第二章
万有引力の法則1
◇
電車に乗り込むと、すぐに紫苑先輩を見つけられた。私が声をかけるまでもなく、椅子の側面に寄りかかっている先輩はイヤホンを外して鞄に仕舞いこむ。
「おはよう」
無表情か意地悪そうな表情ばかり浮かべている印象が強いため、彼の綺麗な微笑で心臓が大きく揺れたような感覚に陥った。本当に綺麗だ。そう思っていると、その思いが顔に表れてしまっていないか心配になってくる。
電車内でなぜか沢山の視線を浴びるのは、やはり紫苑先輩が美人だからだろうか。電車に乗る度こうでは、彼も疲れそうだ。
「おはようございます、紫苑先輩」
紫苑先輩の正面に立って、小さくお辞儀をした。流石にそこだと扉の前で邪魔になるため、彼の奥に移動する。
すぐ傍にいる彼を、ついじっと見つめてしまった。冷たい印象を受ける瞳、長い睫、すっと通った鼻筋、白く綺麗な肌。本当に、作りものや幻のように綺麗だ。触れてしまったら消えてしまいそうな雰囲気が、私や他人との間に薄い膜を張っていた。
同じ車両に乗っている他の男の人を見て、紫苑先輩の身長は女子より高いけれど男子としては低そうだと思った。きっと本人に言ったら怒られかねない。
怒られるのは嫌だなと思っていたら、窓の外を眺めていた彼の顔が私に向き直った。
「寝坊しなくてよかったよ」
「私は寝坊しませんから」
寝坊するような人間に見られていたのは心外だ。少しむっとして大げさに頬を膨らませてみせる。
油断していたせいか、電車に揺らされて、私は倒れかけた。救いを求めるように伸ばした手で吊り革に頑張ってぶら下がり、なんとか耐え抜いた。
「君が、じゃなくて僕が、のつもりで言ったんだけど。というか……なにそれ、新しい遊び?」
「っ支えてくれても良いのではないでしょうか!?」
「いや、そんな涙目で訴えられても」
期待したわけではない。少女漫画のかっこいい男の子みたいに、すっと支えてくれることを期待したわけではない。断じて違う。絶対に期待なんかしていない。
そう、私が伸ばした手は吊り革に救いを求めたのだ。紫苑先輩に、ではない。
「遊んでいると思われたのは心外です」
「いや、冗談に決まって――」
電車が停車して大きく揺れ、私は紫苑先輩の方へ倒れこむ。先輩が目を見開いたのが見えた――直後、私は扉に衝突していた。
扉に手を突いて起き上がるように体勢を立て直しながら、私を避けた彼に詰め寄る。
「……紫苑先輩」
「ごめん、つい」
苦笑して、紫苑先輩は開いた扉から下車した。まさか避けられるとは思っていなかったし、それは結構心に傷を負わせられた。けれど、迷惑をかけるよりは自分が傷付く方がまだ良いかと思い直す。
「浅葱さ、いつも電車でこうなの? 危なっかしいね」
「違いますよ! いつもは一人なので、ちゃんと揺れと戦っています!」
「……そう」
聞いてきた割に興味のなさそうな声が返されて、私は紫苑先輩の顔色を窺った。私の言ったことがそれほどおかしかったのか、口元が少し笑っていた。
駅を出たら、自然とお互い無言になった。道路を踏む足音と、通学している学生の会話ばかりが聞こえてくる。昨日のテレビがどうだったとか、あの俳優がどうだとか。紫苑先輩とそんな話をしようにも、まず私がテレビを見ていない。先輩から話してくれればなとも思うが、中性的と表すのがしっくりくる綺麗な声はいつまで経っても聞こえてこなかった。
なにか話題を、と考え出すと、やはり真っ先に浮かぶのは昨日の出来事だ。
「紫苑、先輩」
思い出しただけで、体が震えそうになる。それを堪えたら、出した声が震えてしまっていた。気付かれたかどうかは分からない。ただ、紫苑先輩は無言で私の言葉の続きを待っていた。
「もし、ですよ。もし……」
その先の言葉を続ける勇気が、出ない。胸の奥、勇気が入っている瓶の蓋を、私は開けることが出来ない。
先輩とは出会って一日しか経っていないのだ。いや、長い付き合いだったとしても、こんな現実にはありえない話を信じてくれと語ることなど、私には出来なかった。
怖い。拒絶されるのが、笑われるのが、離れて行かれることが怖くてたまらない。
「……もし、なに?」
「え、っと」
あれは、私だけの問題だ。紫苑先輩には関係のないことだ。あの世界と、先輩のいる世界は、違う場所なのだから。
先輩に言ったところで、住む世界の違う人間を助けることなんて誰にだって不可能だ。昨日助けてもらったからと言って、何度も何度も助けを請おうとする自分に嫌気が差す。
