ファム・ファタル[後]

 その夜、Twitterを開いた。

「大☆大☆大ニュース! Kくんが、なんとっ! 彼女と別れましたあああっ(°∀°)」

 彼の別れを聞いてすぐにつぶやいたこのツイートには、いまだにリプライが増え続けている。

「うっそおおお! おめでとうあさみん! キミの時代だ!!」

「やったー\(^-^)/これでKくんはあさみんのもの♡」

「信じられない信じられない!! あさみんさんの幸せをずっと願ってました。嬉しすぎてちょっと泣いちゃいました」

 Twitterでは、あたしは人気者だ。リアルの友達がいないなんて、誰が信じようか。

 非公開設定にしてからもフォローリクエストが絶えることはなく、今現在10,419人のフォロワーがいる。

 新規のリプライにひとつひとつ返信をしてから、あたしは新たなツイートを投下した。

「最新ニュースっ♡ 何気に社会派あさみん、ずーっと気になっていたハイチのボランティアへ行くことにしました。……なんと! Kくんも一緒ですっっ! (>_<)」

 いつものごとく、リアルタイムにリプライがつき始める。

 スマホの画面上部からバナーの形で現れては消える通知を見ていて、どきりとした。

「くだらね。ボランティアはエッチしに行くのが目的じゃねーだろ、このメンヘラ」

 アンチだ。怒りを感じる前に、あたしは脊髄反射でブロックする。


 メンヘラ。

 その言葉は、Twitterに鍵をかける前から、ときどき投げつけられていた言葉だ。

 意味はよく知らないけれど、泣いたり不幸をアピールしたりして相手の気を引く女性をそのように呼ぶらしい。

 メンヘラかな、あたしは。彼に泣いてすがった数々のシーンを思いだす。

 冷蔵庫からきんきんに冷えたペリエのレモンを取りだして、口をつけて一気飲みすると、だいぶ気分が回復した。

 どんな手を使ったにしろ、とにかく彼は彼女と別れて、あたしのものになりつつあるのだ。

 10年近く付き合って、結婚の約束もしていたかわいい彼女がいたのに、浮気のひとつもしたことのないまじめな男だったのに、たった一夜であたしに落ちた。

 それが揺るぎない事実。

 ファム・ファタル。

 身の破滅を招いてでも愛したい女――たしか、そんな意味。

 あたしは、彼の運命の女。

 この思いつきは、気持ちが沈みそうになるたびにあたしを引き上げ続けてくれることになった。

 もう、彼を離さない。

 誰が何と言おうと。


「カドワキさーんっ」

 りあむくんがぶんぶんと手を振っている。あたしはホールの隅へ駆けてゆく。

 りあむくんは、感覚過敏の小4の男の子だ。人と手をつなぐのがとても苦手で、だけどなぜかあたしとだけはつないでくれる。

「りあむくん、今日のお洋服素敵だね」

「うん!」

 お気に入りのレゴブロックを組み立てながら、新しい青いトレーナーを着たりあむくんは返事をする。笑うと、送迎のときたまに会う彼のお父さんにそっくりになる。

 身につけるものにも強いこだわりを持つりあむくんは、ワードローブがとても少ない。

 着られる服が一着増えただけで、お母さんはだいぶ楽になるはずだ。

「カドワキさん、やめちゃうってほんと?」

 アスペルガー症候群と言われている美夕みゆちゃんが、背後から突然話しかけてきた。え、とりあむくんが手を止めてあたしを見る。

「え、えっと……」

 あたしは困惑する。今月いっぱいで退社することは、子どもたちにはぎりぎりまで伏せておくようボスに言われていたし、他のスタッフももちろんそのつもりのはずだ。どこから漏れたんだろう。

