Every Jim has his Jill[前]
きゃあああ! と妻が玄関で大声を上げるので、息子を着替えさせていた俺は何事かと動きを止めた。
「なんだよ、どうした」
駆け寄ると、彼女が手にしていたのは一枚の葉書だった。
「
……そうか。
俺は一瞬、硬直する。
「ラブラブだったからな〜、旅行も好きだしもっともっとふたりだけで過ごしたかったろうけどね、でも嬉しいだろうね! いやーんっ」
なにが「いやーん」だよ、と思いつつ、さりげなく葉書を奪いとる。
表面には、嘘みたいに青い空と透明の海をバックに満面の笑みで笑うひと組のカップルの写真。夏休みにフィジーに行くと聞いていたから、そのときのだろう。
差し出し人名義は「
「残暑見舞いですらなくなってごめん!
高校時代、生徒会長を務めていた妻の
どうせまたすぐ直接会うだろうにといくらか呆れつつ、女子同士のそんなやりとりに和む自分がいた。もう秋口なのに今年は来ないなとひそかに気にかけてもいた。
たたたた、と誉がおむつ姿のまま走ってきた。
「ああ、ほっくん、ごめんごめん。そっか、お着替え途中だったよね。ああそれにしても由麻がママかー」
乃梨子はまだ興奮冷めやらぬ様子で、息子を抱き抱えながらリビングへ戻ってゆく。
俺は葉書の写真をもう一度見つめた。
背の高い男に寄りかかるようにして立ち、海をバックに親指を突き出している舘野由麻。
――昔、好きだった女。
「ねー、離乳食のあれ、どこだったっけ? レンジでお粥作るやつー」
誉を着替えさせた乃梨子が、キッチンで何やらもぞもぞやりだした。
「え、食器棚の下にないならないっしょ。てか、何やってんの」
「由麻にあげようと思って。他にもいろいろ。あ、あれかな、産まれる頃にはエルゴもサイズアウトしてるよね」
「今じゃなくたっていいだろ」
今日は土曜日で、厳しい残暑も薄らいできたので、家族で自然公園に出かけるところだったのだ。
テンションの高い妻に呆れる一方で、そういう世話焼きなところが好きなんだよな、と和んだりもする。
優等生で、感動屋で、世話焼きな乃梨子。
彼女が俺の妻になった経緯にもまた、舘野由麻が絡んでいるのだ。
高3の2学期、俺と舘野由麻は隣りの席になった。
かわいいけれど目立つタイプではなく、どことなく垢抜けているけれど何か独特の雰囲気のある女子だった。
第一に、俺に媚びない。サッカー部の主将を務めていた俺にきゃあきゃあ言わない女子は少数派だった。
第二に、やたら本を読んでいる。基本的には仲のいいグループの女子たちとにこやかに会話していることが多かったけれど、ひとりで読書に没頭している方がなんだか楽しそうに見えた。
根暗なのかと思えば体育の授業でも意外といきいき動いているし、飛び抜けて英語ができるわりに理数科目では苦戦しているようだった。
よくわからないやつだ。そんなふうに気にし始めたときには、既に好きになっていたのかもしれない。
「なあ、舘野ってさあ」
ある日の昼休み、屋上で弁当を食いながら、俺はサッカー部の仲間でもあった加藤にさりげなく話しかけた。
「地味なのか明るいのか、よくわかんねえよな」
「え、舘野?」
「うん。舘野由麻」
「ああ、普通にかわいいよね」
クラスで最も目立つ女子と付き合っていた加藤は、わりとあっさり言った。
「なに三浦、気になるの? 席隣りだもんね」
「や、気になるっつーか、よくわかんないやつだと思って」
「舘野かあ、あいつ彼氏いるっぽいよ」
「え」
予想外の情報に、思わず大きな声が出た。
「あいつ、写真部の副部長じゃん。部長の男と付き合ってるって噂。何だっけな、名前」
まじか。
自分でも戸惑うほどにダメージを受けているのを自覚した。あいつの良さがわかるのは俺だけだと思っていたのに。
