誰かの永遠[中]

 昼までは晴れていた空から落ちる雨粒が、フロントガラスを弾いていた。

 志麻しまちゃんは後部座席に取り付けられたチャイルドシートで、車内に流れる幼児向け番組の音楽に合わせて身体を動かし、歌っている。あたしはその隣りに緊張して座っていた。

 小平こだいらさんは無言でハンドルを握っている。どこか異国を思わせる香りがかすかにしている。

 じーん。

 あたしのスマホがまた震えた。先に病院に着いている父からのメールだ。着信履歴がびっしりついていたのに折り返しても出ないので、「病院へ向かいます。お母さん大丈夫?」とだけ送っておいたのだ。

 こういうとき家族間でさくさく連絡を取り合えるようLINEを導入してくれと再三言っていたのに、父はかたくなに覚えようとしない。まあ、これを機に考え直してくれるかもしれないけど。

「自損事故。捻挫か骨折か、いずれにせよ軽症。意識あり。頭を打っているので念のためCTスキャン中。安心されたし。着いたら電話せよ」

 電報のような父の文面に目を通し、あたしはほっと息を吐き出した。

「よかった。母、軽症ですって」

「え、まじすか」

 小平さんが前を向いたまま言う。その声を、しみじみ好きだと思ってしまう。

「ええ、自損事故で意識もあって、念のためCTを撮っているみたいで」

「よかった、とりあえず」

「すみません、ご迷惑おかけしちゃって……」


 安心したら、急にこの状況にどきどきし始めた。市民病院まで、あとわずかのドライブだ。

 三好先生の言葉が蘇る――もし、誰にも見られない場所でふたりきりになったとしたら? 好きって言っちゃう? 迫っちゃう?

「……小平さんって」

 告白なんて、ありえない。既婚者だ。しかも、園児の父だ。

 ただ、せめて自分が単なる娘の担任でなくひとりの女であることくらいは意識してほしい。そんな衝動があたしの口を動かした。

「好きになっちゃいけない人を好きになったこと、ありますか?」

 さりげなさを装って、志麻ちゃんの頭を撫でながら言った。心臓がばくばくしていた。

 志麻ちゃんの髪の毛は柔らかい。子どもらしく幼い声で歌っていても、妙に雰囲気のある子だなと思う。その母親の姿が重なる。あたしの好きな人に、愛されている女性。

「――ありますよ」

 ワンテンポ遅れて、小平さんが言った。こちらを見ないので、その表情はわからない。

「ほんとですか」

 自分の声がつやっぽくなるのを感じる。あたしは今、小平さんと恋バナをしているのだ。

「あたし今、結構辛い片想いしてて。相手には、相手がいて……こんなときに話すのもおかしいですけど……、突然ごめんなさ」

「覚悟はあるんですか?」

 文尾にかぶせるように、小平さんが言った。

「えっ」

 車が赤信号で停車する。雨音と、それを拭うワイパーの音が、曲と曲の切れ目に耳に届いた。

「ぼろぼろに傷つく覚悟。相手と永遠につながってるかもしれない誰かとの間に踏みこむ覚悟。自分こそが運命の相手だと信じ続ける覚悟」

 小平さんは一気に言葉を重ねた。あたしは意表を突かれて黙りこむ。

「もしそこまでの覚悟がないんだったら、やめた方がいいです」

「……」

 微妙な空気を察したのか、志麻ちゃんが歌うのをやめた。この雰囲気にそぐわないハイテンションな音楽が車内に響き渡る。

「あ、すみませんなんか、上から目線になっちゃった」

 小平さんが低く笑って、空気がほぐれた。

「あ、いえいえ……なんか急に変なこと言っちゃって、あたしも」

「いや俺、好きな人諦めようとして、ネパールで坊主になったことあるから」

 んえっ!? というような変な声が喉の奥から出た。

「ネパールですか!?」

「はい、もう昔の話ですけど。あ、今置いてるチャンダン香、そのときネパールで買ってきたやつです」

「ああ……」

 このほのかな香りのもとは、それだったのか。

 それで、その片想いはどうなったんですか。そうたずねようとしたとき、車が市民病院の正面入口前に横付けになった。

「雨、大丈夫ですか」

 小平さんが気遣ってくれる。

「あ、大丈夫です、走っていくので」

「帰りは平気ですか? もしあれなら待ってますけど……」

「あ、父も車で来てるはずなんで帰りは大丈夫です。ほんとにありがとうございました、志麻ちゃんまたね」

 一方的に早口で言い、志麻ちゃんのつやつやのほっぺに軽く触れ、ドアを開けて雨の中に飛びだした。

 小平さんの顔が、見れなかった。


 父のメールの通り、母は軽症だった。

 足を捻挫してはいるものの、CTの検査結果も異常がなく、本人もいたって元気だ。なんなら今日、自宅に帰れるという。

「ぼーっと自転車漕いでたら、漫画みたいに電柱に激突しちゃって。ばっかみたいよねえ」

 数年後に還暦を控えた母は、からからと笑った。膝から力が抜ける。ただ、ギプスで固定された左足と、頬に大きく貼られたガーゼが痛々しかった。

「何やってるのよ、心配したんだから」

「派手に弾き飛ばされちゃったもんだから、近くにいた人が救急車呼んでくれちゃって」

 母の目線の先に、ひょろりと背の高い男性がいた。処置室の入口に、所在なさげに立っている。

「あの人が救急車呼んでくれて、一緒に乗ってきてくれたんだって。心配して待っててくれてんの。後で菓子折りでも送るからおまえ、ちょっと連絡先訊いてこい」

 家では偉そうなのに外では人見知りな父が、あたしに軽く身体をぶつけながらぼそぼそ言った。

 仕方なく、あたしはその人に歩み寄る。

「あの、宇野の娘です。このたびは母がお世話になりまして」

 深々と頭を下げ、顔を上げると、その人はあたしよりさらに深いお辞儀をしていた。

「こちらこそ、勝手なことして……」

 ようやく顔を上げる。彼の黒縁眼鏡の奥の、切れ長の目と目が合った。

 何かがあたしの胸をちくりと刺した。

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