万有引力の法則2
◆
あの後東雲から何度かメールが来たけれど、相変わらずどうでもいい内容だったため返信をしなかった。
教室で三時間の睡眠をとって、鞄を手にした。昨日の帰り道で、浅葱とは屋上で待ち合わせることにしたから階段へ向かう。
「呉羽」
クラスメートに声をかけられるとは思っていなかったため、教室を出ようとした僕は自分が呼ばれていることに数秒気が付かなかった。
「……悪いけど、暇じゃない」
呟くように、けれど声をかけてきた彼に聞こえるように言ってやる。引き止める声に聞こえないふりをし、僕は教室から出て素早く扉を閉めた。
階段の方へ歩いていると、ちょうど階段を上ってきた浅葱と目が合った。僕が僅かに目を丸くしていたら、彼女が無邪気に手を振ってくる。朝のことはもう気にしていないようだった。
「紫苑先輩だぁ……っ!」
飼い主を見つけた犬みたいに僕の方へ走り出した浅葱に驚いて、一歩後退した。どうせ階段を上るのだからそこで待っていればいいのに、なんでこっち、に……。
「――っ?」
思考が、停止する。
浅葱は目の前で止まると思っていた。勢いが付きすぎていたのか、彼女は思い切り僕に抱きついていた。そのまま離れることはなく、本当に犬に乗り移られているのではないかと思うくらいくっついてくる。尻尾が生えていたら盛大に振っていたことだろう。
「先輩だ、先輩っ……えへへ」
「……なに、してるの」
「え?」
きょとんとしたような顔で僕を見上げる。大きくて丸い目がチワワを連想させて微笑しかけたが、笑っている状況じゃない。彼女は公衆の面前で自分が何をしているのか理解しているのだろうか。
突き放そうとして、その前に何故か僕が突き飛ばされた。突然のことに転びかける。
「ご、ごごごめんなさい!! よ、四時間一人で寂しくて、階段上がったら紫苑先輩が! 一人で嫌なことばかり考えてたら、先輩がいたので! つい!!」
「ああ、そう」
無意識で人にタックルするなんて普通の人間の所業ではない。呆れとある種の感嘆の溜息を落として、僕は階段に向かった。
向けられる視線から早く逃れたい、という意思のせいか、浅葱のペースを気にせず早足になってしまう。
「先輩待ってくださいっ! 怒ってます、よね?」
「……怒ってないと言ったら嘘になるね。君はさ、人の目くらい気にしたら?」
「気にしてます……本当に、恥ずかしかったです」
ちらと彼女の顔を窺うと、大丈夫かと心配になるくらい真っ赤だった。見ているこっちまで恥ずかしくなるような顔から段差へと視線を動かす。
「まあ、元気になったならよかったよ」
ふと、今朝のことを思い出した。何かを言おうとしてやめていた時の彼女の顔は、電車に飛び込もうとしていた時の表情によく似ていた。
耐えられない辛いことを一人だけで抱え込んで、なにかに救いを求めるような、そんな顔。
僕に何かを言おうとしてやめたということは、僕はその助けになれないか、彼女が遠慮をしているか、そのどちらかだと思われる。
無理に聞き出すようなことでもないため、僕は何も聞かないことにした。
「先輩って、教室に一人で、辛くありませんか?」
問いを聞きながら屋上の扉を開いて、浅葱に先に行くよう促す。彼女の後に続き、扉を閉めた。
「別に気にしないかな。どうでもいい」
昨日と同じような位置に座り込んで、鞄を開いた。弁当を開けて食べ始める。隣に座った浅葱は弁当を開いたものの、食べ物に箸を伸ばそうとしなかった。
「先輩は、強いですね」
「……僕は弱いよ」
強くなんか無い。強かったら、一人で生きることを選んでいない。僕は弱いから一人だ。知られることが、異端とみなされることが嫌だから、逃げているだけだ。
もし浅葱が僕の能力のことを知って、僕を拒絶したなら、どうすれば良いのだろう。その思考が生んだ僅かな不安を、軽く目を閉じて見なかったことにした。
「……早く食べたら? 君は今日も僕を待たせるつもり?」
「あっ、ごめんなさい」
「それと、さ」
紙パックにストローを差し込んで一口飲む。口内に甘い味が広がって、落ち着くことが出来た。
「確かにそこでは一人かもしれないけど、君は世界で一人ってわけじゃないんだ」
それだけ言って、僕は振動した携帯電話のメールを確認する。東雲からだ。帰宅時でいいので、暇になったら電話をかけて下さい。それに対し、了解とだけ返す。
「……が終わったら」
