あなたのおうちはどこですか2

「そろそろいいですか、浅葱さん?」


 にこっと笑うと、菖蒲くんはスケッチブックにボールペンを走らせた。その能力で人を傷付けてしまうかもしれないというのに、その顔はゲームを楽しむ子供のものだ。

 大人の悪意よりも、子供の純粋な愉悦に恐怖を覚える。足が震え出しそうだった。菖蒲くんの持つ刃が飛んでくる前に、走って逃げたかった。それをぐっと堪えているうちに、もう何かが向かって来ていた。


「――っ!」


 能力を使う暇がないほど速く、黒い何かが私の上を通り過ぎる。慌てて屈んだから避けられたものの、反応が遅れていたら貫かれていただろう。

 ほっと息を吐いた私に、菖蒲くんが微笑む。


「浅葱さん、気を抜いては駄目ですよ。『あの子』は――ケッキサカン? ですから」


 言われて、私は通り過ぎて行った何かに目をやった。黒い馬かと思ったが、少し違う。それが大きな猫なのだと気付いた時には、視界に黒い線が走っていた。


「痛っ……!」


 駆け抜けていった黒猫の爪は、私の肩を掠めていた。痺れるような痛みが走って力が抜けかけたが、地面を強く踏みしめ、振り返る。

 再び向かって来ようとしていた黒猫から目を外し、夜空を見上げて瞼を閉じた。黒猫が駆け出したのか、風が小さく鳴く。それをぼんやりと聞きながら、目を見張った。

 勢いを付けるために目を張ったのだが、直後目にした光景は更に私の目を大きくさせた。


「……っぁあああああ!!」


 猫は飛べない。だから空に逃げれば、と考えて上空に――私の家の屋根と並ぶくらいの高さへワープすることを願った。そこまではよかったのだろう。

 転移は出来ても、私はただの人だ。空を飛べるわけがない。当然私の体は重力に逆らえず落ちていく。地面に衝突する寸前で、私の体は浮かんだまま止まった。それからゆっくりと降下し、私は地面に転がる。


「……たす、かった……?」

「助かった……じゃないよ。何してるの君」


 起き上がってみると、紫苑先輩が呆れと怒りを混ぜたような冷たい顔をしていて、つい息を呑む。菖蒲くんの方を見てみたら、顎が外れてしまったのではと思うくらい口をぽかんと開けていた。その彼の傍で黒猫はただ佇んでいる。

 私は苦笑を顔いっぱいに広げた。


「……と、飛べば安全かな、って思いまして……」

「……へぇ」


 絶対零度の瞳が私をがたがたと震えさせようとする。口に浮かべた笑みはどんどん引き攣っていった。紫苑先輩はいつも通り静かだが、相当怒っているのは確かだ。目が、いつも以上に冷たく鋭い。


「僕が君を助けられない時は、今みたいな馬鹿なことをしないでほしい。せめて屋根の上とか、ちゃんと足を着ける場所にしなよ」

「は、はい……」


 以後気を付けるために、もう一度頭の中で今の先輩の言葉を反復した。それでようやく気付く。


「今……先輩が助けてくれたんですか?」

「他に誰が助けられるのさ? というか、いつまでもぼうっとしてないで集中して。気を取り直してもう一回やってもらうよ」

「え!?」


 私と菖蒲くんの声が重なった。私は「まだやるんですか!?」という意味で叫んだのだが、菖蒲くんは多分違う意味なのだろう。三秒程度しんとしてから、菖蒲くんに心配そうな目を向けられる。


「浅葱さん……これ以上やったら骨折してしまうんじゃ……」


 紫苑先輩が私を一瞥して、こくりと頷いた。二人して私を憐れむような目で見ないで欲しい。二人の言いたいことは尤もだけれど。


「……そうだね、じゃあこうしよう。浅葱は緊急時でも能力を使えるように、転移にかかる時間を出来る限り短くしてほしいから自己練習。菖蒲は僕と相手をしてくれるかな。ああ、もちろん――」