紫苑先輩の訝しげな視線を感じ、私は話を誤魔化さなければ、と慌て出す。もし、で始めた言葉の先、何を続ければいいだろう。もし、仮定。世間話のようなことでいい、早く言葉を紡いで誤魔化さなければ、更に怪しまれてしまう。
「もし、女性と付き合うならどんな人がいいですか?」
「は?」
……なにを言っているのだろう私は。
誤魔化すにしてもこの誤魔化し方は流石に恥ずかしい。これではまるで、紫苑先輩の好きなタイプの女子を聞いているみたいではないか。私が先輩に恋をしているのだと思われてしまったら、恥ずかしさで走り出したくなる。
横を歩く彼の小さな吐息が、風に攫われた。
「君さ、思わせぶりに黙り込むくせしてその後に言うことがとてつもなくどうでもいいことだよね。昨日も思ったんだけど」
とてつもなく、どうでもいいこと。確かにその通りかもしれない。少し心が痛むのは、紫苑先輩に冷たい瞳で一瞥されたからだ。彼は無意識だったのかもしれないけれど、氷に触れた時みたく、私の体は指先から冷えていっていた。
「ご、ごめんなさい……」
「別に。いいんじゃない? 空気が重くならなくて助かるよ」
彼の一言一言とさりげなく変わる表情で一喜一憂するなんて、おかしなことだ。もしかしたらこれが恋なのかもしれない、と思ってすぐさま否定する。
出会ったばかりで恋をするなんて、おかしい。きっとただの勘違いだ。私はまだ彼のことをほとんど知らない。確かに、これほど人の目を惹き付け、見た人の息を飲ませるような美人に自殺を止められて「友達になってあげようか」と言われれば、恋に落ちるかもしれない。一目惚れであり吊り橋効果というやつだ。
恋愛感情に疎いから、あの程度のきっかけで始まるものが恋なのかどうか、いまいち分からない。この心臓を揺らす感情の名称は、頭の引き出しを漁っても見つけられなかった。
「付き合う、ねえ? 僕は一人でいいかな」
「え」
その答えに、少なからず傷付いている自分がいた。それは友達として、だろうか。私の痛みに気付いたのか、彼は「あ」と声を漏らすと薄い笑いを浮かべる。
「今のは忘れて」
一人でいいという言葉を、忘れられるわけがない。彼は私の自殺を止めるために私と友達になってくれた。私も何か、彼のために出来ることがあればいいと思っていた。
もし友達と言う存在が――私が、彼にとって煩わしいモノだったならどうすればいいのだろう。
「……はい」
彼の、友達になりたい。偽りじゃなくて、本当の、友達でいたい。彼の、もっと近くにいたい。
願うように握った拳を、胸元のリボンの結び目に押し付けた。ふうと息を吐いてからその手を下ろす。気持ちの良い風に、溜息の音色は運ばれていってしまった。
◆
精神的に向上心のないやつは馬鹿だ、とある人は言っていたが、本当にその通りだと思う。僕はもう少し学ぶべきだろう。
どの言葉が誰を傷付けてしまうのか、もう少し考えて発するべきだ。彼女の友達になると決めた時点でそのことに気を付けなければと思ったはずなのに、すぐに忘れる。呆れるほどの鳥頭だ。
僕は自分の机の上で腕を組んで、そこに顔を埋めた。
結局、朝は僕の失言以降会話が始まることはなかった。友を演じることすら出来ない僕は、いったい浅葱の中で何になれているのだろうか。こんなことでは、彼女の支えになどなれない。
彼女の自殺を止め、彼女に生きたいと思わせる。それは僕の暇潰しにもなる。そんな考えはあまりに愚かだった。
他人を暇潰しの道具に使う。なんて汚い心の持ち主だ。他人をモノとみなすなど、これではまるで――あいつと、同じではないか。
僕は自分自身を戒めるように歯を噛み締めた。擦れた奥歯が軋んで嫌な音を立てる。
宮下浅葱は『友達』だ。僕は、彼女の生きる理由になろうとしたんだろう? だったら、もっと完璧な友達を演じなければならないはずだ。
僕じゃ駄目だ。呉羽紫苑じゃ、彼女の友達になれない。僕は僕じゃなくていい、僕じゃない方がいい。彼女の前では、彼女の友達の僕を作らないと。
「ばかか、僕は……」
演じて、何が楽しい。騙して、何が嬉しい。それで救えたとして、それで彼女に何かを与えてやれたとして、偽りに塗れたそれは一体なにをもたらしてくれるというんだ。
分かっている。僕が、変わらなければならないことくらい。
しかし僕には、他人と共にいることに価値を見出せない。どうせいつかは拒絶される。どうせ離れていく。人間なんてそんなものだ。
傷付くことと傷付けられることに、何の価値があるというのだ。痛みを与え合って、それでも友達でいて、その先には何が待っている?
