Every Jim has his Jill[後]
シャワーを浴びて部屋に戻ると、
人の気配も彼女の荷物もない。
俺はすがるようにベッドに駆け寄ったが、シーツの上には髪の毛一本残っていなかった。
ただ、シトラスのようなかすかな香りだけが、彼女が夢でも幻でもなくたしかにそこにいたことを証明していた。
慌てて扉を開けて走り出たけれど、ラブホの廊下が広がっているだけだった。
嘘だろ。嘘だろ。嘘だろ。
あんなにキスしたのに。あんなに触れたのに。あんなに突き上げたのに。
あんなに好きだった舘野と再会できたのに、あれが最初で最後なんて、嘘だろ。
そもそも俺が女にやり捨てされるなんて、嘘だろ。
俺は半分パニックで、それからの日々を
なんとか舘野と連絡を取って、せめてもう一度、話だけでも。
そう思ってあの日同窓会に来たメンバーを片っ端から当たろうとしたが、俺が連絡先を知っているのは加藤と、吉田
「え、舘野? あの日俺、ほとんど絡まなかったからなあ。ってかおまえ、一緒に帰ってなかったけっけ?」
上京して女を取っかえ引っかえしている加藤は、当てにならなかった。
俺は少し迷って、吉田にメールを打った。学級委員長だった吉田は卒業前にクラスメイト全員ときっちり連絡先を交換していたし、同窓会の夜に舘野と親しく話していたから、彼女にアクセスできないはずがなかった。
「同窓会では幹事お疲れでした。ちょっと聞きたいことがあってメールしました。舘野の連絡先って知ってたりする?」
女に女のことをたずねるのはどうにも気まずいが、致し方ない。
はたして吉田はすぐに返信をよこした。
「三浦くん、こんにちは。由麻の何を知りたいの? もしよかったら、直接会って話そう」
吉祥寺で会うことになった。吉田が一人暮らししている町だ。
南口の改札を出て階段を降りると、真夏だというのにがっちりと腕を絡めたカップルが何組も目の前を通っていった。
くっそ、俺だって今頃舘野とこうなっていたかもしれないのに。
心の中で悪態をついていると、背後から呼びかけられた気がして振り向いた。
「おーいっ」
ストライプ柄の白いシャツワンピースを着た吉田だった。
あ。
その笑顔を見たとき、俺は束の間、舘野のことを忘れた。
ざわめく人混みを掻き分けるようにまっすぐに俺の元へ向かってくる吉田が、なんだかやたら
駅前にある少し風変わりなカフェで、俺と吉田は向かい合った。
タイル張りの縦長の水槽のようなプールのようなものが店内中央に配置され、小型のサメにしか見えない魚が泳いでいる。サメって飼えるのか。
店長の愛犬らしい毛むくじゃらの犬がもそもそとレジの下でうずくまっていて、会計をする客たちに撫でられるときだけ尻尾を振った。
アイスココアを頼むと、ぽってりとクリームを浮かべたそれを大柄の禿頭の店長が自ら運んできてくれた。
「最近ほら、個人情報保護法とかあるからさ。友人間でも勝手に連絡先教えるのってどうかと思ってね」
俺は、しばしその顔に見惚れた。
本当にきれいになった。眼鏡をコンタクトにしただけじゃなく、きちんと手入れして毛先を内巻きにしてある髪も、控えめな化粧も、女らしい服装も、知的な彼女によく似合っていた。
「由麻と連絡取りたいの?」
「え、あ、うん」
「なんで?」
「いや……」
「三浦くん、由麻のこと好きだったもんね」
ずばりと言われると、ますます気まずい。
「まあ……」
「大学に入ってからは、どうなの? 彼女とかいないの?」
「今は……たまたまいなくて」
嘘ではなかった。
同じクラスの女子や、サークルの先輩と、少しずつ付き合った。いずれもお互い身体目当てだったので、長続きするはずもなかった。
「そっかあ。モテるんだろうね、大学でも」
マグの
