あなたのおうちはどこですか3

 こっちは真剣だということを、目で、声で、表せる限りの全てで訴える。始め驚いたように目を丸くしていた東雲だが、すぐに双眼が細められた。性格の悪さが滲み出ているような笑みに、獲物を捉えた蛇のような鋭い目に、僕は僅か気圧される。


「命令形ですか。可愛くないですね。敬語でも使ってみたらどうなんです?」


 その口元はひたすら三日月を象っているのに、吐き出される低声は優しさの欠片もない刃のようだ。僕は歯噛みして、テーブルの上に置いたままの手を握り締めた。

 東雲の目から逃げるように俯く。ほんの少し開いた僕の唇の隙間から、小さな声が漏れ出る。


「っ…………答えて……下、さい」

「冗談だったんですけど。意外と可愛い所があるじゃないですか」


 今の僕には、今の声量で頼み込むのが精一杯だった。出来る限りの誠意を見せたつもりだった。だからこそ、東雲が笑いながら飛ばした熟語を聞き流せない。


「……はぁ?」


 聞き間違いであれば良いと思ったが、彼のにやけ面を見る限り僕の耳は確かだったようだ。東雲のそれを真似するように、僕の口角が震えながら上がっていく。

 そんな僕をおかしそうに見て、東雲が「ふふ」と僅かに堪えた気持ち悪い笑声を空気に溶かした。


「まぁそんな可愛い少年に教えてやりたいですが、秘密、ですよ」

「…………その首折り曲げていいかな?」

「すみません。『ウサギ』が誰か知ったら、きっと君は自然でいられなくなる。だから、言えないんです」


 もう、それ以上聞き出そうという気はなくなってしまった。東雲の目尻が申し訳なさそうに下がったからということもあるが、彼の言う通り本当に『ウサギ』を助けたいのなら、今ここで僕が『ウサギ』の正体を知っていいわけがないのだ。

 きっと僕は東雲の手の平の上で踊らされている。僕がその手から降りれば、『ウサギ』を救えないのかもしれない。そう思ったら、誰かも分からない『ウサギ』のために、糸で吊られたままでいてやろうという気持ちになってしまった。

 ――いや、誰か分からないからこそ、だ。


「……僕は繕うのなんて慣れてるけど、まあ……いいや。でももう一つ聞いてくれるかな」

「聞くだけでいいのですか?」

「どうせ答えてくれないんだ。だから顔色から読み取る」

「ポーカーフェイスは得意ですよ、私」


 口端を上げてにっと笑いながら、その顔を指差す東雲。言われなくても、彼が顔を作ることを得意としているなんて承知の上だ。いつ見ても変わらない嘘くさい微笑が浮かべられているのだから、僕でなくても気付くだろう。

 僕は細められた東雲の瞳を、瞳孔の奥から睫の先まで、幽かな動きさえ逃さないように、瞬きすら忘れて見つめ続けた。


「もし僕じゃなかったら、浅葱なのかなって思ったんだ」


 彼女の名前を口にした途端、罪悪感が胸の奥から喉元までせり上がって来て、一瞬息が詰まった。陰口を叩いているみたいで、嫌になる。

 それでもなんとか東雲の目に集中し続けた。慈しみにも憐れみにも似た視線を真っ向からぶつけられ、集中していたのが馬鹿馬鹿しくなって、僕も薄く笑った。


「けど、能力的に違うような気がした。……それだけだよ」

「そう……ですか」


 優しい声が、僕を冷静にさせる。『ウサギ』を見つけ、あちら側から抜け出すことばかり考えて、焦りすぎていた。焦っても疑っても何にもならないのだから、普段通りでいるしかない。浅葱を守りたいと思うのなら、僕が冷静さを欠いてはいけない。常に冷静でいることを心がけなければ、判断を誤って彼女を危険に晒すかもしれないのだから。

