あなたのおうちはどこですか4
「……」
似たようなことを東雲に聞かれたばかりで、僕は口を噤む代わりにストローを咥えた。どう返してやろうかと悩んでいれば、菖蒲が続ける。
「家って、温かくて優しい気分になれるところですよね。そこに大切な人がいるから、そこにいたいって思うから、毎日帰るんですよね」
言われて、自分の家を思い浮かべた。大切な人と言われてもしっくりこない奴がいるし、優しい気分になれるわけでもない。この質問に対する正答を僕は持ち合わせていない。
しかし、僕自身の回答をそのまま今の彼に伝えるわけにはいかなかった。だから申し訳ないけれど、思ってもいないことを口にする。
「まあ、そうなんじゃないかな」
じゃあ。菖蒲がとても小さな声で呟いたのは、そんな言葉だったと思う。店内はそれほど静かではないから、正確に聞き取れた自信はない。
僕の方を直視する菖蒲の双眸は、潤んでいた。また泣き出すのではと心配になる。学校で嫌なことがあったんだろうな、としか思っていなかった先ほどまでの僕を殴りつけたい気分に陥り始めた。彼の悩みは子供同士の喧嘩とは比べ物にならないくらい、きっと深刻なんだろう。
そう推察してしまったから、すうっと息を吸って口を開いた菖蒲の声に、耳を塞ぎたかった。もちろんそんな非道なことは、出来るわけがない。
「……じゃあ、お前なんかいらないって、毎日殴られる。あそこは、ぼくの家じゃないんでしょうか? ぼくの……ぼくの家は!」
大人びていて冷静だった顔はどんどん崩れていく。泣き出しそうに顔を歪めた直後、すぐさま落涙する。
悲痛な声は店内に響いて、通りがかった人の視線を引き付けた。持ったままのハンバーガーの形が崩れるくらい手に力を込めると、菖蒲が俯いた。
しんと静寂が訪れる。まるで教師の怒鳴り声が響いた後の教室だ。一分は経ったと思う頃、菖蒲が鼻をすする音が、ようやく他の客の声や食器の音に掻き消され始めた。
「居場所はっ……どこですか……?」
ひどい声だった。掠れていて、弱々しくて。周りに簡単に掻き消されてしまう声量だった。それでも、僕を突き刺すには強すぎる声で、小さな弾丸だった。
どう言えばいい。
何も答えられない自分に苛立って、僕は僕に問いかける。それでも言葉は見つからない。僕の頭の中には存在しない言葉が正答なのだろう。なにも、返してやれない。
浅葱だったら、こんな時どうやって慰める? 東雲だったら、どんな言葉で安心させてやる? 蘇芳や朽葉だったら、この空気をどうやって取り去る?
駄目だ、何も思い浮かばない。一人で悩み続け、苦しみ続けたのであろう小さな子供に、僕は笑顔を取り戻させてやることすら出来ない。情けないにもほどがある。
「……」
話を聞く限り、菖蒲が受けているのは虐待だ。こういう時、どうすればいいか高校生である僕には分からない。児童相談所に相談すればいいのか?
今悩んでいても仕方がないと思い、僕はこれ以上深く考えるのをやめて、トランプを切り始めた。
「……ごめんね菖蒲。それは君にしか分からないことだと思う。けど、居場所って自分で決めるものだから、いつ変えたって構わないんだよ」
「……変えるも何も、始めからどこにもありません」
「どこにでも作れる」
「どうやって作るんですか」
「……君は、どうしたい?」
この問いは少し意地悪だったかもしれない。というよりも、彼の脆い心を更に抉るものだと、僕自身分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。
本人の意思を尊重したいから、菖蒲の言葉がなければ僕は動けない。
菖蒲はハンバーガーの最後の一口を飲み込んで、立ち上がった。
「手、洗ってきます。戻ってきたら、トランプやりたいです」
「分かった。トランプでなにをするか考えておくよ」
「ぼくも、紫苑さんにどう答えるかじっくり考えますね。少し、待ってください」
菖蒲が席を立って、僕は乾いた喉にストレートティーを流し込んだ。咥えたストローについ歯を立ててしまう。
彼の答えがどんなものだったとしても、僕は何もしないという選択肢を選んではいけないと思う。だから携帯電話を取り出して、ぼうっと眺めながら熟考する。
「……」
結局、子供だけの力では何も出来ない。正しい判断すら出来ていないような気がする。人任せになってしまうが、僕はこの件を頼りになりそうな大人に任せることにした。電話をかけたものの、菖蒲が戻ってくる姿が見えたため、相手が出る前に切る。