こいつ、俺のこと好きだったんだよな。眼鏡とポニーテールが印象的だった「委員長」を思いだしながら考える。
まさか、今でも。いや、そんな。
「由麻と、したの?」
「えっ」
不意に核心を突かれて、俺は焦った。
「なんかあの日、三浦くんが由麻の手を引いて電車を降りたって噂が」
こちらを見つめる穏やかな顔は、すべてを見透かしていた。
「……はは、ばれてたか」
苦笑いするしかなかった。
「まあ、ワンナイトラブってやつだよね。お互い割りきってたし。ただ、なんか連絡つかなくてさ、そのあと」
曖昧に言葉を濁してココアをすする。吉田の視線を痛いほど感じた。
どんな集まりなのか想像もつかない老若男女の集団が入店してきて、店長が手慣れた様子でがたがたとテーブルをくっつけ始める。
「……たぶん」
吉田がゆっくりと口を開いた。
「由麻は三浦くんの手には負えないよ」
そのときまた新たな客が扉を開き、夏の日差しが窓際に座る吉田にたっぷりと降り注いだ。
それは彼女を
そして、不思議な予感を覚えた。
俺、もしかしてこいつと結婚することになるんじゃないだろうか、と。
舘野由麻のことは、すぐには忘れられなかった。
何度も夢に見た。
都心の雑踏で舘野とよく似た後ろ姿を見つけ、肩をたたいて声をかけたら別人だった夢。
舘野をつかまえて押し倒し、無理やりセックスしようとしたらふっと消えてしまう夢。
いつのまにか良き恋愛相談の相手として、俺は吉田乃梨子と連絡を取り合うようになった。
あの日、吉田は結局舘野の連絡先を教えてはくれなかったが、ひとつだけ約束してくれた。
「今度由麻に会ったら、三浦くんが会いたがってたって言っておいてあげる」と。
吉田はあのクラス会をきっかけに、舘野由麻と
「でも、どうしたいかは本人に決めさせたいのよね。他人がお膳立てすることでもないと思うから。子どもじゃないんだし」
新宿南口のファーストキッチンで俺が奢ったアイスコーヒーを飲みながら、吉田は言った。
何だかんだで、こうしてふたりで会うのは4度目になっていた。前回は、話のついでに一緒に映画も観た。
外はもう冬の気配がしていて、吉田の履いているストッキングが妙に大人びて見えた。
「そこをお願いしますよ、吉田様」
俺は神頼みのポーズをとる。
会いたがっていることを吉田から伝え聞いた舘野の反応は「ふーん、そっか」と淡白なものだったという。
それでもめげずに、気が向いたら連絡してくれるよう説得してほしくて、こうして吉田を呼びだしていた。
でも、心のどこかで俺は気づき始めていた。
舘野を口実に、俺は吉田に会いたいんじゃないのか。
吉田と過ごす時間は楽しかった。
どうしたらセックスに持ち込めるかばかりに神経を割いていた他の女たちとの付き合いと違って、吉田とは純粋に話をしているだけで充実を感じた。彼女の気取らない人柄や、俺の弱さをすべて包みこむような母性にも似た包容力に、俺は少しずつ癒されていた。
法学を専攻しているが、弁護士にも検事にもなるつもりはないという吉田。世の中を広く見渡せる人間になりたいのだという。
知識も教養もある彼女の言葉は、スポーツばかだった俺をいちいち刺激した。
そのときも彼女は、アイスコーヒーを飲み干したあと、こんなことを言った。
「英語のことわざでね、"Every Jim has his Jill"って知ってる?」
「え? えぶり……?」
吉田は鞄からペンを取り出し、ペーパーナプキンに文字を書きつけた。ブルーブラックというのだろうか、青みがかったそのインクの色は深みがあってきれいだった。吉田らしい色だ、と思った。
"Every Jim has his Jill"
「それぞれのジムは彼のジルを持っている……?」
英語の苦手な俺ががちがちな直訳をすると、吉田はおかしそうに笑った。