 僕は摘まんだクッキーをかじると、喉が渇いていることに気が付いた。今まで会話にばかり意識が行っていたから気付かなかったのだ。


「……水、くれない?」

「水? 遠慮しないで下さい。コーヒーを淹れますよ」

「いや、水で良い。喉渇いてるんだ」

「そうですか。ちょっと待ってくださいね」


 席を立った東雲が視界から消えると、もう一度菓子に手を伸ばしかけて、やめた。手持ち無沙汰になると何かを食べたくなるけれど、水が来るまではやめておく。

 それでもやはり暇で、鞄から適当に引っ張り出した教科書をめくっていたら、台所の方から声がかかる。


「紫苑くん」

「ん?」

「お兄さんには、気を付けてくださいね」


 僕と兄のことをいつ知ったのだろうかと疑問に思ったが、紫土が東雲のことを知っていると言っていたから、ただ互いに知っているだけではなく話したことがあるのだろう。そうでなければ、僕とあいつが兄弟だなんて分からないはずだ。


「……言われなくたって気を付けてるさ。というか、兄だと思いたくない」


 僕が座っている位置から左側にある台所へ向くと、東雲と目が合った。


「……気を付けろと言いましたが、彼の人間性がどうとかそう言う理由ではないですよ。君には分からないかもしれませんが、彼はあなたを愛していますから」

「はぁ?」

「君は家族愛を知らないわけじゃないでしょう? 君が彼に抱いているのもそれですし」


 家族愛。分からなくはないが、僕が家族に対して愛なんてものを抱いている自覚は一切ない。父親に対しては無関心と言っても過言ではないくらい、何も感じていない。紫土には、好意とは程遠い感情ばかり抱えている。

 だから、協力者であっても『他人』でしかない東雲の言葉に、ほんの少し苛立った。見透かすような、どこか得意げな目が気に食わない。


「馬鹿馬鹿しい」

「家族のことに踏み入られるのは、嫌いでしたか? でしたら申し訳ありません」

「……別に、どうでもいいことだよ」

「彼の兄弟愛は確かに歪んでいるかも知れません。その歪みが何に由来しているか知らなくても、彼の拠り所が弟しかないことは君も分かっている。だから、完全に突き放せないんでしょう? 突き放せばきっと、お兄さんが壊れてしまいますし、ね」


 部屋に充満し始めたコーヒーの香りに、僕は短く息を吐き出した。

 東雲はまるで、僕ら兄弟の間にある歪んだ壁のことも、良好でない関係も、見て知ったかのように語る。何故知っているのかと問いかけたくても、きっと答えてくれないであろう問いを出す必要性を感じなかった。

 それに、知っている理由よりも僕が聞きたいことは別にあった。


「さっきから、何が言いたいんだ?」

「……さあ、なんでしょうね」


 また、東雲ははぐらかす。僕の目の前に水を置くと、彼は座って、コーヒーが入っているのであろうコップに口を付けた。

 僕もコップを持ち上げて、東雲に礼を言う。


「ありがとう」

「いえいえ。……さて、先ほどの話の続きですが――君にとって家族ってなんですか?」

「……知らないよ」

「…………君は、どこにいるんですか?」


 質問の意味が分からず、コップの中で揺れる水を眺めながら考える。考えても正答が浮かぶわけもなく、僕は真っ先に浮かんだ答えを口にすることにした。


「僕はここにしかいないだろ」

「そういうことではないです。君が普段いる場所、君がいるべき場所は、どこですか?」

「……さあね。僕がいる所が、僕のいるべき場所なんじゃない?」


 正しい答えが別にあると分かっていながら、素っ気無く返す。その僕の適当な答えに苛立っているのか、東雲の顔が一目見て分かるくらい不機嫌そうだった。いつものポーカーフェイスはどこへやら、舌打ちをしそうなほど口元が歪んでいる。


「まったく、なんなんですか君は。私が言って欲しい答えが分かっているくせに。そういうところが生意気なんですよ」

「いつものお前もそうだろ?」

「……まあ、否定はしませんが」

「で? 僕の居場所が家だから何? そこを壊すなって、大事にしろってわざわざ言いたいの?」


 典型的なお節介な大人。東雲をそんな風に感じた。そう感じた途端、協力者として彼に抱いていた信頼に近い僅かな好意を捨て去りたくなって――そんな自分に苛ついた。

 唇を噛み締めた僕の苛立ちに、東雲も気付いている。それは肌を刺す声色だけで理解出来た。


「分かっているじゃないですか。他人にこんなことを言われると相当むかつくかもしれませんが、私は言わせてもらいますよ。君は君の居場所を、居心地の良いものにするべきです」

