誰かの永遠[前]

 小平こだいら志麻しまちゃんにもうすぐ、弟ができる。


 いつも白いイタリア車で送迎していた志麻ちゃんのパパの小平さんは、最近ファミリータイプの国産車に買い替えた。

 それもまたセンスのあるグリーン系の車体で、またママさんや先生たちがきゃあきゃあ騒ぐネタになっている。

 夕方5時40分。

 小平さんがお迎えに来る時刻だ。花音かのんちゃんやみかげちゃんと一緒におままごとセットで遊んでいる志麻ちゃんの隣りを、あたしはさりげなくキープした。

 志麻ちゃんのお宅はこの園から妊婦さんの足でもきっと10分かかるかかからないかくらいだけれど、奥さんである志麻ちゃんのママの妊娠がわかってから、お迎えはほぼ100%パパになった。

 それはあたしにとっては喜ばしいことだった。

「志麻ー」

 階段を上がってきた小平さんが、乳児組の部屋のゲートのチェーンを外しながら呼びかける。

 その声に、あたしの心臓は少女漫画のように小さく飛び上がった。

 おままごとセットのフライパンでなぜか包丁のおもちゃを炒める遊びをしていた志麻ちゃんは、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。

「ぱぱ!」

「志麻!」

 ふたりは熱い抱擁を交わす。毎日の光景だ。

 普段はどちらかというとドライな印象の小平さんだけど、娘のテンションに負けない高い声で叫び、顔中とろけそうな笑顔で頬ずりしている。

 本当に娘が好きなのね。きっと、奥さんのことも――。

「あーお父さん、志麻ちゃん今日も元気いっぱいでした! 給食のリゾット、3杯も食べたんですよ」

 あたしが志麻ちゃんの通園袋を取りに行っているわずかの間に、あひる組の副担任である安田先生が小平さんに志麻ちゃんの今日の様子を伝えている。

 ず、ずるい。それはあたしが言いたかったのに。ってか安田先生結婚してるくせに、なに頬をバラ色に染めてんのよっ。

「あっそれと、今日はわりとパンツで長い時間過ごせたんですよ! おむつ外れ、もうすぐかもしれませんね」

 あたしは通園袋を渡しながら、安田先生の前に割って入った。ちっ、と舌打ちが聞こえた気がする。

「そうなのか! 志麻、がんばったなあ」

 小平さんはそんなあたしたちの小さな攻防に気づく様子もなく、志麻ちゃんを抱き上げてわしゃわしゃと頭を撫でた。

 気の早い半袖のポロシャツからのぞく二の腕に浮かび上がった筋肉を、あたしはさりげなく目に焼き付けた。


「愛妻家だよねえ、志麻ちゃんパパ。絶対に危ない目に遭わせたくないんだもんね、奥さんのこと」

 市川いちかわ先生がうらやましそうに言って、喉を鳴らしてビールを飲んだ。

 あたしもモスコミュールに口をつける。丸一日園児たちに翻弄された身体に、アルコールが染み渡ってゆく。

 市川先生はこの園に関する情報が本当に早い。噂の収集能力が異常に高いし、自らもゴシップ好きだ。

「知ってる。出張のとき以外、ぜーんぶ送り迎えパパだもんね。きりん組でも評判」

 お酒に弱い三好みよし先生は、もうオレンジジュースに切り替えている。

 あたしたち3人は同期なので仲がいい。全員独身で、そろって彼氏募集中だ。

 早番・中番・遅番とある保育園のシフトが3人とも早番にあたった日を「ビンゴの日」と呼び、居酒屋で飲むのが恒例になっている。

 誰の耳も気にせずに赤裸々な話ができるよう、わざわざ園から離れたお店を選んで。

「かっこいいよねえ。宇野うの先生いいな、あたしもあひる組ならよかったのに」

 市川先生が深い溜息をつき、三好先生が同調した。

 そう、志麻ちゃんのパパはこの保育園界隈で人気が高い。

 園児のママたちからも。

 保育士たちからも。

 ――あたしからも。

「でもね、大輝だいきくんパパもかなりイケメン。たまにしか来ないけど」

 三好先生がだし巻き卵に箸を入れながら言った。

「あー、わかる! 木村さんでしょ。あとかえでちゃんパパ。あ、楓ちゃんと言えばさあ、今日さあ」

 去年三好先生が担当していたクラスを、今年度は市川先生が見ている。

 あたしの知らない生徒の話題でふたりが盛り上がっている間に、あたしはモスコミュールのおかわりと蛸の唐揚げを注文した。

 26歳。

 恋愛盛りの年齢なのに、出会いといったら園児の保護者ばかりだ。

 もちろん、わかっている。

 保育士としても、社会人としても、園児の父親を恋愛対象にするなどご法度だと。非常識だと。

 それでも、小平さんと会うたびにこの胸は勝手にときめいてしまう。

 甘辛バランスの整った顔に、やや細身だけど引き締まった身体。

 低いけれど優しく響く声。

 大手建機メーカーの、なんとか開発センターのカスタマーサポート部に勤めていて、英語が堪能だというのもぐっとくる。

 飄々ひょうひょうとしていて、愛想の良いタイプではないけれど、園の行事には積極的に参加してくれるし、海外出張に行くたびあたしたち保育士にもお土産のお菓子を買ってきてくれる。