 そこで言葉を止めると、紫苑先輩が口の端を少しだけ上げた。形の良い唇がとても小さく動く。なにを言ったかは聞き取れなかった。

 先輩の視線の先を、菖蒲くんがはっとしたように辿る。菖蒲くんと私の後ろで、潰れた人兎が倒れていた。私は凄惨な光景から目を逸らしたが、菖蒲くんはとても冷静な顔をしたまま、視線を先輩へ戻す。

 私が、来たばかりだからだろうか。なぜ幼い菖蒲くんは、怯えないのだろう。夥しい量の血が広がっているのに、何も思わないのだろうか。


「人兎が来たら、その排除が最優先だ」

「……はい」


 紫苑先輩の声を聞いて思考を一時停止させ、私はまた白線と睨み合うことになった。


     ◆


 菖蒲の能力のことと『ウサギ』が誰なのかを考えたり寝たりして、今日も僕は授業を終えた。今は帰宅中だ。電車で浅葱と別れてからも、もう一度じっくり思案する。

 夜、模擬戦をしてみて分かったことは、菖蒲は描いた絵を実体化させられるということ。どうやら実体化した絵自体に意思があるらしく、紫土の影とは違い、言うなればペットのようなものみたいだ。敵だと判断すると勝手に向かって行くこともしばしばあるらしいが、基本的に飼い主である菖蒲の命令に従う。

 猫しか出せないのかと聞いたら、他の動物も出せるけれど猫が一番早く描けると言われた。もし時間をかけて竜などを描いたらすごいことになりそうだ。

 ただ、実体化した絵は切られたり歪ませられたりすると、すぐに消えてしまう。だから僕の能力との相性は彼にとって最悪だった。向かってくる絵を歪めればそれはすぐに消える。新しい絵を描く前に、彼自身が攻撃される。東雲と戦った時に至っては、きっと絵を描くことすらままならなかったはずだ。

 菖蒲の能力は、あまり近接戦闘には向かない。敵の前に菖蒲が姿を現せば、そこでもう負けが決まるようなものだ。

 先に描き溜めておいて後で実体化させることが可能であれば、なんとかなりそうだ。可能かどうかは次に会った時に聞いてみよう。そう考えつつ、僕は家の扉を開けて中に入る。東雲の傘をすっかり忘れていたため、取りに戻ったのだ。

 今日も雨だったり朝から東雲のメールが届いていたりしたら傘を忘れなかったかもしれない。朝はあまり頭が回らないから、忘れ物をしてしまう。

 東雲の家へ向かう前に水分補給をしようと思い、リビングに足を踏み入れたが、すぐに後悔した。電気も点けずに眠たげな顔で食事をしている紫土がそこにいた。紫土とは戦ってから一言も交わしていない。

 僕は無言のまま冷蔵庫から水を出して、台所で飲んでとっとと去るつもりだった。飲み終えてリビングを出ようとした僕に、紫土の声が降りかかる。


「紫苑」


 いつもより、落ち着いた声。それがむしろ不気味に思えてしまう。彼がいつもと違う顔をする時、突然優しくしてくる時は正直調子が狂うし、何か悪いことを考えているのではないかと警戒してしまう。

 振り返ると目の前にいた紫土は、能面のように無表情だった。彼の手が僕の方に伸びてくる。


「お前さ――いつまでそんなモノ付けてるの?」

「っ……」


 紫土が引っ張ったのは僕の左耳に嵌められているピアスだ。銀のカードにウサギのシルエットが描かれたそれは、彼の手から離れて揺れる。


「ああ、ごめん痛かった?」

「……僕が何をしようが何を付けようが、僕の勝手だ」

「――覚えてないくせに」


 嘲笑と哀れみが混ざったような目が、僕を捉える。吐き出された言葉を受け止めた己の耳を疑いたくなる。紫土が言った言葉を聞き返したいほどだった。

 しかし息を呑んだまま声を発せなくなった。僕の動揺は目に見えて分かるものだったようで、紫土の笑みが深くなる。もう一度、彼の手がピアスに伸びた。抵抗しようとした手は動かない。気付いた時には両手に影が絡み付いていた。