「まだいるから大丈夫だよ」

 主婦パートの福田さんが横からフォローしてくれた。

「まだ!? まだって、いつまで?」

 美夕ちゃんは、食い下がる。大人のこういう曖昧な表現に、美夕ちゃんは絶対に容赦がない。

 りあむくんが泣きそうな目をしていることに気づいて、胸が痛んだ。

「ほんとにねえ、門脇さんがいなくなったら、りあむくん誰と手をつないだらいいのかねえ」

 福田さんが、嘆息しながらささやくように言った。


 腸閉塞になったときに懲りて購入したキャリーケースに、ザッシュを押しこんだ。

 最初は少しだけ抵抗する様子を見せたけど、おとなしく入ってくれた。

 ザッシュはやっぱり、扱いやすくていい子だ。

「大丈夫だからね」

 蓋を閉める前に、ザッシュの湿った鼻先にキスをした。

 3月の終わり、バスと私鉄とJRを乗り継いで、彼の実家のある幕張へ向かった。

 持病のある愛犬――と言っても一時預かりだけど――とふたり暮らしを始めてから、こんな遠出をするのは初めてのことだった。

 彼が駅まで迎えに来てくれて、一緒にタクシーに乗りこむ。

「犬くさくてすみませーん」

 運転手さんに笑いかけてみたけど、無視された。動物が嫌いなのかもしれない。

 彼の実家を訪ねるなんて、婚約者みたいだ。しかも、来月から2ヶ月もザッシュを預かってくれるという。

 その興奮を抱えながら、車窓を眺める彼の様子を確認する。

「荷造り、進んでる?」

「だいたいはね」

 実家暮らしで、彼は少しだけ太ったようだ。筋力作りをしていると言っていただけあって、肩幅や二の腕が前より硬くふくらんでいる。

 抱かれたい。

 いつものことながら、そう思った。

 まだ彼女ロスなのだろうか。さすがにそろそろ、気持ちを切り替えてもらわないと。

「いらっしゃい」

 彼の両親は初老にしては若々しくて、あたしをあたたかく迎え入れてくれた。

「お邪魔します。門脇亜紗美あさみです」

「あさみさんね、よろしくね」

 お母さんの笑顔に、少しだけかげりが見えた。そりゃそうだ、長男の婚約者がなぜか次男とくっついて、長男がこんな年上の女を連れて来たら。

「おお、そっちがザッシュくん」

 お父さんの方が動物が好きそうだ。

「雑種だからザッシュなのよね」

「単純だよな」

 彼が困ったような笑顔で言った。

 居間に上がりこんで、お茶をいただいた。手土産のバウムクーヘンを渡すと、お母さんが切り分けて出してくれた。

 大きな一戸建ての家だ。掃除が行き届いていて、生活感丸出しのあたしの部屋とは大違いだ。かずくんの、生まれ育った家。

 部屋の隅に、既にザッシュのためのコーナーが作られていて、あたしは感動した。ザッシュはさっそくそこでくつろぎ、犬ガムを噛んでいる。

 ああ、本当にあたし、お嫁さんみたい。

 舞い上がりそうになりながらも、あたしはザッシュを預かってもらう上での注意事項をあらためて話す。

 腎臓に持病があるため、専用の餌以外食べさせられないこと。右耳が聞こえないので、呼ぶときは左から。散歩は1日1回、早朝に。そのときうんちが出なかったら、便秘。

「大丈夫ですよ」

 ふたりとも心得顔こころえがおで、あたしは泣きたいくらい安心する。

 買い溜めしておいた分の缶詰をありったけ手渡した。不足分は、夫妻が立て替えてくれるという。

「すみません、本当にいろいろとお世話になって」

 頭を下げると、お母さんが笑って言った。

「いえいえ、こちらこそ和佐かずさをよろしくお願いします。ハイチなんていろいろ不安だから、ねえ」

「あのハリケーンの被害の、あれなんでしょ? いまだに、復興してないんでしょ?」

 お父さんがバウムクーヘンにフォークを刺しながら言う。どちらかと言うとかずくんがお母さん似で、真先まさきくんがややお父さん寄りかな、と思う。

「そうです、それを手伝いに行くんです」

