エスプレッソと愛の詩

あずきんぐ

1話目

 恋をした人間とは、どうしてあんなにも美しいものなのだろう。

 それは偶然が重なったものだった。

 教室に忘れ物して、慌てて取りに戻ったときのこと。夕日に照らされた教室で、一人の男が恋に落ちていた。頬を赤くして、肩を震わせて、まるで目が離せないといった様子で、文庫本を凝視している。

 彼が恋に落ちていたのは、クラスの人気者でも、新人教師でも、ましてやアイドルでもなかった。大量印刷された文庫本の、たった一文。

 一般的にいう『恋』とはかけ離れたものだったけれど、あれは確かに恋だったし、彼はその一文を心から愛していたと思う。

 そしてまた俺も、文章に恋した男に、恋してしまった。

 二度三度と同じところを目で追う彼の横顔が。

 愛おしそうに文庫本をなぞるその指が。

 動かし方を忘れてしまったかのように固まっているつま先が。

 彼を取り巻く全てが美しくて、目が離せない。俺は彼が文庫本にするのと同じように、彼の全てを目で追い、ひび割れた壁をなぞり、そしてまた、動くことを忘れてしまった。

 結局俺は、鐘が鳴るまで扉の前に突っ立っていて、忘れ物を取ることはできなかった。


 それから数日、俺は彼のことをずっと観察していた。

 幸い、彼は俺と同じクラスで、俺より前の席に座っていたため、学校にいる間はずっと眺めていることができた。

 彼は真面目な性分だった。面白いことがあったら、それなりに顔を崩して笑っていたけれど、他人を貶めて笑いに昇華するものに対しては、一切顔を動かさなかった。けれど、表立って「そういうのは良くないよ」なんて言うこともしない。彼はそういう空気も読める男だった。

 それを見てしまうと、今までつるんできた奴らが、どうしようもない人間に見えてしまって仕方がない。自分の容姿なんか棚に上げて、デブだハゲだと激しく罵る。少しばかり校則に厳しい女子に対しては、ブサイクが調子に乗るなと嫌味ったらしく告げた。

 けれどそれは、今までの俺がどうしようもない人間だと示すものでもある。だから俺は、奴らと少し距離を置いた。


 俺の想いは日に日に膨らみ、遂に超えてはいけない一線を超えた。

 先日の体育で、バスケットボールの試合をしている時。本のことを考えているであろう彼の、ぼんやりとした横顔を見て、俺は初めて欲情した。

 今までの『好き』は、小学生のような、柔くて甘い、マシュマロのような可愛い想いだった。けれど、あの顔を見た瞬間、マシュマロはエスプレッソに落とされてしまった。ぐるぐるかき回されて、マシュマロの影は消えてなくなって。あとに残ったのは、苦くて黒いエスプレッソ。

 見てほしい、触れてほしい、ずっと一緒にいたい。そんな真っ黒くて見せたくない感情。

 その時初めて、百数ページの紙切れを、憎く感じた。


 ある日俺は、何を思ったか彼に話しかけることにした。彼が放課後、本を読むため教室にいるのは知っていたから、適当な場所で時間を潰して、二人きりになれそうな時間に、教室へ向かった。

 少し控えめに扉を開くと、彼は大層驚いた顔で、こちらに目線をやった。こんな時間に人が来るとは思わなかったのだろう。

 視線を気にすることなく、俺は彼の前の席の、椅子を反対向きにして座った。というより、またいだ。

「お前、いっつも本読んでるよな。それ、そんなに面白いん?」

 俺は初めて声を発した。彼の前で、初めて。

 なるべく自然な調子で話すつもりだったけれど、一文字一文字が喉に引っかかって、合成音声みたいな台詞になってしまった。

「知ってたのか。そう。これ、とても面白いんだ」

 彼が見せてくれた表紙は、見覚えがあるものだった。きっと、彼が恋している本だろう。

 何故俺がこんな時間にいるんだ、とか気になることは沢山あっただろうけれど、彼はそれを突っ込むことなく、俺の問いに答えた。

「どういう話?」

「ありふれた恋愛小説さ。普通の男と、普通の女が、出会って、恋をして、結婚して…」

「ふぅん。”普通”、か」

「普通は嫌なのか?」

「いんや。お前の言う”普通”って、どんなもんなのかなって気になっただけ」

 日が傾いた教室で交わされる言葉は、ありふれたものだったけれど、それでも俺にとっては、言葉にできないほど特別だった。この瞬間を切り取りたいと思うほどに、俺は彼に恋をしていた。

「普通…そうだな。僕の思い描く普通は、多数決、だね」

「多数決」

「そう。例えば、恋愛をするのが普通だ、と言う人が多ければ、それが普通」

「じゃあその恋愛小説は、日本の考え方の縮図みたいなもんか」

「はは。確かにそうかもしれないな」

 柔らかな微笑みを浮かべて笑う彼は、やっぱり恋した人独特の雰囲気を纏っている。少し言いすぎたか、とも思ったが、気を悪くした様子はないので、ひとまず安心する。

「俺、好きな人がいるんだ」

「こりゃまたいきなりだな」

 俺は彼の言葉に全面的に同意した。あまりにも唐突だ。それでも、彼は開いていた本をそっと閉じ、俺の方へまっすぐ視線を向けた。

「でも俺、普通じゃないんだ。普通じゃない恋してるんだ」

「それでもいいんじゃないか?僕の普通と君の普通は、全然全く違うものなんだから」

「そうかな」

「そうさ」

 既存の宝石に例えられるような、美しい瞳じゃなかったけれど、夕日が揺れる彼の黒目は、長年愛された洋楽よりも、数億する絵画よりも、俺には価値のあるものに映った。心奪われる、とはまさにこの事だろう。ここが美術館なら、俺は客の流れを止めて、ずっとこの宝石の前で佇んでいることだろう。

「俺、お前が好きなんだ」

「……そう、か」

 彼は初めて言葉に詰まった。何と返せば俺を傷つけないか、考えているのだろう。言葉に詰まった時点で、答えを言っているようなものだけれど、その心遣いは、やはり俺の心の奥底を、優しく刺激する。

「……ごめん。僕は、君の気持ちには答えられない」

「うん、知ってる。でもありがとな」

 俺はそう告げて、早足に教室を去った。答えなんて知っていたけれど、改めて言われれば、やはり深く傷ついた。

 その日俺は、布団にくるまって情けなく泣いた。制服を脱ぐこともせず、夕食も食べず。

 ひとしきり泣いて、時計の針がてっぺんを回り、頭が痛くなり始めた頃。彼が見せてくれた本のタイトルを、何気なくスマートフォンに打ち込んだ。

 タイトルと共に書かれたあらすじを見て、俺は酷く驚く。


 男が好きな男の青春を描いた、現代社会に切り込む恋愛小説。


 彼が恋していたのは、きっと、どこかにいる同性の人なのだろう。そう思うと、彼がこの本に心惹かれた理由が、分かった気がした。

 俺はこの本の注文ボタンを、優しくタップした。届くのは三日後のようだ。

 俺はひとつ背伸びをして、人口の光で照らされた空を見上げる。マシュマロ入りのコーヒーの味を、思い出していた。

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