「……」

「能力者の多くは、家族との間に壁が生まれて、生き辛くなっている。ストレスが溜まって、能力を犯罪に使ってしまう人もいます」

「僕は、そんなことしない」

「もちろん君がそんなことをするなんて思っていませんが、罪を犯すほどではなくても、君は相当ストレスを溜め込んでいるのではないですか?」


 東雲は、根は優しい奴だと思う。絶対裏があると勘繰って警戒していたのが馬鹿みたいなくらい、真っ直ぐに向き合おうとしてくれている。こんな、面倒くさい僕みたいな子供相手でも、顔いっぱいに広がる表情は真剣そのものだった。

 苛立って捻くれた答えばかり出していた自分を、変えようと思った。今度は僕も、真っ直ぐ返す。


「そりゃ、誰だって溜め込むさ。どこに行っても分かり合えない奴らが大勢いて、理不尽な目に合わされることだって少なくない。だから僕は……紫土あいつみたいに、繕うってことを学んだんだ。でもそれが――繕うってことが、僕のストレスになってることくらい自分で分かってるんだよ」

「……私は、君や君のような能力者に、出来る限り苦しんで欲しくないのですよ。能力者だって、人なんです。能力があるから自分は強いと思い込んでいる人もいる。君がどうかは知りませんがね、少なくとも私は、君の心は脆く弱いものだと思っていますよ」


 当たり前だ。弱くなかったら、わざわざ仮面を貼り付ける必要なんてない。僕だけではなく、きっと人間のほとんどが弱い。感情なんてものがあるから、人は弱くなる。それでもその感情を捨てられないのが人で、偽った強さでその弱さを誤魔化そうとするのが人だ。暴力を強さだと勘違いして、利己主義エゴイズムな優しさを強さだと思い込んで――。

 ふと、思った。強さとは一体なにか。なにを以って、人の心理的性質の強弱を決めているのか。

 コップの中の水を飲み干し、僕は鞄を手に取りながら立ち上がった。テーブルの上に置いていた教科書を鞄に仕舞い込み、そんな僕を不思議そうに見ている東雲に一言告げる。


「そろそろ、帰る」

「……そうですか。……紫苑くん、これだけは覚えておいてください」


 出て行こうとした足を止めて、僕は顔だけを振り向かせる。東雲は自分の手元に落としていた視線を、僕に投げかけた。


「君が今一番大事にするべきなのは、『日常』なんですよ。もしあの造られた世界から解放されたら、君は能力を使うことなく生きていくんです。その時のことを考えてください」

「……悪いけど、先のことを考えられるほど僕は利口じゃないんだ。今の日常が普通の日常じゃなかったとしても、僕からしたら『日常』なんだよ。この先何があるかなんて、正直どうでもいい。どうにでもなればいい。僕がいるのは先でも後でもない今だから、今のことで手一杯だ」


 それでもさ。そんな風に、接続詞を小声で付け加えてしまったことを後悔した。いくら小声と言っても、この部屋には二人だけで、他に大きな音が立っていないから、東雲に聞こえている。なんでもない、と誤魔化そうとしたけれど、開いた口は勝手に喋った。


「僕らしく、生きてると思うよ。心配なんてされなくても、僕は僕らしく生きられればいいと思っているから……それなりに幸せに生きていけるよ」


 東雲に背を向けたまま言い終え、玄関へ向かう。自信がない言葉を、自信満々に続けてしまった。彼の観察眼は鋭いから、今の言葉が虚勢から出たものだと伝わっていると思う。

 本当は、幸せに生きていけなくても別にいいと思うし、僕らしく生きられなくてもいいと思う。普通に生きて、普通に死んでいきたい。幸せなんて、僕の身に余るようなものは望まない。

 自分のことを考えるのに疲れて、小さく息を吐き出す。もう一つくらいクッキーをもらっていけばよかった。そう心の中でぼやいてから、僕は東雲の家の扉を静かに閉めた。


     ◆


 今日はもう帰って、夕食後にのんびり仮眠を取るだけだ。と思っていたが、そんな思いは東雲の家を出て三十分後くらいには既に砕かれていた。

 弓張駅の改札を抜け、階段を下りてすぐ、いきなり袖を引っ張られて転びかけた。人がのんびり帰宅しようと思った途端に一体なんだ、と僅かに苛立ちながら振り向く。僕の袖を引っ張っていたのは、ランドセルを背負った小学生――菖蒲だった。