 でも、素敵な人はやっぱり、既に誰かのものなのだ。

「……宇野先生は、やっぱり志麻ちゃんパパ?」

 イケメン談義をひとめぐりさせて、市川先生が再びあたしに水を向ける。

「んー、まあ……」

「だめだよ、本気になったらヤバいよ。園にもいられなくなるからね。絶対やめときなよ」

「わかってるよお、目の保養なだけだよ。ワンチャンすらないよあたしたちには」

「あったら、どうする?」

「え」

 焼き鳥を串から外していた三好先生が、いたずらっぽい顔で笑った。両目のふちがうっすら赤く染まっている。

「絶対に誰にも見られない場所で、ふたりきりになったとしたら? 好きって言っちゃう? 迫っちゃう?」

「こらこら、三好先生」

 市川先生が止めに入り、あたしは運ばれてきたモスコミュールと蛸の唐揚げを受け取りながら苦笑した。

「やめてよ、もうすぐお子さん生まれるのに」

「いいよねえ、志麻ちゃんママ。少なくとも10ケ月以内に小平さんとエッチしてるってことでしょ」

 普段はおとなしい三好先生だけど、乾杯のビールだけで随分キャラが変わり、饒舌になっている。保護者に聞かれたらとんでもないことになるであろう発言だ。あたしはさすがに周囲の席を見渡してしまう。

 合コン中の学生の集団に、サラリーマンたち。見かけない顔ばかりで、とりあえずほっとする。

「予定日、いつだっけ?」

「6月上旬」

「来月かあ、すぐだねえ」

 計画無痛分娩を予定していると言っていた。生まれたら、小平さんも育休に入ると聞いている。社員のライフイベントに理解のある会社らしい。

 志麻ちゃんに弟ができて、その子も入園することになれば、その分だけ小平さんと園との関わりができる。

 そのことは、純粋に嬉しかった。


「週末は伯母夫婦といとこが高崎から遊びに来て、たっぷり遊んでもらいました。よほど楽しかったのか、夜になってもテンションが上がり、音楽を聴きながら踊ったりしてなかなか寝ようとしませんでした(笑)。来客でリズムが崩れたのか、便秘しているので宜しくお願いします」

 小平さんの書いた連絡帳の文字を、あたしは指先でそっと撫でた。

 家庭と園とでやり取りする連絡帳を書くのは、どの家庭も大抵ママだ。でも志麻ちゃんの連絡帳は、3回に2回はパパの字で書かれている。

 先日の個別面談のとき、「主人と奪い合って書いてます」と志麻ちゃんママが笑っていたっけ。大きな目と透けるような肌が印象的な奥さんだった。腕も脚もほっそりしたままなので、突き出たお腹がひどく目立っていた。

 ああ、いいな。

 悔しい悔しい悔しい。

 あたしだって素敵な人と結婚したいのに、いいかげん他人の子でなく自分の子を育てたいのに、どうして彼氏すらいないんだろう。

 去年、短大時代の友人の紹介で付き合った男とは、2ヶ月も続かなかった。紹介してくれた友人本人の元彼であることが判明して、一気に気持ちが冷めてしまったのだ。

「せんせー、そらくんこわい」

 みかげちゃんが泣きながらあたしのスモッグの裾を引っぱってきた。

 2歳児クラスのあひる組でいちばん体格のいい空良そらくんが、絵本で女の子たちの頭を叩いて回っていた。

 あ、志麻ちゃん危ない。

 あたしより早く安田先生が空良くんに飛びかかるようにして動きを封じたので、志麻ちゃんは難を逃れた。

 よかった。志麻ちゃんが怪我をしたりしたら、話のネタどころじゃない。

 安堵していたら、今度は異臭がすることに気づいた。

 あたしの足につかまっていたみかげちゃんが、そのまま真っ赤な顔でうんちをきばり始めていた。

 あたしは深く嘆息する。保育士という仕事は、毎日が戦いだ。髪を振り乱し、汗を飛ばして駆け回って。

 ロマンスからは、遠く隔たった日々。


 5時35分。もうすぐ、小平さんが来る。

 花音ちゃんのママに荷物を渡しながら、あたしは気もそぞろになってくる。

 どこかで救急車のサイレンが鳴っている。

 視界の隅に映る志麻ちゃんは、静かに絵本を読んでいる。2歳児ながら、ものすごく集中力のある子だ。ママに似て、ぱっちりした目。さらさらの髪の毛が、シックなチャコールグレーのカットソーを着た肩にかかっている。

 どたどたどたどた。

 階段を上ってくる音がした。でも、小平さんの足音じゃない。もっと慌てたような足取り。

「宇野先生!」

 園長先生だった。大柄でおさげ髪の園長先生が、取り乱した様子であたしを呼ぶ。

「はい」

 何だろうか。保護者からのクレームじゃなければいいのだけど。

 花音ちゃんのママが、娘の手を引きながら心配そうな顔でその脇をすり抜けて帰ってゆく。

「宇野先生、宇野先生」

「はいはい、はい」

「いたいた、宇野先生。今、お父様から連絡があって」

 えっ。

 園長先生は肩で息をしている。

「お母様が自転車で事故にって、今、たった今救急車で運ばれたって」

 頭の中が真っ白になった。すべての雑音がミュートになる。

「市民病院だって。お父様も職場から向かうそうだけど、宇野先生も行って。早く早く」

「えっ、あっ、はい」

 心臓がばくばくして、あたしは激しくまばたきをした。頭がついていかない。膝が震える。

「すぐ行けるの? タクシー呼ぶ?」

 安田先生が心配そうに駆け寄ってきた。

「あ、そ、そうですね、いったん自転車で家帰って、それからタクシーで……」

「送りましょうか」

 突然の声に、振り返った。

「乗せて行きましょうか、うちの車で」

 小平さんが、いつのまにか志麻ちゃんを抱えて立っていた。

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