万有引力の法則3

     ◇


 色々店を見て回ったものの、互いにそれほどお金を持っていなかったため、何も買わずに別れることとなった。決して不服なわけではない。ただ見て回っていただけだと言うのに、私は満足だった。

 紫苑先輩に似合いそうなピアスがあったから、いつかプレゼントしたいなと思った。近いうちに誕生日を聞き出して、誕生日プレゼントとして渡す計画を立てるつもりだ。

 だけど、彼は既にピアスをしているから、ピアスを贈っても付けてくれない気がしていた。

 そういえば、紫苑先輩の着けているピアスは銀のカードに兎のシルエットが描かれたようなものだった。彼は兎が好きなのかもしれない。甘いものが好きで、兎が好き。冷たく大人びているけれど、好きなものは可愛らしいと思った。

 尤も、兎が好きなのかどうかは分からない。

 ふと、兎で『ウサギ』を思い出した。忘れかけていたが、私は今夜もあちら側に行かなければならないのだ。

 自分の能力は未だ不明。こんなことで今後やっていけるのだろうか。もし人兎に殺されてしまったら――それを想像しただけで身震いしてしまう。

 記憶を失うなんて私は嫌だ。辛い記憶も沢山あるけれど、楽しい記憶だって沢山あるから。絶対に、それだけは嫌だ。

 頑張らなければならない。手をぎゅっと握り締めて、私は駅の階段を上がろうとした。


「っひゃあ!」


 階段を駆け下りてきた人に思い切りぶつかって、尻餅をつく。驚きすぎて大きな声を出してしまい、恥ずかしくなって口元を押さえた。


「わ、わりい……大丈夫か?」


 すっと差し出された手。私の目はそれを通り越して、衝突者の顔に向けられた。染めているのか生まれつきか、金髪にも見えるほど明るい茶髪をしていた。両耳にはリングピアスがはめられている。手を取ろうにも、その容姿につい怯えてしまう。

 早く立てと言いたげな目はあまりに鋭くて、睨まれているような気分だ。


「だ、大丈夫、です」


 親切心から差し出してくれているのであろう手を無視することは出来ずに、さりげなく触れて自力で立とうとした。

 けれど触れた瞬間握られて、ぐいと引かれる。


「わっ」

「おっ、と」


 勢い余って彼の胸元にぶつかってしまった。予想外に優しい手が、そっと私を離す。だが彼の顔はとても不機嫌そうだった。

 その瞳に何もかも見透かされているような、不思議な気分になる。一歩後退してから、私は小さく礼をした。


「ありがとうございます。それと、すみませんでした」

「いや、ぶつかった俺が悪ぃんだ。気にすんな」


 彼は私をじっと見つめてから、やがて興味をなくしたように歩き出す。私も少しして階段を上り始めた。

 怖いと思ってしまったことが顔に出ていたら、すごく申し訳が無かった。人を外見で判断してはいけないのに、気が付くと外見から受けた印象ばかりを気にしてしまっている。

 それにしても、優しい人でよかった。

 私の周りは優しい人で溢れている。そう思うと、胸に暖かいものが広がっていった。


     ◆


 浅葱と別れて、僕は帰り道にある公園のベンチに腰掛けた。

 友達らしいことを出来たかどうか、確認するように今日のことを振り返る。自分の言動が浅葱の目にどう映っていたか心配になるが、楽しそうにしていた彼女の顔が浮かんで、ほっとすることが出来た。