そんなこと、どれだけ頭を悩ませても化け物には分かるはずがないのかもしれない。拒絶される側の人間は、拒絶する側の彼らが分からない。異常者は、普通の人に受け入れられないから。
突然携帯電話が振動して、僕は伏せていた顔を上げた。今は朝のホームルームが終わり、休み時間になったところのようだった。
ブレザーのポケットから携帯電話を取り出して画面を見る。表示されている名前は、東雲。
メールにしろと言ったはずなのだが、来ていたのは電話だ。切ってやろうと思ったものの、どうせ暇なので電話に出ることにした。
「なに」
『どうも、紫苑くん。おはようございます』
「今学校なんだけど。僕は学生なんだけど。もうすぐ授業始まるんだけど」
声の大きさを小さくして喋っているが、その必要は無かったかと思うくらい周りが五月蝿い。東雲の声が少し聞き取りづらくて、僕は席を立った。
教室を出て屋上に向かいながら、東雲の言葉に耳を傾ける。
『ああ、それは失礼。まあ続けますね。そういえばお互いの能力について話していなかったなと思いまして』
「そんなの戦闘時に分かっているよね。君の能力は視界内の他人を操る。行動を意のままにするというよりも、見えない糸で吊った操り人形で遊ぶ感じのもの」
階段を上がりきって、屋上の扉を開けた。さすが屋上と言うべきか、そこには誰もいない。授業をサボるために来ている生徒がいたら引き返そうと思ったが、そんな不真面目な生徒は僕だけのようだ。
『よく分かっているじゃないですか! 私、この能力を自分で〈マリオネット〉と名付けたのですがかっこいいと思いませんか!?』
ほっと胸を撫で下ろしていたら、東雲の声が鼓膜を破ろうとしてきた。曲の音量を最大まで上げてイヤホンを付けてしまった時くらい驚いたが、それは表に出さないでおく。
「あーはいはいかっこいいかっこいい」
『それで、紫苑くんの能力の方ですが、あれはどういう原理なのでしょう?』
「原理?」
原理、つまり事物・事象が依拠する根本法則。いや意味なんてどうでもいい。東雲が聞きたいのはどういうことなのかと沈思黙考する。沈黙から僕の心を読んだように、彼は言葉を続けてくれた。
『紫苑くんの能力は私の能力の対象に物を追加したもの、というわけでもないですよね』
「いや、似たようなものだよ。東雲の能力の見えない糸が上空から垂らされているとしたら、僕の能力の見えない糸は上空に限らず湧いて出る、みたいな。……説明って難しいね」
フェンスの向こうの青空に、指で想像図を描いてみたが、それは分かりやすい形にならない。悩むような息が電話の向こうで吐き出された。
『そうですねえ、もう少し私の考えをまとめてからもう一度かけなおします。もちろん零時前には。気長に待っていてください』
「あさ――……友達と一緒だったら出ないから、その時はまた今度ってことで」
『友達!?』
またもや、脳髄を揺さぶるような大声を上げられる。耳の奥の方が痛んで、僕は東雲に舌打ちを返した。
「うるさいんだけど」
『ああ、すみません。そりゃあ友達くらいいますよね、ははは。なんとなくですが紫苑くんは友達いないと思っていました。失礼』
「まあ、僕も彼女しか友達いないしね」
『ぶっ!』
飲んでいた飲み物を吐き出したみたいな汚い音が耳元で立てられ、僕は電話を耳から遠ざける。少しして耳の傍に寄せ直した。それからすぐに、嫌悪感を声だけで精一杯表してみせる。
「東雲、そういうの下品って言うんだよ、知ってる?」
『か、かの、彼女!?』
「うるさいな、何で君はそんなに全力で僕の鼓膜を破ろうとしているんだよ」
『いやあ、青春ですね。まあ確かに紫苑くん、綺麗ですしね。女性に言い寄られることも多いんでしょうねきっと。見た目が良いって羨ましい』
「次会ったとき首を百八十度回転させていい?」
東雲のこの態度、まさかとは思うが浅葱のことを彼女――三人称ではなく恋人としての彼女だと勘違いしているのではないだろうか。友達であってそういう関係ではないし、そもそも関わりすら薄い。
誤解を解いておくため、説明を付け加える。
「あのさ、浅葱はただの後輩であり友達だよ」
『年下が好みですか、やーいロリコン』
「お前喧嘩売ってるのか」
というかなんだロリコンって。そこまで浅葱は幼くない。