「だから舘野はもう、処女じゃないはずだよ」
加藤は
「……」
瞬間、舘野由麻が男に抱かれている姿を想像してしまい、俺はおにぎりを咀嚼しながら内心で小さなパニックを起こしたのだった。
処女じゃないらしい。
そんな情報を得てあらためて舘野由麻を観察するとたしかになんだか色っぽく見えてくるから、男ってやつは単純だ。表情や仕草が他の女子と違ってエレガントだし、すんなり伸びた腕や脚も、くびれた腰や意外にありそうな胸も大人っぽい。
彼氏がいると知っても、俺はひるまなかった。
中3のときに童貞を捨てて以来いろんな女と関わって、女のあしらいには自信があった。
サッカー部でも評価され、県大会まで進んで有終の美を飾り、引退した。どれほど黄色い声を浴びまくり、次から次へと告白されまくってきたことか。
俺に惚れない女はいないのだ。
「なあ、なに読んでんの?」
休み時間のチャイムが鳴るなり鞄から文庫本を取り出して読み始めた舘野に、俺は声をかけた。
舘野はこちらをちらりと見て、
「ソラリス」
と愛想なく言い、視線をページに戻した。
ソラリス、というのが作家名なのか作品名なのかわからず俺はうろたえた。
俺の視線を感じたのか、舘野はもう一度顔を上げ
「レムの『ソラリス』だよ」
といくらか笑顔を浮かべて言った。澄んだ声だな、と思った。
「レム? それが作者名?」
「うん。スタニスワフ・レム」
「すたにすらふ……?」
舌を噛みそうな単語に俺が顔をしかめると、舘野はくすりと笑って読書に戻った。肩より長いまっすぐな髪が、カーテンからの日差しを受けてきらめく。
どうやら俺は自分の無知を晒してしまっただけらしい。
しかし、彼女がくすりと笑ったその瞬間に、俺は完全に心を奪われたのを自覚したのだった。
俺はちょくちょく舘野にちょっかいを出すようになった。
「なあなあ、映画行かね? それとも彼氏に怒られる?」
彼氏がいるのは知っていますよ、その上で誘っていますよ、というスタンスだ。
わかりやすく好意を示してやっているのに、まったく手応えがない。むしろだんだん心に鍵がかかってゆくように見えて、俺は焦った。
「なあ、今日って部活? 一緒に帰らね? それともデート?」
放課後の教室掃除中、めげずに話しかけていたときだった。
「あー、三浦くん、また由麻にちょっかい出してるー」
生徒会長であり、我がクラスの委員長も務めていた吉田乃梨子がモップ片手に間に入ってきた。
クラスの女子全員を下の名前で呼び捨てにする気さくなキャラクターで、その成績とリーダーシップには誰もが一目置いていた。
その吉田が俺のことを好きだというのは、1学期に少しだけ付き合った他のクラスの女子がもたらした情報だった。直接好きだと言われたわけではないので何のリアクションもしていないが、心のどこかで誇らしさを覚えてはいた。
「由麻、迷惑だったらはっきり迷惑って言えばいいんだよ」
うるさい、邪魔するな。そう言いたかったが、吉田が入ってこようがくるまいが、舘野が俺になびかないのは一目瞭然だった。
「あはは、ありがとう。一応、部活なんだ。よしのもありがとう」
よしの。吉田乃梨子はフルネームを縮めてそんなふうに呼ばれていた。
「一応って何だよ」
一応とか言って、部活に顔を出すだけだして、例の部長の男といちゃつくんじゃないだろうな。写真部には暗室もあるし。
余計な妄想は自分の首を絞めた。俺は嫉妬にとらわれながら過ごすはめになった。
まさか卒業後に自分が舘野と一度限りの夜を過ごし、それをきっかけに吉田と結婚することになろうとは、そのときの俺は夢にも思わなかったんだ。
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