菖蒲は椅子に飛び込むと、僕の方に両手を差し出した。
「トランプ、しましょう!」
「二人だから……ポーカーとスピードと神経衰弱、どれがいい?」
「? えっと……」
知名度が高そうなゲーム名を上げたが、知らないみたいだ。やったことがないと言っていたから当たり前と言えば当たり前か。
とりあえず神経衰弱からやることにして、僕は切ったカードを伏せて並べ始め、ざっくりと説明をする。理解したらしい菖蒲は目を輝かせていた。
「おおっ……楽しそうです! ぼくが勝ったらこの前くれたチョコレート下さいね!」
「はぁ? まあ別にいいけど、君が負けたら何をしてくれるの? お金持ってないでしょ?」
「紫苑さんが勝ったら、ぼく、もう迷惑をかけません」
並べ終えたカードを見つめる菖蒲の瞳は、どこか大人びている。少し前まで未知のゲームに年相応の輝きを見せていたのに、その子供らしさはどこへやら。菖蒲はカードではなく僕に視線を移して、続けた。
「夜以外は、紫苑さんを見かけても、泣きつきたくても、慰めて欲しくても、もう、我慢します」
「……なら僕は、勝つわけにはいかないよ」
どういう意味か分からないと言いたげに首を傾けた菖蒲へ、僕は握った手を向けた。「ジャンケンで勝った方が先でいいよね」と言いつつ、ジャンケンも知らなかったらどうしようかと一瞬悩んだ。流石に知っていたようで、菖蒲はジャンケンの掛け声を上げる。
結局勝ったのは僕だったから、先に二枚引いた。もちろんいきなり揃えるなんて奇跡は起きず、裏向きに戻して菖蒲に順番を回す。
ほぼ無言でお互い引き合って、菖蒲が六回ほど揃えたあたりで僕を睨んできた。
「……わざとですか? 本当に、勝つ気がないんですか」
「そうだね、君がさっき言った言葉を取り消すなら、今から勝ってあげてもいいけど」
菖蒲は不服そうに頬を膨らませる。子供らしい怒り方に笑ってしまいそうになった。彼が纏う真剣な空気に、笑い声なんて混ぜられない。
僕が仕方なく二枚揃えてみせると、菖蒲が言った。
「取り消すので、真剣勝負しましょう。せっかく真剣衰弱って名前なんですから」
「……神経衰弱だよ」
「やっぱり紫苑さんは優しい人ですね。だから、さっきの紫苑さんの質問にも、ちゃんと答えようと思います」
僕の突っ込みを思い切り聞き流して、菖蒲は悪戯好きの猫みたいな顔で笑う。もしかすると、僕は試されたのかもしれない。僕が信頼出来る人間かどうか、彼なりに定めるつもりで賭けを始めたのだと思えた。
菖蒲はカードをめくりながら、涼しげな顔をして話し出す。
「紫苑さんはさっきぼくにどうしたい、って言いましたよね。ぼくは、お母さんの理想の子供になりたいんです」
僕が四組ほど取っていくと、菖蒲は驚いたように目を丸めた。それでも余裕そうににこりと笑ってカードを二枚ひっくり返す。
「お母さんがぼくを好きになってくれたら、嬉しいなって思うんです。だからぼくは、大人には絶対相談しない。だってみんな、お母さんが悪いって決め付けて、家に踏み込もうとするから。多分、ぼくはどうもして欲しくないんです。ぼくを助けようとか思わなくていいから、泣きたいときに傍にいてくれる優しい人が欲しいだけなんです。……なんか違うかな、えっと、つまり、泣いていいところが、欲しいんです」
「……」
「泣いても、うるさいって殴られないところが、あればいいなって思うだけで」
菖蒲の目から、涙が零れたように見えた。彼が目を擦ったから見間違いではなかったと思うが、見間違いだったと思うくらい今の表情に涙は似合わない。
ただ楽しいから笑っているだけのような、綺麗な笑顔だった。その瞳だけが赤らんでいて、おかしな感じだ。
「……ちがうんですよ? ぼくは、お母さんが大好きなんです。なのに、変なんです。ぼくが悪いから殴られるのに、なんで殴られなきゃいけないんだろうって思う時もあるし、お母さんが嫌になる時もあるんです。たぶん、だからですよね。ぼくが心の奥でお母さんを怖いとか嫌だとか思ってるから、お母さんも殴りたくなるんですよね。ぼくが気持ち悪いからお父さんがいなくなっちゃって、お父さんに捨てられるような悪い子だから、お母さんも僕を愛してくれないんですよね?」
「……っ」
「いい子に、なりたいな。お母さんに、偉いねって褒められたり、抱きしめてもらえたり……名前を、呼んでもらえるように、なりたい。ぼくを好きになってもらいたい、です」