僕の意識がメールに向いていたからか、彼女の言葉をしかと聞き取ることが出来なかった。そのため、顔を上げて聞き返す。
「え?」
「授業が終わったら先輩に会えるんだって思えば、頑張れる気がします」
すぐに彼女から目を逸らした。太陽を直視しているようで、目が痛んだ。それくらい綺麗な笑顔だったのだ。
口を僅かに開いて、僕は何も言わずにそこへストローを差し込む。何かを言おうと思ったが、開いた途端言葉が霧消していた。
浅葱は向日葵の花が似合いそうだと思い、彼女の顔を横目で見て向日葵を連想したものの、思ったよりもしっくりこない。彼女は夏と言うよりも、春なのかもしれない。今度は控えめな白い花を思い浮かべていたら、僕を真っ直ぐ見た綺麗な目と視線が絡む。
「先輩、今日お金持ってますか?」
「喝上げ?」
「違いますよ!?」
彼女から視線を外し、空になった弁当箱を鞄に仕舞うついでに財布を取り出した。普段からそれほど金を使わないので、余裕はありそうだった。何故いきなり金の話が飛び出したのか予想を立てつつ、小さく笑う。
「定期券が切れてて切符で来たものの交通費がないって話?」
「そんなドジじゃありません! 紫苑先輩と帰りになにか食べて行きたいな、と思ったんです!」
「へえ」
友達は下校時、店などに寄ることがある。そのことをすっかり忘れていた。財布を鞄に仕舞い直して、僕は頷く。
「いいよ、行こうか。場所は君に任せるから」
「はい! もう決まっているんです」
「それにしても、食事中に食べ物の話をするなんて君は大食いかなにか?」
「そういうこと言っちゃいます?」
◇
放課後、二人で向かったのは弓張駅。学校から二駅、私の降りる駅の一駅先で、紫苑先輩の自宅の最寄り駅だ。
弓張駅前にある喫茶店はメニューが豊富で、店の雰囲気も落ち着いている。妹と何度か行ったことがあるという話を先輩にしながら、私達は店内に入った。
カウンターでメニューをちらと見てから、私は紫苑先輩を見やる。彼はじっとメニューを眺めていた。その瞳が心なしか輝いているような気がして、気に入ってくれたのかと嬉しくなる。
「先輩なに頼みますか?」
「とりあえずコーヒー。あとは君のオススメでいいよ」
「えっ、でも先輩の好みとか分からないですよ?」
「大抵のものは食べられるから安心して。ちなみに甘いものは好きだ」
そういえば、昼休みに先輩が飲んでいた飲み物は、桃色の紙パックに入ったいちごミルクだった。
甘いものでなおかつ苺が入っているものにすれば、気に入ってもらえるかもしれない。そう思って注文を決める。
「あの、これと、これと……あとこれとこれ、それとコーヒーを二つお願いします」
店員に頼んでお金を払い、番号札を渡されると、私は紫苑先輩と共に空いている席を探した。なんとなく窓際にしてみたけれど、正解だったなと頬を緩める。綺麗な夕陽がどこか心地いい。
「君すごい量頼んでなかった?」
「え、そうでもないですよ。だって紫苑先輩の分も頼んだのですから」
「ああ、そうだったね」
少しして、注文したものが運ばれてきた。並べられていくスイーツに、紫苑先輩の顔が綻ぶ。私も早く食べたくてよだれが出そうになっていた。
すぐにでも口に運びたいという気持ちを、なんとか抑える。
「先輩、ティラミスとショートケーキとワッフル、ミルフィーユの中から二つ好きなものをどうぞ」
「浅葱はどれでもいいの?」
「はいっ、どれでも美味しくいただけます!」
「じゃあショートケーキとミルフィーユをもらうよ。食べ終わったあとでいいからレシート見せて。このままじゃ君の奢りになる」
「あ、分かりました」
私は別にそれでも良かったのだが、先輩としてはそうもいかないのだろう。それは後にして、とりあえず私はティラミスを食べ始めた。
「美味しいっ」
つい声に出してしまうくらいの味だった。紫苑先輩の反応が気になって顔を上げると目が合う。彼の綺麗な顔には自然と笑みが零れていた。
「美味しいね」
先輩はショートケーキを一口食べていた。どうやら上に乗っている苺は最後に食べる派らしい。まだ手をつけられていない。
大きく頷いて、互いに二口目を口にする。
「先輩のこと、私全然知ることが出来ていませんが、甘いものが好きだということを知れました」
「そんなに嬉しそうに言うこと?」
「はいっ!」
一つ、新しく先輩のことを知ると、一歩彼に近付けたような気がして嬉しくなる。もっとたくさん彼のことを知って、もっと彼に近付きたい。