 僕の耳から半ば強引にそれが外される。小さな金属音が響いて、留め具がフローリングに転がった。銀のカードが、僕の目の前で揺らされる。


「なんで付けてるかすら覚えてないくせにさ、こんなものがまだ大切なの?」

「…………うるさい」


 搾り出したような声が震えていたことくらい、自分で分かっている。今紫土に言われなくとも、自分が『覚えていない』ということも、分かっている。

 ただ、そのピアスが僕のものではなかったことはぼんやりと覚えていた。誰かの、ものだった。誰のものかは思い出せない。けれど手放したくないほど大切なものだということは、なんとなく分かる。


「こっち側で能力使うとか頭おかしいんじゃないの? 早く解いてくれない?」

「別にいいだろ。傷付けようとしてるわけじゃないし、ここには俺らしかいない」

「いいから解けって言ってるんだ。早くしないと両腕折るよ」

「やれるものならやってみなよ」

「っ――!」


 視界が、黒で染まった。目隠しのように絡みつくそれを解こうとするが、手はどれほど力を込めても動かない。今の僕には、聴覚だけが頼りだ。音で何かを捉えても、どうすることも出来やしないが。


「俺は、お前に暴力を振るった俺の記憶を全部消したい。だから、お前を向こうの世界で殺したい。けど殺そうとするたび殺せないんだよ。あいつが殺そうとしたら、俺は怖くなって止めてしまう。殺すって感覚が手の平に浮かんできてさ、気持ち悪くて、手が止まって殺せない」


 あいつ、というのは別人格のことだろう。つまり今の彼は主人格ということになる。話を聞く限り、攻撃的な方が別人格なのかもしれない。

 けれどそんなことよりも、僕は別のことばかり考えて、手が震え出しそうになっていた。これ以上そのことについて考えるのが嫌になって、頭の中からその考えを掻き消す。


「――で、僕はいつまであんたの下らない話に耳を傾けなきゃならないんだ? これから出かけるつもりなんだけど」

「あぁ、友達のところ?」

「……まあ、そんなところだけど」

「女の子だっけ? その子に恨みはないし、可哀想だからそろそろ離してあげるけどさ。俺は下らない話なんて一つもしてないよ。少しヒントをあげたかっただけ」


 思ったよりも簡単に拘束が解かれる。塗り潰されていた視界が色を取り戻すと、目の前にあった紫土の手からピアスが落とされた。


「お前、忘れちゃいけない、なんて言葉を聞いて、忘れないようにって耳に針刺したのに、忘れちゃうとか可哀想だよね」


 何の話をしているのか全く分からない紫土の言葉に、脳髄を刺激される。何かを思い出しそうになって、けれど何も思い出せないまま、ただ頭痛がした。彼を睨んでから舌を打ち、ピアスを拾う。出て行こうとした僕に再び声が降りかかったが、もう振り返らなかった。

 ピアスを付け直して、ちゃんと傘を持って家を出る。東雲の家がどこだったかうろ覚えだが、なんとか辿り着けるだろう。もし迷ったら東雲に連絡すればいい。

 一応今から向かうことを伝えようと思い、僕は歩きながら携帯電話を開いた。表示される画面を見て、すぐに閉じたくなる。

 着信十二件、メール八件。すべて東雲からだ。とりあえずメールを確認しようと思ったが、どれから見るべきか悩んでいる間に電話がかかってきた。危なく出ずに切るところだった。通話ボタンを押してから耳に当てると、相変わらず騒がしい声が僕の耳を貫く。


『紫苑くん! もしや授業が長引いてました? それともなにか悪さをして特別指導で居残りですか?』

「違う、色々あって。これから向かうところだから、切るよ」

『はい、分かりました。忘れられているかと思って焦りましたよ』

「話って、今日じゃないといけないこと?」

『そうですね……私の都合上今日だとありがたいので。では、待っています』


 うん、とだけ返すとすぐに切られる。僕はポケットからイヤホンを取り出して携帯電話に繋ぎ、音楽を聴きながら駅へ向かい始めた。


     ◆


 迷いはしたが、地図を見ながらなんとかマンションに辿り着くことが出来た。何号室かは忘れてしまっていたから、メールで聞いて確認し、階段を上がる。

 部屋の前まで来て呼び鈴を鳴らすと、東雲はすぐに出てきた。傘を真っ先に差し出した僕へ、彼はにこりと笑う。


「傘ありがとうございます」

「いや、それ僕の台詞だから。というかすぐ返せなくてごめん」

「いえいえ。さ、上がってください」


 リビングに通された僕は、椅子に腰掛けて足元に鞄を置く。前に来た時と変わらないなと思ったが、前といっても一昨日のことだと思い出し、一人苦笑いを浮かべた。たった二日で内装が変わっていたら驚く。