照れくさそうな微笑が、僕の目には痛々しく映るだけだった。頑張る子供を見るのは微笑ましいことだろうが、菖蒲の頑張りを微笑んでやれるほど僕は楽観的ではない。菖蒲がどれだけ頑張っても、なにも変わらない未来しか見えなかった。変わるとしても、悪い方向に変わってしまったら。そう考えたら、本当に僕は何もしなくていいのかと、出来ることを考え始めてしまう。けれど僕が動くことは、菖蒲を裏切ることになる。
残酷な現実を突きつけてやるか、影で支えてやるべきか。僕はこの二択で、後者を選ぶしかないのだろう。正しいのがどちらかなんて僕には見当がつかない。
「……菖蒲。君が自分でもう一つの居場所を作る気がないなら、僕が勝手に作る」
「え?」
「泣いていい所が欲しいんでしょ? でも泣くだけなら許さないよ。好きなだけ泣いて、好きなだけ笑える。そんな居場所を、あげるよ。それが僕でよければね」
菖蒲が頼れるのは僕しかいないんじゃないか、なんて、口には絶対に出せない自意識過剰な考えから、僕はそう言っていた。
言いながら、僕は残り四枚だったカードを全て掻っ攫う。それでも菖蒲が今まで取った枚数には敵わなかった。
「僕の負けだ。チョコレート、買ってあげるよ」
「そ、そんな! 悪いです!」
「なに遠慮してるんだよ。初対面の時の図々しさはどこに行ったの? 子供は子供らしく、何も考えずにはしゃいでいれば良いんだ」
トランプをケースに入れ直して、僕は鞄に仕舞いこみ、立ち上がる。菖蒲がランドセルを背負ったのを見てから、トレーを片付けて店を出る。
「チョコレートを食べたら、今日はもう帰りなよ」
「……そうですね、チョコレートを持ち帰って、買ってもらったなんて言ったら叱られそうですし」
「というか、なんでいつもこんな遅い時間まで外にいるのさ?」
コンビニに入ってチョコレートをいくつか手に取りながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。買って欲しいのか、菖蒲が並んでいるプリンをじっと見つめていたから、仕方なくそれも手に取った。
「あ、えっと、塾に行ってるんです。ぼく、家は三日市にあるんですけど、塾は弓張市にあるので」
「……ちゃんと勉強してるの? 君、鞄にスケッチブックと筆記用具しか入ってないんでしょ?」
「プリントとか問題集は、塾の方に置きっぱなしです。前は持ち帰ってたんですけど、お母さんが破いてしまったので、それからはずっと持ち帰ってません」
自分で菖蒲を塾に行かせているのだろうに、破くなんてあまりに酷い。それにしても、せっかく美味しいものを食べて気分転換してもらおうと思った矢先に、悪いことを聞いてしまった。しかし菖蒲はというと、気にした様子はなくにこにこ笑っている。
僕はレジで商品を買って、店を出た。店の外にベンチが備えられているから、そこに腰掛けて菖蒲にチョコレートとプリンとスプーンを渡してやった。
「ぼく、大人になってお金稼いだら、紫苑さんに千円くらいあげないといけませんね」
「いいよ、そんなことしなくて」
「んー、じゃあ、来年の七夕で短冊にこう書きますね。紫苑さんが浅葱さんと結婚出来ますように、って」
自分用に買ったチョコレートを喉に詰まらせるところだった。この子供、何を言っているんだか。
ちゃんと噛んでからチョコレートを飲み込み、菖蒲を睨む。
「絶対に書かないでよ。浅葱が困るから」
「紫苑さんは、困らないんですか?」
僕が自分のことは言わなかったからって、にやにやしながら聞いてくる。からかっているつもりなのだろうか。僕は溜息混じりに吐き出した。
「困るに決まってるだろ」
「でも、お似合いだと思いますよ?」
「あっそう。僕と彼女はただの友達だけどね」
「そういえば紫苑さんって、本当に猫に餌あげてるんですか?」
いきなりの問いに、僕は菖蒲と会った時の会話を思い返した。そういえばそんな話をされた気がする。しかし今ここでそう問われることが不思議で、首を傾げた。
「本当に、ってどういうことさ。見たんでしょ? と言っても、一回しかあげたことないと思うけど」
「いえ、嘘です。紫苑さんとはあの時が初対面でしたし、その前に見かけたこともありませんでした」
「嘘、だったのか……」
確かによく考えてみれば、弓張市に住んでいるわけではない彼が、帰宅中の僕に会うのは低確率だと思う。二度も駅前で会ったから、これからも会うかもしれないけれど。
「紫苑さん、ごちそうさまでした。おいしかったです!」
どうやら帰る気らしく、まだ座ったままの僕に、立ち上がって背を向け始める菖蒲。