 またどこかに行きましょう。別れ際にそう言って笑った浅葱の顔が、頭から離れない。美味しそうにケーキを食べていた彼女のことも思い出して、つい微笑んでいた。

 誰もいない公園で一人笑っているなんて、不審者じみている。溜息を吐いて、暗くなってきた空をなんとなく眺めていたが――。


「……あ」


 ぼうっとしている場合ではないことに気が付き、ポケットから携帯電話を取り出して東雲に電話をかけた。

 無機質な音が耳元で何度か繰り返される。少しして、その機械音は東雲の声に変わった。


『紫苑くん。思ったよりも遅かったですね』

「まあ、ね」


 友人と買い物等をしていた、と言ったらまたからかわれるかと思い、それについては黙っておく。


『デートですか?』

「とっとと本題に入ってくれる?」


 本当にふざけることが好きな男だ。僕だって暇ではないのだからそんな戯言にいちいち付き合っていられない。


『ああ、分かりました』


 東雲は少し黙り込んだ。自分のまとめた考えをどのように言うか悩んでいるのだろうか。沈黙は心配になるくらい長い。

 一分は経ったと思うほどの間の後、彼の声が流れてきた。


『君は万有引力の法則については知っていますか?』


 唐突な問い。しかも科学。勉強が出来ない僕はそれが有名なものでよかったと胸を撫で下ろした。流石に僕でも分かる。


「重力とか引力が全ての物質に働いている、みたいなやつだっけ」

『まあそんなところです。君の能力はその重力や引力の大きさを自由自在に操れるのかと思ったのですが、どう思いますか?』

「どうって……」


 自分の能力を頭の中で再確認してみた。人体や物体を折り、歪められる。東雲と戦った時、傘にしたように物を浮かし飛ばすことも出来る。やろうと思えば人にも出来るだろう。

 それらのことを重力や引力に結び付けるのは少し強引ではないかとも思うが、違うと否定出来る材料もない。彼の言っていることは正しいかもしれなかった。


『そこでですね、今夜試してみたいことがあるんです。相手は人兎でいいでしょう。君の能力で、上方から力を加えて人兎を押し潰せるのか、とか、左右から力を加えて押し潰せるのか、とか』

「わかった、やってみようか。じゃあ、時間になったら弓張駅で」


 携帯電話をポケットに仕舞って、僕は立ち上がった。公園を抜け、自分の家へ向かう。

 少し歩いて自宅に着くと、取っ手を回して扉を開く。授業が終わってすぐ帰ると言ったが、遅くなってしまった。紫土の機嫌が悪くなっていることを考えたら自然と気分は沈む。


「――おかえり、紫苑」


 玄関で靴を脱いでいたら、紫土の声が背中にかけられた。声色からして機嫌はすこぶる悪いみたいだ。一人で心を落ち着かせるということをいい加減学習して欲しい。

 僅かに震えかけた拳を握り締め、僕は無感情に謝罪をした。


「少し遅くなったかな、ごめん」

「どうでもいいから早く腕を出してくれ」


 振り返ってみれば、裁縫針を摘まんでいる彼の手が視界に入った。血走った瞳、苛立ちで荒れる呼吸。僕達以外誰もいない家だから、紫土は抱え込んだ全てを露わにしていた。

 僕はブレザーを脱いで床に落とし、ワイシャツの左袖を捲くった。前腕部を覆う包帯を外していると、蝶になる予定の刺青が彫られたその腕が強引に引かれる。まだ解けていない包帯が乱暴に引っ張られ、足元へ投げ捨てられた。

 手にしていた裁縫針を、紫土は指揮棒のように掲げた。腕に突き立てられる針は容赦なく皮膚を裂く。

 彼がなにかを言っているが、僕は何も聞きたくないため意識を自分の思考に集中させた。こうでもしなければ、引き千切られる皮膚と血管の音が聞こえてきそうで吐き気がする。気を紛らわせるように、東雲との会話を思い出しながら自分の能力について考えてみた。それは何も面白くはないけど、聴覚を遠ざけるには充分だった。

 痛覚を紛らわせる術は唇を噛むことか手を握り締めることだ。痛みには、痛みを。なんの意味もない行為だけれど、他人に痛みを与えられているという屈辱からは離れられた。時折体が震えるほどの痛みを受けるが、唇に笑みを貼り付ければ敗北感からは遠ざかれた。蔑むような目で頭のおかしい兄の手を見れば、迫ってくる屈辱に距離を作れるような気がした。