「菖蒲?」

「……」


 声をかけても、何も言わない。俯いたままの顔は上げられない。また家の鍵を忘れたのかと呆れながら聞こうと思ったが、下げた視界に映った水滴が、僕から言葉を取り去った。

 今更気付いたが、菖蒲は声も零さず泣いていた。僕の袖を掴む小さな手は震えている。こういう時にどうすればいいか分からない自分を、本当に情けなく思う。


「……菖蒲、悪いんだけど今すごく空腹なんだ。とりあえずあそこまで付いてきてくれる?」


 駅前にあるファストフード店を指差すと、少しだけ上げられた菖蒲の顔が、指差す先へ向いた。いつから泣いていたのか、目元が腫れている。頷いたのを見てから、僕はゆっくり歩き始めた。僕の袖から手を離すことなく、菖蒲は付いて来てくれている。

 店に入って適当に注文してから少し待ち、二人分の食事が載ったトレーを持って、人の少なそうな場所に座った。向かい側に腰掛けた菖蒲は、まだ涙を零しながら、ハンバーガーを食べ始める。僕はこれからどうするべきか悩みつつ、鞄の中に入れたままだったはずのトランプを探す。去年暇潰しに持って行っていた物だからまだ入っているはずだが、なかなか見つからない。


「…………紫苑さん、食べないんですか?」

「え? いや――」

「食べないなら、ぼくが食べますけど」

「……食べたいなら食べても良いけどさ」


 教科書の下からようやく探し出したトランプをテーブルの上に置いた。テーブルの上のトレーを見ると、僕の分のハンバーガーはなかった。既に菖蒲の手の中だ。お腹が空いて泣いていた、ということはないのだろうが、食べた途端に泣き止んだから少し疑いたくなる。

 とはいえ全く美味しそうに食べていないところを見ると、やけ食いというやつかもしれない。僕は仕方がないから、ポテトとチキンナゲットだけで我慢することにした。


「……トランプ、ですよね。それ」


 咀嚼していたものをちゃんと飲み込んでから、菖蒲が言った。僕は頷いて、透明なケースに入ったそれを持ち上げてみせる。


「そう。食べ終えたら少しだけ付き合ってよ。気分転換になるかもしれないし」

「別にぼくは、気分転換なんてしなくてもいいです」

「へぇ。じゃあトランプ仕舞っていいかな」

「えっ」


 鞄に戻そうとした僕の手を引き止めようと、菖蒲の手が伸びてきた。僕は慌てて、照り焼きソースのついた菖蒲の手から逃れる。


「……食べ終わって、ちゃんと手を洗ってからね」

「…………はい」

「君、トランプやったことないの?」


 揺れた髪がハンバーガーに付かないか心配になるくらい、菖蒲は大きく頷いた。それから口に含んだ物を飲み物――確かメロンソーダだったはず――で流し込み、店内を見回す。


「ここに入るのも初めてです。これを食べるのも、これを飲むのも。紫苑さんといると美味しい物が沢山食べられますね。これからも食べさせてください」

「嫌だよ、なんで僕がこれからも奢ってやる流れになってるのさ?」

「……あの、ぼく、酷い顔してますよね」


 言葉につられて菖蒲の顔を見たが、見るまでもなく分かっていたはずだ。気遣う言葉が浮かばなくて、ただ首肯した。


「そうだね。テストで酷い点でも取った? それともいじめか喧嘩?」

「……どれでもないです。学校は、楽しいですし」


 問題が学校生活にないのなら、残る可能性は一つだった。恐らく家庭の事情だ。一昨日は両親が家にいないと言っていたし、両親は忙しい人みたいだ。親が仕事ばかりに意識を向けていると、親に構って欲しい子供は寂しがる、みたいなことを本で読んだことがある。

 僕が何も聞かずにポテトを食べていると、菖蒲から切り出した。


「紫苑さんにとって、家ってなんですか」

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