僕の苛立ちを感じ取ったのか、彼は笑いを堪えていた。人を怒らせて楽しむなんて本当に性格が悪い。目の前にいたなら腕を折ってやれるのに。そう思っていると、微笑を含んだ声で彼が言った。
『紫苑くんってあれですね、こういう話苦手でしょう。君をからかう時は恋愛関係の話をすればいいと学べました、ありがとうございます』
「そういう下らない話で僕の時間を奪わないでくれる? 次口にしたら電話切るよ」
『それで、その――浅葱さんという子は可愛いのですか?』
電話の向こうで口角を上げているのであろう彼の姿を思い浮かべ、舌を打つ。彼がその舌打ちを掻き消すくらいの声量で『どうなんです? 可愛いんですか? 私好みですか?』と何度も何度も繰り返してきて鬱陶しい。仕方なしに、箇条書きのように特徴を並べてみた。
「小動物みたい。天然、冗談が通じない、感情の起伏が激しい、結構考えていることが顔に出てる。こんなところかな」
『小動物って……ふ、ふふっ。あの、それ、君彼女に恋してませんか?』
「ふざけるのも大概にしてよ。そろそろ流石にうざったいんだけど」
『よく男性は可愛い女性を小動物に例えるのですよ。今度子猫ちゃん、と呼んでみたらいかがで――』
まだ東雲が何か言っていたけれど、僕は遠慮なく電話を切った。なんなのだろう、彼は。高校生をからかって遊んで何が楽しいんだ、大人気ない。彼のニヤニヤしている顔がありありと想像でき、不愉快で、危なく罪の無い携帯電話を地面に叩きつけるところだった。
「……恋、ねえ?」
フェンスに背中を凭せ掛け、涼しい風に瞼を軽く伏せた。グラウンドで体育の授業を受けている学生の声が、屋上まで聞こえてくる。騒音から意識を逸らすように思惟してみた。
僕が浅葱に恋をしている可能性はゼロだ。ありえない。僕は自分の行いを無意味なものにしたくないから、彼女を生かそうとしているだけなのだから。深い理由はない、自己満足だ。
手に握った携帯電話が震え出した。無視をしても振動が収まることはなく、電話がかかってきているようだった。また東雲からだろう。
僕は苛立ったまま通話ボタンを押して電話に出る。
「うるさいな、下らない話は聞き飽きたんだよ」
『へえ、随分と楽しそうだね』
「……」
電話を目の前に持ってきて、表示されている名前を確認した。
「別に。間違い電話が多いだけ。今のもそうだと思ったんだ」
『っはは、誤魔化すのが苦手だねぇ相変わらず。俺は弟の友人をどうこうしようなんて考えちゃいないよ?』
「友人じゃない。……で、用件はなに。僕が学校にいることくらい分かってるよね」
『そうツンケンしなくてもいいじゃないか。紫苑、今日帰りが遅くなったりしないよな?』
ああ、声のトーンだけでよく分かる。職場で何かあったのか、機嫌の悪さが滲み出ていた。多分紫土は堪えているつもりだ。それでもその声を幾度となく聞いている僕には、嫌というほど分かってしまう。
彼はストレス発散に、彼の芸術作品の続きを描きたいと言っているのだろう。
「授業が終わったらすぐに帰る。だからそっちが先に帰ったとしても家のものを荒らさないでくれる?」
『善処はするよ。紫苑が先だったら道具用意しておいて』
「あのさ」
『何?』
「……なんでもない。切るよ」
紫土のどうぞという声に従い、僕は電話を切る。やはり、言うことが出来なかった。
全て内側に溜め込んで外面を繕い続けることって、何が楽しい? ――そんな問いはいつも喉元まで出かかるけれど、結局嚥下してしまう。それが彼の機嫌を損ねる言葉だということくらい分かっているから、口を噤むしかない。
僕は面倒事が嫌いだ。言えば確実に面倒になるであろうことは、あまり言いたくない。その『面倒』が僕にとって大きな問題にならないものだったなら、遠慮なく思ったことを口にする。しかし紫土に与えられる面倒事は確実に大きな問題だ。
浅葱を感情の起伏が激しいと言ったが、彼に比べれば全く激しくない。いつか僕は彼の機嫌を損ねて殺されるかもしれないな、なんて洒落にならないことを考えてから空を仰いだ。
それから腕時計に目をやって、一時間目が終わるまで屋上にいることにした。
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