 菓子が入った皿をテーブルの中心に置いた東雲が、僕の前に座る。遠慮なく皿からクッキーを手に取ると、食べる前に聞いた。


「……僕を呼んだ理由は?」


 言い終えてすぐに、クッキーを口に運ぶ。東雲は食べる気がないようで、皿を軽く押して僕の方へ寄せた。一人分にしては多すぎる菓子の量だ。子供はこれくらいの菓子なんて簡単に平らげると思っているのだろうか。

 恐らく食べきれなくはないが、全て食べるのは悪いような気がする。そう思って、二つ目に手を伸ばすのはやめておいた。東雲の話に集中する。


「なんだか協力者が沢山増え賑やかになったので、そろそろ話しておこうかと思いましてね?」

「なにを?」

「私は、『ウサギ』を知っています。そして以前、私は『ウサギ』を殺しました」


 彼はいつも通りの微笑を浮かべたまま淡々と述べる。『ウサギ』を知っているなんて言葉は紫土からも聞いたから、あまり驚かなかった。僕が眉根を寄せたのは、その次の言葉に、だ。

 東雲が『ウサギ』を殺した。声の調子は嘘を言っている人のそれではなかった。きっと戯言ではない。東雲が話を続けようとしていたが、その声を食ってでも質問しないわけにはいかなかった。


「どういうことだ。ちゃんと殺せてなかったのか?」

「いいえ、確かに死にましたよ『ウサギ』は。その日、『ウサギ』の死と同時に世界が崩れ始め、六時になる前に私は元の世界に戻されましたから」

「……つまり、『ウサギ』はこの茶番を終わらせなかった。また同じように造り上げた。そういうこと?」

「終わったことを覚えていなかった、だからいつも通り続けたのですよ」


 ――覚えてないくせに。

 頭の中で、紫土に言われた言葉が蘇った。それを振り払うように頭を小さく振って、冷静になる。


「…………死んだら記憶を失う。それは『ウサギ』も同じこと、なのか」

「恐らく、この世界で死んだら記憶を失う、というのは、死の恐怖や死の痛み、それらが大きすぎたショックのせいだと思います。だから『ウサギ』も例外ではなかった」

「……本当にそうかな? 『ウサギ』が初めから嘘を吐いていた可能性だってあるんだ。『ウサギ』を殺しても、『ウサギ』は世界を壊さなかったっていうだけじゃないの?」


 そう、『ウサギ』は嘘吐きだと紫土が言っていた。始めにあの男――月白に話された説明に嘘が混ざっていたとしても不思議ではない。

 しかし東雲は悩む間すらなく、首を左右に振って否定してみせる。


「いいえ、『ウサギ』は確かに忘れていました。私は真っ先に『ウサギ』に会いに行きましたから。会ってすぐ気付きましたよ。あぁ、私に殺された時の記憶を失っているのか、と。なぜなら『ウサギ』は、自分は『ウサギ』ではないと今更知らばくれ、結局そのまま戦闘になりましたし。……ただ、覚えていないならそれはそれで好都合だなとも思いました」

「……なぜ?」


 台詞を用意していたかのように回っていた彼の舌が、止まった。今までの勢いに任せたまま開かれた唇は、それ以上動かず閉じられる。

 東雲の上げられた視線が、今日初めて僕を正視したことに気が付いた。言いにくそうに泳がせていた黒目は僕に合わさったまま動かなくなる。


「私は後悔していたからですよ。『ウサギ』を救わずに終わらせようとしたことを。『ウサギ』の死ぬ直前の顔が、忘れられないんです。『ウサギ』がこの世界を造った理由が想像出来て、救ってやりたいと思った」


