手を振り払う。可愛げのない子だと思っていたら、いきなり詰め寄られて息を呑まされた。
「本当ですね? 口だけとかそういう大人気ないことをしたら許しませんよ。何度でも止めてやりますから」
「ふふ、素敵な告白ね。あなたが中学生じゃなかったら恋してたかもしれない」
「はぁ? 俺はそういうことを言いたいんじゃないんですってば」
「はいはい。真面目くんはこれだから困るわ。で? その真面目くんはこんな時間にこんな所で何をしているのかしら? 不良少年の物真似?」
聞かれたら困ることでもしていたのか、彼の目が泳ぐ。右へ左へと動き続ける黒目はなかなか正面に落ち着かない。一歩彼に近寄ってみると、彼は後退しながら小さな声を絞り出した。
「えっと……バイト、してました」
「バイトって、あなた今中学三年生よ?」
「あ、ははは……」
「笑って誤魔化さない。あなた頭良いんだから、中学生のアルバイトが労働基準法で禁止されていることくらい知っているわよね? そんなに生活が苦しいの? あなたご両親はいるんでしょう?」
両親という単語を耳にした彼を見て、しまった、と思った。何も知らないからといって、聞いて良い事と悪い事がある。失言を取り消そうとしたが、その前に彼が返答してきた。
「両親は、俺が小学生の時に亡くなりました。今は祖父母と暮らしているんですが……えっと、俺も妹も祖父母にとっては邪魔みたいで……それで、お金溜めて妹と二人で暮らしたくて、バイトしないとなって」
「……あなたが中学生だってこと、働いている所の人は知っているの?」
「知ってたら、働かせてもらえないですよ」
「店に案内しなさい。今すぐそのアルバイト、やめてもらうわ」
彼の家庭事情はとても心配になるものだったけれど、その話を詳しく聞くのは良くない。そう判断して質問はしなかった。ひとまず彼の働いている所に頭を下げに行かなければ、と彼の手を引いたら、彼は抵抗するように私の手を払おうとした。
「まだ、やめるわけにはいかないんです。今のお金じゃ足りない。早くお金を貯めないと、俺は妹を守れないんですよ!」
「守りたいなら誰にも迷惑かけずに守りなさいよ。年齢を黙って働いていることで店側に迷惑がかかるのよ?」
「けど、俺は……っ」
「あなたは今中学三年生。春になれば高校生よ。少し我慢すればいいだけ。だから今のバイトはやめなさい。じゃないと、私も今日みたいに男と遊ぶのをやめないわ」
脅すように言ってみせると、彼は迷いを見せる。数秒悩んでから、首を縦に振ってくれた。
「分かりました。じゃあ、これは約束です。俺はバイトをやめる。先生は自分を大事にする。約束、守ってくださいね」
「ええ、今度からは自分を傷付けない程度のお遊びにするわね。さ、案内して」
「……はい。こっちです」
――あの時、彼の家庭のことにもっと踏み込んでいれば、何かが変わっていただろうか。
私は河内くんの病室で、眠り続ける彼を一瞥してから溜息を吐く。彼がこうなったのは、ただの不幸な事故のせいだ。信号無視をした車に跳ねられた。それだけだ。
しかし彼が眠り続けるようになったことで、きっと彼の妹の心には深い傷が付けられた。
河内さんと初めて出会ったのは、彼が植物状態になった後だ。当時の彼女は私が声をかけても一切反応を示さなかった。そんな彼女が息を吐くように落としていたのは、いつだって「死にたい」という独り言。
彼女を放っておけず、必死に声をかけたこともあったが、初めて返してもらえた言葉は「もう二度とここに来ないで」という拒絶だった。
私の存在が彼女を更に傷付けるかもしれない。そう思ってしまって、自然と足は病室から遠のいた。それから約一年、彼女と会うことはなかった。中学生になって久しぶりに見た彼女は、心が落ち着いたのか、河内くんを思い出させる真面目な生徒になっていた。授業態度がそっくりだったことを思い出して、つい笑ってしまう。
河内くんをじっと見ながらこの兄妹のことを振り返っていると、病室の扉が開いた。そちらに目を動かした私は一瞬驚いたが、安心させるように優しい笑みを浮かべてあげた。
「河内さん、ここで会うのは久しぶりね」
「……なんであんたがいるのよ」
「なんとなく、来たくなってしまったから、かしらね」
私はベッドの傍に置かれている椅子にそっと腰をかけた。その様子を見た彼女は、私がまだ帰るつもりがないことを察したらしく、不満げに眉を寄せていた。
彼女は持っていた花束をベッドの奥――窓際に置かれている小棚の上に置いて、壁に寄りかかる。その視線は河内くんだけを見つめた。悲しさと悔しさが混ざり合った瞳は、泣き出しそうに揺れていた。けれど彼女が涙を零すことはないのだろうと思ったら、悲しくなる。
「ねぇ、河内さん。あなた、もう少し自分に優しくなってもいいと思うわよ」
柔らかく、沈黙を払った。彼女の心の重みも、取り去りたかった。自分を責めて、自分さえいなければと思い込んでいる彼女の痛みを、和らげてあげたい。