「うん、まあつまり、すべてのジムには彼のジルがいるって意味ね」
「ああ……」
「もちろん、ジムは男で、ジルは女のことね。誰しも必ず、その人に合った伴侶がいるってわけ」
すべての男には、その女がいる。自分に合った伴侶が。
その言葉は、すとんと俺の胸に落ちた。
そっか。
俺のジルは、きっと舘野由麻じゃない。
だとすると――。
「……あんたには、あたしだと思うんだよね」
俺ははっとして吉田の顔を見た。少し怒ったような表情で横を向くその顔が、赤く染まっている。
「あんたはもう、いいかげん諦めてあたしと付き合うしかないと思う」
彼女のその言葉も、そして吉祥寺のカフェで俺に
あれから俺たちは一途に8年も付き合って、結婚するに至ったのだから。
舘野由麻と再会できたのが自分の結婚式のときだなんて、皮肉なものだ。でも、それでよかった。そのときには俺はもう、純白のドレスに身を包んだ妻しか美しいと思えなくなっていた。
「不思議だよなあ」
自然公園で遊び疲れて早々に寝入った
「何が?」
乃梨子がサルトルの小説から顔を上げる。闇の中で、読書灯が彼女の顔を艶めかせてみせる。そもそもサルトルが小説を書いていたことも俺は知らなかった。
あの舌を噛みそうな名前の作家を教えてくれた舘野の制服姿が、ちらりと蘇る。
「いや……やっぱさ、舘野のことがなければ俺ら、こうしていないのかなって」
ふふっ。
乃梨子はぱたんと文庫を閉じ、枕元に置いてこちらを見た。
「やっぱ考えちゃった? 由麻が妊娠したりしたから」
「まあね」
「あたしも」
「……おまえさ、昔俺に教えてくれた英語のことわざ覚えてる?」
「もしかして、"Every Jim has his Jill"?」
乃梨子はすらっとその言葉を口にした。
「そう、それ」
「むしろ三浦くんがそれ覚えててくれたなんてびっくり」
結婚して4年も経つのに、いまだに乃梨子は俺を名字で呼ぶ。その方が、片思い時代が報われた実感があって興奮するのだというのが彼女の弁だ。
「まさにそれだなと思って。やっぱり俺には、おまえだから」
俺は心から言った。無性にそれを伝えたい気分だった。
俺が舘野を追いかけ回そうとしていたあの頃、実は彼女は男関係がどんどん派手になっていたのだそうだ。
でも、それを聞かされたのはずいぶん後のことで、あのとき乃梨子はそれを知っていながら、俺に伝えようとしなかった。
俺に舘野のマイナスイメージを与えて早々に諦めさせることもできたはずなのに、そうしなかった彼女の聡明さを、俺は心の底から尊敬している。
「あら、嬉しいお言葉ですこと」
乃梨子は芝居がかった口調で言い、それからふっとまじめな声になって、
「でも、ほんとそういうことなのよね。由麻にはさ、あの旦那さんがぴったりだったみたいに」
そうなのだ。舘野由麻は、10年近く付き合った恋人と別れてその弟と結ばれ、その年の自分の誕生日に結婚した。何をどうすればそうなるのかわからないが、10年の男でだめだったのなら、俺なんて無理にもほどがあっただろうという話だ。
新婚旅行先のミャンマーで顔に白いおしろいを塗りつけて笑う舘野の写真を妻に見せられたとき、ああ、心から幸せなんだな、と俺は胸をつまらせて思ったのだ。
「……なあ、そっち行っていい?」
「え……」
「俺らも作らない?」
「……ふたりめ?」
「うん」
妻がもぞもぞと動き、やがて布団をすっと俺に向かって開いた。
「いいけど?」
俺は自分の布団を出て、眠る誉をそっとまたぎ、愛しい妻の布団に潜りこむ。
闇の中で、俺たちの息遣いと息子の寝息が混じり合っていった。
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