 どこか懺悔するような声に、つい目を逸らした。東雲らしくない。調子が狂う。

 僕は二つ目のクッキーを口に放り込んで咀嚼し、飲み込んだ。


「現実に絶望したから、なのかな。『ウサギ』が偽物の世界を造ったのは」

「……ええ、きっとそんなところです。そしてそれと同時に、死にたいという願望も持ち合わせていたと思います。殺してほしい、と。恐らく『ウサギ』は、どちらの世界で死んでも実際に死ぬのだと思い込んでいる。死の間際に浮かべられた顔は、悲しげでしたがどこか嬉しそうにも見えました。『やっと解放される』そう呟いて、意識を失った」


 頭の中で『ウサギ』が誰なのか予想をしていく。東雲の話が本当なら『ウサギ』は記憶を一部失っているかもしれない。

 考えれば考えるほど、不安になっていく。嫌なことばかり思い浮かぶ。

 なんとか平静を繕って、顔色一つ変えず東雲に向き直る。


「それで? どうして東雲はそんな話を僕だけにしたんだ?」

「……君に、救って欲しいと思ったんですよ。『ウサギ』を」

「なんで僕が……。お前が救ってやればいいだろ」

「私じゃ駄目なんですよ。他の方でも駄目なんです。君でなければいけない」

「……意味が分からない」


 もう少しはっきり言ってもらわなければ分からない。『ウサギ』――つまり誰を、僕に救えと言っているのか。焦らさず早く教えて欲しかった。

 胸の中で騒いでいる心臓を、早く落ち着かせたい。早く、楽になりたい。

 そんな僕の胸の内を見透かしたように、東雲が言った。


「ところで紫苑くん」

「……なに」

「君は今、何を考えています?」

「別に、何も」


 そんな言葉が出たことに自分で吃驚する。素直に聞けば良いというのに、口は上手く動かない。

 僕はチョコレートに手を伸ばした。指先が不思議と震えていて、取り落としそうになる。


「本当ですか? 『ウサギ』が誰か、自分なりに答えを出してしまいそうになっているのでは?」

「……誰なのか、教えてくれる気はないんだね」


 伸ばした手は結局何も掴まずに自分の方へ戻した。食べる気になれなかったからだ。

 遠回しに教えてくれと言ったつもりだったのだが、東雲は誤魔化すようににやにやするばかり。


「さてどうでしょう? 君が今誰を疑っているのか言ってくだされば、何か言ってあげるかもしれません」

「…………っ」

「……聞くのが、怖いですか? それは不正解かもしれないのですから、言ってみてください」


 不正解かもしれない。その言葉で、少しだけ気分が楽になったような気がした。いや、それは一瞬の錯覚だ。口を開いた途端に、奥へと押し込んだ不安が一気に押し寄せてきた。

 開いたまま乾いていく口から、なんとか声を出す。その声が、自信が欠けた情けないものだということは自分でも分かった。思わず笑ってしまう。


「……僕は、さ。……ないんだよ」

「はい?」


 自分を嘲笑するみたいに笑いながら、僕は東雲の目を見ていられなくなって自分の手に視線を落とした。

 長々と話していると声が更におかしな風に出そうで、なるべく短く語りたかった。というのに、東雲は聞き返してきたのだ。いつもなら相変わらず性格の悪い奴だ、と思えた。しかし今の彼の声調は、真剣なものだった。

 僕は、訴えるように続ける。


「だから、ないんだ。記憶が、一部だけ」

「……」

「思い出せないんだ。母親のことと、ピアスのこと。……これさ、すごく大切な人の物だったような気がするんだけど、何も思い出せない」


 自分の耳元で揺れるそれに触れて、溜息を吐き出す。深呼吸のつもりだったが、東雲の目には嘆息にしか映らなかっただろう。


「君は、自分が『ウサギ』なんじゃないかと、本当に思っているんですか? 君自身の他にも、疑っている人がいるのでは?」

「今は僕の話をしているんだ」

「……確かに、君の言うことは尤もだ。今私の話を聞いて、自身の記憶が欠けていることをずっと疑問に思っていたなら、そう結びつけても仕方ありません」


 駄目だ。もっと真っ直ぐ聞かないと、きっと東雲はいつまでも話をはぐらかす。僕が聞きたいことが何か分かっているくせに、答えようとしない。

 僕は痺れを切らせて、テーブルに勢い良く手を突きながら立ち上がった。


「……答えろ。僕が、そうなのか」

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