大切な教え子がこんな状況になって、彼が必死に守ろうとしていた彼女がこんな顔をしていたら、何もしないわけにはいかない。
やはり、呉羽くんに『ウサギ』のヒントを言うべきではなかったのだ。黙っていれば、彼女は呉羽くんと対峙することなく、静かにあの世界を終わらせる選択肢を選べたと思う。尤も、彼女に偽物の月の世界を壊す気があるのかどうかなんて、私には分からないのだけれど。
「……あたしは、あたしが大嫌いよ」
自分自身を呪うような声は、掠れていた。震えた唇が、僅かに開かれる。なにかしらの感情に喉を締め付けられているのか、その唇の隙間から溢れたのはひどく苦しげな呻吟だった。
「守られてばかりで、失ってばかりで、殺してばかりで……こんな人間に優しくなんて、あたしには出来ない。こういう奴は、とっとと死ねばいいのよ」
「あなた、本当は生きていたいんでしょ?」
思わず、言下に返していた。彼女の発言を良く思わなかった私が、どんな響きで今の言葉を言っていたのか、声色を意識していなかったせいで思い出せない。気を悪くされても仕方がない。
しかし彼女は、その面差しに大きな変化を見せなかった。全てを諦めていることを物語る無感情な目が、私を見据える。
「違うわ。だって、生きていてもいいことなんか、もう、ないの」
「そうかしらね。あなたにはお友達がいるでしょう?」
「どこにそんな奴がいるのよ……!」
私を睨んだ彼女は、本気で自分には友達がいないと信じていた。孤独だと思い込んでいる彼女の苦痛は、顔と声だけで伝わってくる。友達という単語は相当癪に障ったようで、目も眉も吊り上がっていた。
ここが病院で、彼女の大切な人の病室だということすら忘れてしまったみたいに、遠慮ない怒号が私に投げつけられる。
「あたしに、友達? ふざけないでよ、誰もあたしのことなんか見てない。誰もあたしなんて見てくれない。誰も、あたしが泣いてたって気付いてすらくれない。誰もあたしを連れ出してくれない!」
「そんなこと――」
「どれだけ心も体も壊れそうでも、鳴けないウサギは檻の中で誰にも気付いてもらえずに死んでいくのよ!!」
甲高い声で鋭く言い放った直後、その顔は下を向く。悲鳴によく似た叫びが耳を突き抜けて、胸が痛んだ。ずっと耐えてきて、我慢出来なくなったのであろう思いが彼女の喉を泣かせていた。震えた呼吸音が、泣き出す寸前のようだった。
私は彼女を慰めたくて、立ち上がった。それに気付いた彼女は、俯いたまま私を拒絶する。
「……出てって」
「河内さん」
「何も言わないでよ。あんたがあたしに言う言葉は全部、『教師として』『大人として』子供にかけてるだけのものでしょ。そんなのいらない。あたしは『子供』じゃない。『あたし』の為じゃない言葉なんて、何もいらない」
私では駄目なのだ、と、元々分かっていたことを更に深く刻み込まれた。
彼女が友達だと思っていない協力者達は、きっと彼女のことを友達だと思っている。彼らが彼女にかける言葉も私が彼女にかけている言葉も、彼女だけに向けている言葉だ。立場も年齢も関係ない。けれど、これが彼女を惑わせ、不信感ばかりを募らせている。
氷で出来た檻の奥にある、傷だらけの心。それに触れることも、その傷を癒すことも、私では出来ない。
その痛みを受け止める覚悟がないから、一方的な思いで咎めてばかりだから、熱のこもった手を伸ばせないのだろう。大人の悪意で利用されそうになって両親を失い、孤独に凍り付かされてしまった人の心は、私には簡単に溶かせない。
「……もし、いつか河内くんが目を覚ました時にあなたが死んでいたら。どんな気持ちかよく考えてみなさい。あなた、彼に一つでも恩を返せたの?」
それだけ言い残してすぐに、私は病室を出て行く。今の言葉が呪いのように彼女を縛ってくれても構わない。彼女の生きる理由になってくれれば、それで良い。
閉じた扉の向こうで、微かにすすり泣く声が聞こえてきた。私には、祈ることしか出来なかった。あの孤独な少女を、どうか助けてあげて欲しい。始めから不幸な人生を辿ることになっている人間がいるなんて、そんなことは絶対にないと信じたい。
人は、変わることが出来る。その人が変われば、周りだって変えられるかもしれない。けれど簡単には変われない人がほとんどだ。
だから、誰でも良い。誰か、彼女を導いてあげて。暗闇の道で迷い、前にも後ろにも進めない彼女を、光のある道へ連れ出してあげて。
「……っ」
自分が情けなくて、唇を噛む。私が彼女くらいの年の頃は、大人になれば何でも出来ると思っていた。けれどもそんなことはなかった。所詮、人は人だ。出来ないことはいくつになってもなくならない。人の心が関わってくる問題となると尚更だ。
自分では駄目だと諦めるような私に、彼女の方へ手を差し伸べる資格なんてない。
私は不幸な兄妹のいる病室を振り返ることなく、病院を出ることにした。
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