食べる手を止め、じっと先輩を見た。横の髪を邪魔そうに耳にかける仕草が、綺麗な顔も相俟って女の子みたいだなと思った。
気が付けば私は、携帯電話を取り出して彼に向けていた。シャッター音が響いたおかげで、彼の目がこちらを向く。
「……盗撮?」
「ちがっ、わないですねごめんなさい。今の消しますから撮っていいですか?」
初めからこうしておくべきだったなと後悔した。いくら友達と言えど失礼だ。紫苑先輩は私に何も返さないままショートケーキを食べ終えると、ポケットから携帯電話を取り出した。
「撮ってあげようか」
「えっ、私の写真はいらないです! 紫苑先輩の写真が欲しいんです!」
「僕は写真嫌いだから『はい、チーズ』みたいなの嫌なんだよね。欲しいなら勝手に盗撮でもなんでもすればいいさ。友達だから別にいいよ」
そう言われて、私は撮ったばかりの写真を結局削除せずに保存することにした。嫌われてしまうかも、というのは余計な心配だったかもしれない。
にやけ顔で携帯を見つめ、先輩の写真を待ち受け画像に設定した。
さらさらの髪に触れて小さく口を開いている紫苑先輩。欲を言うなら、ケーキを食べてフォークをくわえている場面を撮ってみたかった。もちろん、この一枚でも充分満足だ。
少し下を向いて細められた瞳を見ていると、どきっとしてしまう。彼の、物憂げにも見える無表情を美しいと思うのは私だけだろうか。
「先輩、可愛い顔してますよ」
「……前言撤回しようか。とりあえずデータ全て消したいからその携帯貸して。僕が壊す」
「じょ、冗談です!」
冗談ではないけれど、冗談ということにしておかなければ本当に携帯電話が壊されてしまいそうだった。先輩は携帯電話を仕舞うと、コーヒーを一口飲んでミルフィーユにフォークを向ける。
「食べたら次はどうするの?」
「えっ?」
きょとんとして待ち受け画面を目線から外すと、紫苑先輩も同様に「え?」と言いたげな面差しをしていた。それから無言で見つめ合っていたら、彼がケーキに向き直る。
「ごめん、友達ってどういうものなのかいまいち分からないんだ。もっと色々な店とか見て回ったりするものなのかと思って」
失敗した――それは多分私に聞かせるつもりはない呟きだったのだろう。店内が思ったよりも静かで、紫苑先輩の独り言は私の耳に届いていた。
先輩は、私の友達であろうとしてくれている。それが嬉しくて、私はティラミスを口にした時よりも深い笑みを浮かべた。
「私の方こそ、ごめんなさい。先輩、面倒なこと嫌いだと思ってたので……」
「まあそうだね、面倒事は嫌いだ」
「じゃあ、紫苑先輩がもしよろしければ、なんですけど。色々なお店を見て回りませんか?」
食べてすぐに帰るつもりだったけれど、紫苑先輩との買い物風景を想像して、帰りたくないなと思い始めた。
もともと喫茶店に行こうと考える前にショッピングモールに行くつもりだったのだ。ただそれは、紫苑先輩を嫌々付き合わせることになるかもしれないと思ってやめたのだが、彼も嫌では無さそうでほっとした。
私はワッフルを半分に切って、それを一口で食べた。少し口に含みすぎたかなと思いつつ咀嚼していると、小さな笑い声が耳に届く。
「君って小動物みたいだなと思っていたんだけど、ハムスターみたいだね」
「……それ、もしかして褒めてます? 可愛いですよね、ハムスター」
ごくんと飲み込んでから微笑んで返す。褒め言葉ではないことくらい分かっている。こう言ったら先輩はどう返してくれるだろうかと気になって言葉を選んだが、よく考えてみると自惚れているようで恥ずかしかった。
恥ずかしさを誤魔化すように残り半分のワッフルを口に押し込んだ。
「そうだね、可愛いと思う」
それはハムスターに対しての言葉であり私に対してのものではない。だというのに、顔はどんどん熱くなっていく。頬は赤くなっているかもしれない。鏡で確認したかった。
「でもあれは小動物だから可愛いんであって、その真似事をしたところで本物には敵わないよ」
「真似をしているわけじゃないです」
「知ってる。あえて真似をするようなおかしな人間はいないだろうね。食べっぷりは素晴らしいけど口元にクリームとか付くから気を付けた方がいいと思うよ。僕は気にしないけどさ」