「すごいよなあ、普通なかなか行こうって気にはならないよな」

「ほんとよね」

 ご両親との話が盛り上がる中、彼はうつむいてテーブルの端っこを指先でかりかり引っかいていた。

「……えっと、それで、おふたりが……お付き合いしてるんだっけ?」

 お父さんが突然本題に斬りこんだ。

 そうです! と叫びたいのをこらえて、あたしは彼の表情を見る。

「……帰国したら、たぶん、ちゃんと」

 彼は他人事のように言った。

「たぶんってことないだろう」

 お父さんが少しとがめるような口調で言った。お母さんははらはら見守っている。

「ごめん」

 あたしにかお父さんにか、誰に向けたのか明確でない謝罪を、彼は口にした。言葉がふわりと宙に浮く。

 その虚ろな表情を見て、あたしは、気づいてしまった。

 彼の心には、ずっと彼女がいる。

 あたしは、たしかに彼の運命を狂わせた。

 だけど――あたしはファム・ファタルなんかじゃ、ない。

 そして、自分はそれをとっくにわかっていた気がした。


 あのときの彼の顔と投げやりな「ごめん」を思いだすたび、涙がこぼれそうになる。

 ハイチへの出発まで本当にあとわずかな日数しかないのに、気持ちが上向かない。

 カラー剤がぺたぺたと地肌に触れて、ひんやりする。

 閉店後の美容院で、あたしは出国前の最後のカラーモデルを務めていた。数年前、新宿駅前でキャッチされて以来の付き合いだ。

「あと3分……2分で流しまーす」

 美容師見習いの大久保おおくぼくんが声をかけてくる。

 また泣きそうになっていたあたしは、慌ててはあい、と明るめの声を上げた。

 カラー剤の放置時間が終わり、シャンプー台に案内される。勝手知ったる美容院なので、あたしはすたすた歩いて椅子に横たわる。

「失礼しまーす」

 大久保くんはあたしの顔にふわりとガーゼをかけた。

 もうお客はいないのに、大久保くんはあたしのためだけにBGMをかけてくれている。その音が、シャワーの水音で遠去かる。

 いつもながらの、絶妙な温度と勢い。シャンプーの、ハーブの香り。とても心地よい。

 今回は、思いきって金髪にした。

 どうせ明日が最終出勤日なのだ。気分転換と、ボスへのちょっとした意趣返しの意味もあった。

「おかゆいところはございますかー」

「ございませーん」

 いつもの意味のない定番の台詞を交わし、くすくすと笑う。

 大久保くんはあたしよりやや背が低いけど、とてもたくましい手をしている。

 その指先で力強く頭皮を揉まれ、うなじや耳の裏に残るシャンプーの泡をぬぐわれると、なんだか気持ち良くていけない気分になってしまいそうだ。

「大久保くんさ、もうさ、充分プロで通用すると思うよ」

 丹念にあたしの頭をゆすぐ大久保くんに、あたしはガーゼの下から声をかけた。

「あたし、毎回すっごく気持ちいいし、仕上がりも満足だもん。もう見習いの域じゃないでしょ」

 大久保くんは、しばらく黙っていた。水の音だけがシャワーブースに響く。

「……門脇さん、本当に行っちゃうんすか」

「えっ、行っちゃうって言っても、2ヶ月だよ」

「寂しいっす」

 寂しい。そんな言葉をかけられるのは人生で初めてであることに、あたしは軽い衝撃とともに気がついた。

 長年スタッフを務めたボランティア団体を辞めるときでさえ、「お元気で」しか言われなかった気がする。

 りあむくんの泣きそうな顔が、不意にちらついた。

 どきどきしながら言葉を探していると、大久保くんはさらに

「戻ってきたら、映画とか行きませんか、よかったら」

と言った。

 ガーゼのせいで、その顔は見えない。

 だけど、自分の胸にじわりとあかりがともるのを、あたしはたしかに感じていた。

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