 誤魔化したところで、どれも一瞬だけの強がりだ。痛みが広がるほど、続くほど、まやかしは消されて行く。激痛で現実を見つめさせられる。

 痛みに悲鳴一つ上げないのが、精一杯の抵抗だった。

 紫土にとってのキャンバスには、ひたすら針と言う名の筆が当てられる。彼の気分に合わせた筆遣いはキャンバスの痛みなど考えていない。


「……っ」


 口から零れかけた悲鳴をぐっと堪えた。紫土に気付かれないように、歪めた表情から力を抜く。

 時折薄く、時折深く。針と骨が擦れ、皮膚だけでなく肉まで裂かれる。腕は僕を嘲笑うように痙攣していた。

 どれほど腕が震えていようが、どれほど血が溢れ出そうが構わずに、筆はただ作品を完成させようとキャンバスを抉る。

 そうして蝶を描いていた手が、不意に止まった。


「少し待っててよ紫苑。墨、持ってくるの忘れてた」


 針を口に咥え、紫土が階段を上がって行く。左腕を右手で掴むと、刺すような痛みが激しくなった。両腕の震えが止まりそうになくて、自嘲する。

 右手を腕から離して顔の前に持ってきたら、血が付着していた。赤い血をぼうっと眺めて、そういえば人兎の血も赤だったなと、この状況ではどうでも良いことを考えた。廊下の壁に寄りかかり、ゆっくりと床へ座る。

 僕が紫土に抵抗出来ないのは、怯えているから。そのせいで、力がうまく使えない。使おうとしても、彼はそれを防ぐ術を知っているから意味がない。機嫌を損ねて更に痛い目を見るだけだ。

 紫土が墨汁を手にして階段を下りてくる。座り込んでいる僕と目が合うと、無遠慮に僕の腕を引っ張った。床が汚れることも、僕のワイシャツが汚れることも考えていない容器の口が下を向く。少し静かになっていた痛みが、墨汁に触れた途端勢いを取り戻す。

 腕を伝って床に零れる液体の音が、やけに響いて聞こえていた。空になった容器が投げ捨てられて用済みを告げられる。


「……お前さ、もう餓鬼の頃みたいに泣きわめいてくれないの?」


 今まで愉しそうだった紫土の顔が、冷えきった無表情で僕を見下ろしていた。何かを咎めるみたいに顰められていく顔は、描画時とはまるで別人だ。

 僕は立ち上がって、玄関に置きっぱなしにしていた鞄を手に取り、彼の横を通り過ぎた。


「僕はもう子供じゃないからね」

「子供だよ、高校生は」

「僕がしているのは内面の話だ。もうあんたの思い通りになる弱い弟はいないんだよ」


 虚勢を張って、その場を後にする。彼の歪んだ芸術に手を貸している僕が言っても、説得力のない言葉だ。

 階段を上る自分の足音を聞きながら、ふと浅葱のことが頭に浮かんだ。

 彼女の家庭は、きっと幸せな形をしている。家族が優しさから作ってくれる弁当を、嬉しそうな顔で口にするのだから。友達を一人失ったくらいでその幸せを捨てようとするなんて、彼女はとんだ幸せ者だ。恐らく自分の持っている幸せに気付いていないのだ。

 僕も、人によっては幸せ者に見えるのかもしれない。持っているはずの幸せに気付いていないだけで、僕は幸せな日々を送っているのだろうか。

 人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。――昔読んだ本にそんなことが書いてあったことを想起して、本当にその通りだと思った。


「……はあ」


 階段の手すりに滑らせた自身の腕を、眇めた双眼に映す。前腕を蝕む痛みに、息衝いた。

 人って何のために生きているんだと思う?

 誰かに、そう問いかけてみたかった。そんな質問に、間髪入れず胸を張って答えを述べられる人間が何人いるだろう。

 僕は勿論、その答えを持ち合わせていない側の人間だ。

 僕はただ、いつか訪れる終わりまでのうのうと、運命とかいうモノの手の平の上で踊ってやっているだけだ。なりたいものもしたいことも行きたい場所もない。下らない日常の流れに身を任せて、時の刻みを待つだけ。

 といっても、『日常』というレールから外される時間が毎日のようにやってくる。今となってはその時間すら僕の日常だ。

 下らなくて、退屈で、けれど殺すことを強いられる、そんな異常な日常。

 時計の針はまだ、十二の数字を指さない。

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