即座に、慌てながらナプキンで口元を拭う。気付いていなかったが、確かにワッフルにのっていたホイップクリームがナプキンに付いていた。気付かなければどうということはないのに、気付いてしまうと無性に恥ずかしくなる。
「……次から、気を付けます」
「急いでいるわけじゃないんだから、少しずつ食べた方がいい」
「はい。でも私はもう食べ終わりましたから、紫苑先輩が食べ終わるのを待ってますね」
コーヒーを一口飲むと、もうコップの中身は空になった。待っている間ゆっくり飲もうと思っていたものの、思っていたよりも無くなるのが早い。
携帯電話を弄るのも失礼かと思って、私はじっと正面に座る紫苑先輩を見つめていた。
私はミルフィーユを食べるのが苦手だ。バラバラになってしまって、食べにくい。紫苑先輩は食べ慣れているのか、ナイフとフォークを使って倒れないよう器用に支えながら食べていた。
上品な手つきを見ていて、ふと気になる。
「紫苑先輩って、お金持ちだったりしますか?」
一口サイズに切ったミルフィーユを口に運んで、しばし無言のまま口を動かす。彼はそれを飲み込んでから首を横に振った。
「いや、普通かな。豪邸とかじゃなくてただの一軒家だし」
「なんか、先輩って雰囲気が高貴な感じしますよ」
「他人なんてそんな風に見えるものだよ」
なるほど、と無言で納得しつつ、食べられていくミルフィーユを観察する。特に楽しくはないのに、なぜニヤニヤしてしまうのだろう。
「浅葱、食べたいの?」
「へっ!?」
そんな私の姿は、乞食のように映っていたのだろうか。そういう訳ではなかったため首を左右に振ろうとしたが、ミルフィーユの最後の一口がフォークに刺されて、私の方へ向けられた。
「ほら、あげるよ」
「あ、ありがとうございます」
お言葉に甘えることにして、私は口を開いた。無意識の内に目を閉じてしまう。口の中に甘い味がなかなか広がらず、私は瞼を持ち上げる。
フォークを持ったままの紫苑先輩が面白そうに笑っていた。
「あのさ、フォークごと渡すつもりだったんだけど」
「さ、先に言ってください! 恥ずかしいじゃないですか! 食べさせてくれるのかと思いました!」
「恋人じゃないんだからさ……。そういうのは好きな人が出来てからその人にしてもらいなよ。ほら、フォーク」
促されるままに私は紫苑先輩の持っているフォークを指先で摘まむ。僅かに触れた先輩の手が冷たくて、驚いた。
暑い気候の中ブレザーを着ているのに、どこまでも涼しげな人だ。店内は微かに冷房がかかっているけれど、私の体はそこまで冷えていない。
私は受け取ったフォークの先、ミルフィーユを口内に入れてフォークをそっと置いた。
「美味しい、ですね」
好きな人がどう、という話を出されて私は何故かむっとしていた。そのせいでミルフィーユへの感想は少し苛立った口調になってしまったが、紫苑先輩はそれを気にも留めず破顔した。
「そうだね、美味しかった。またそのうち来ようか」
優しい微笑み。こんな表情も出来るのだなと思うくらい、優しくて、どこか暖かい。本当の意味での、彼の笑顔のように感じた。
彼についてほとんど何も知らない私がそんな風に感じて良いのだろうか、とも思う。しかし彼の今の微笑は、とても綺麗だった。
視線が釘付けになっていて、時が止められているような感覚に陥ったまま、ぼうっとし続けた。視界で立ち上がった紫苑先輩が、私の顔を覗き見る。
「食べ過ぎてお腹でも壊した?」
「あっ、いえ」
声をかけられてようやく、私は店を出るため荷物をまとめ始める。駄目だ、つい先輩を見すぎてしまう。
あまりテレビは見ないけれど、紫苑先輩は芸能人に負けないくらい綺麗だ。先輩が彼らの前に立ったら、彼らに劣等感を与えてしまいそうなほど容姿が整っている。
こんなに綺麗な人が目の前にいたことなんて無かったから、視線がどうしても縫い止められてしまうのだ。
恥ずかしいだけでなく、とても申し訳ない。ずっと見つめられるなんて、嫌だろう。
「で、どこに行く?」
店を出て、先輩が駅前をぐるりと見回しながら言った。普段あまり周りを見ないのか、最寄り駅だというのに初めて来た人のように視線を彷徨わせている。
「そこのショッピングモールに行きましょうっ。色々なお店が中にあるんですよ」
私は紫苑先輩の手を引いて、大きな建物の中へ入っていった。
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