「途中まで送ったりしなくて平気?」
「はいっ、大丈夫です。それでは」
彼が大きく手を振ると、長い袖がぱたぱたとはためいた。長めの髪を揺らして駅の中へ入っていく姿を見送り、僕は携帯電話を取り出した。
電話をかけて、コール音を聞きながら彼が出るのを待つ。鞄を肩にかけて歩き出した時、ようやく繋がった。
『どうしたんです、紫苑くん?』
気付くと、東雲を頼ってしまっている僕がいる。協力者になってすぐは警戒していたのに、今は警戒心なんてどこかへ行ってしまった。
僕は歩くペースを落として、それと同時に声も落とした。
「……僕は、どうするべきだったんだろう」
『はい? なんですかいきなり。というか君、珍しく泣いてます?』
「違う。僕が泣くわけないだろ。少し疲れてるだけだよ」
声が震えてしまうのは、泣き出したいからではない。多分、自分に対する怒りとか苛立ちとか、そんなものだと思う。
僕は淡々と菖蒲のことを話し始めた。菖蒲の親のこと、菖蒲の意思。さっき菖蒲と話していたことをほとんど吐き出した。東雲は静かに聞いていてくれた。まるで、懺悔しているみたいだった。
「僕は、菖蒲が望むなら、解放してやりたいと思った。でも駄目だ。菖蒲は、母親の傍にいたいって望んでるから。僕は、何もしてやれない」
『……でも君は、君に出来ることをしようとしたじゃないですか。もう一つの心の拠り所になってあげようと思ったんでしょう? それで十分ですよ』
「十分かな? これじゃ、何も変わらない。菖蒲の環境は、変えてやれない」
話せば話すほど、自分が偽善者のようで気持ち悪く思えてくる。浅葱のこともそうだ。救えないくせに、救う必要があるわけでもないのに、中途半端に手を伸ばして。
こんな風に東雲に弱音を吐き出すのも、まるで僕じゃないみたいだった。浅葱に出会ってから変だ。いや、多分違う。同じ能力者に出会ってから、変なんだ。浅葱が能力者だと知って守りたい気持ちが増したから、そうだと思う。
偽物の世界に招かれたばかりの頃、『ウサギ』と友達になりたいと思ったことがあったなと思い出して、くすりと笑ってしまった。
『紫苑くん?』
「いや、なんでもない」
『そうですか。菖蒲くんのことは私も気にかけてみますが、君はあまり余計なことをしないで下さいね。菖蒲くんの家に乗り込むとか』
「流石にしないよ、そんなこと」
相当正義感の強い馬鹿くらいだろう、家に殴り込みに行くなんて。そんなことをしても菖蒲のためになることは何もないと分かっている。
なんだか話してしまったらすっきりして、苛立ちはもう僕の中から姿を消していた。
東雲が何かを思い出したように『あっ』と声を上げた。相変わらずの攻撃的なボリュームで、耳を塞ぎたくなる。
『あのですね、私を頼ってくれるのはすっごく嬉しいのですが、あまり信用はしないでください』
「……言われなくたって、信用はしてない」
『そうですか? ならいいのですが……。信用されると動きにくくなるんですよ。私は君が思うような優しい大人ではないので』
「知っているよ、戦闘狂でサディストだしね。大体優しい大人だなんて思ってないんだけど」
『あはは、ひどいですねぇ』
こんなことを言い出すあたり、十分優しい大人だと思う。けれどもそれを口には出さず、自分の中だけに留めておく。
話したいことは話し終えたし、もう話すことはない。僕は一言言ってから電話を切ろうと思ったが、東雲が僕を呼んだ。
『君、私なんかと友情を育んでいる暇があったら浅葱さん達と仲良くしたらどうなんです?』
「別に、君と友情を育もうとしているわけじゃないよ。大体、浅葱に菖蒲のことを話しても意味ないだろ」
『まあ、そうですけど……』
「電話、切るよ」
『ああ、はい。ではまた』
電話を切って、僕は携帯を仕舞おうとした。その手が止まったのは、画面に新着メールありと表示されていたからだ。
差出人は蘇芳だった。『ウサギ』のことで何か分かったことでもあったのだろうか、と思いながら本文に目を通して、眉を寄せた。
『呉羽先輩、来週の土曜日暇ですか? 暇ですよね。あたしとデートしてくれません? 予定がないのに断るのは駄目ですよ。こんなことを頼んでいるのには事情があるんですが、それは当日話します』
どう返事をしようか悩んだが、土曜は用事が入っていないし、蘇芳の言う事情も気になる。僕は『分かった』とだけ返して、家へ歩いて行った。
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