ファム・ファタル[前]

 あたしは彼の、ファム・ファタル。

 そう信じるだけで、生きていける気がする。


 長期海外ボランティアへ行きたいので、会社を辞めます。

 そう告げると、案の定ボスは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 そのまま腕組みをして黙りこんでいるので、

「もしくは、2ヶ月だけお休みってわけにいかないですよね?」

と明るく訊いてみた。

「無理に決まってるだろ」

 一蹴いっしゅうされた。

 わかっていた。児童発達支援管理責任者、いわゆる児発管じはつかんは、施設ごとに児童の数に対する配置の数が定められていて、欠員を放置することなど許されない。

 骨身を削ってやってきたつもりだけど、結局あたしの代わりなんていくらでもいるわけだ。

 どこへ? とも、いつから? とも、ボスは訊いてくれなかった。

 気まずさをたっぷり残したまま、あたしは日報を書き始めた。


 あたしの務める放課後デイサービスセンターは、ざっくり言えば、身体障害や発達障害を持つ子どもたちのための学童のような施設だ。

 未就学の子たちは午前中で帰り、小学生以上の子は放課後を過ごして17時には送迎車に乗りこむ。夏休みや冬休みには終日いるから、スタッフが足りなくていつもばたばたになる。

 子どもたちは、ダウン症の子、自閉症スペクトラムと呼ばれる子など様々で、ひとりひとり個性や特性が異なる。

 あたしも人間なので、みんなかわいいとは思わない。いらいらすることはしょっちゅうだし、ぶん殴りたいときだってある。

 感情移入はせずに、仕事だとドライに割り切るのが毎日を乗りきるコツだ。

 でも、長い時間を一緒に過ごすことで、やっぱり愛着は湧いてくる。あたしを特別慕ってくれる子もいる。

 いつも、とりとめもない話を延々聞かせてくれる子。外へ遊びに出るとき、絶対にあたしじゃないと手をつながない子。

 あたしが髪をピンクに染めたとき、その色を異常に気に入ってくれた子たちのおかげで、ボスが黒染めの命令を1ヶ月間猶予するに至ったこともあった。

 あの子たちと離れることを思うと辛いけど、とんでもない幸運をものにするにはどうしても、代償が必要なんだろうな。


 それは、あたしの34歳の誕生日から2日後のことだった。

「やっぱり俺、ハイチ行こうと思って」

 夜にかかってきた電話で彼、小平こだいら和佐かずさにそう言われたときの胸の高鳴りを、あたしは一生忘れないと思う。

 それは、俺も児発管を目指すことにしたよ、と言われた瞬間を凌駕する喜びだった。

 そして、彼は世にも悲しげな声でこう続けたのだ。

「彼女と別れたから。同棲も解消するんだ」

 驚いた。

 あんなに、あんなに、あたしとの激しい奪い合いを繰り広げて――まあ、こちらは終始劣勢ではあったけど――、婚約までしておいて、最終的に彼女は自分から去っていったのだと言う。

「え、え、じゃあさ」

 ごくりと生唾を飲みくだす音が、彼に聞こえたのではないかと思った。

「……あたしと、ちゃんと付き合って?」

 経緯も聞かず、勢いで言ってしまった。でも、もう何の障害もないのなら構わないはずだ。

 彼は、しばし黙った。

「ってか、あたしと住めばいいじゃない。かずくん、あたしのこと…す、嫌いじゃないでしょ?」

 焦るあまり、畳みかけてしまった。

「……ハイチから戻ってきてからでもいい?」

 彼は穏やかな、低い、そしてとても悲しげな声で言った。あたしの大好きな声。

「まだ、頭の整理がついてないんだ。アサミのことはめっちゃ大切だけど、中途半端な気持ちじゃ逆に失礼でしょ」

 彼らしい潔癖さによる台詞だけど、今更失礼もくそもない。

「中途半端でもいいよ!」

 叫ぶように言った。

 あたしの膝でまどろんでいた愛犬のザッシュが、ぴくりと耳を持ち上げた。

「あたし、やっぱりかずくんのこと好きだもん。友達なんてやっぱり全然無理だったもん。ハイチに行ったらどうせもっともっと好きになるだけだもんっ」

「……アサミ」

 いさめるような、でもどこかに愛しさがこめられているような声で、彼はあたしの名を呼んだ。

 それだけで、身体の奥が反応する。

 一度だけ交わったあの夜のことを、頭より先に身体が思いだす。

 あたしに寝込みを襲われて驚いて、でも理性に打ち勝てず快感に顔を歪めて、おそるおそるあたしのおっぱいに手を伸ばして、つかんで、最後はちゃんと彼が上になってフィニッシュしたこと――ああ。

「ごめん。俺まだ、さすがに完全には……由麻ゆまのこと……さ」

「は!? 別れたんでしょ? もう一生会わないんでしょ? そんなの死んだ人と同じじゃないの」

 嫉妬に胸を焦がしながら、ほとんど泣き声であたしは訴えた。


 さくら さくら

 いつまで待っても来ぬひとと

 死んだひととは同じこと


 ああ、なんだか演歌の歌詞みたいな台詞だと思ったら、「夜桜お七」か。

「いや、また会う機会はあるんだ」

「どうしてよっ」

「……由麻、真先まさきと付き合うことになったから。たぶん結婚することになると思う」

 あたしは絶句した。

 真先くんというのは、彼の弟だ。一度、この部屋にもみんなで遊びに来たことがある。年末にたこ焼きパーティーを開催したときだ。

 あたしより4歳下の彼よりさらに4歳下で、顔立ちも背格好も彼と似ているけれど、甘辛バランスで言うと彼よりも辛味が強めで、意志の強そうな瞳をしていた。

 若いのにオーラのある子だな、というのが第一印象だった。

 部屋の狭さをカバーするために庭に出したテントに、同じく当日参加していたあたしと同じくらい背の高い女の子と一緒に入っていったのを覚えている。

 何をどうしたら、あの弟と彼女がくっつくのだろう。わけがわからない。

「……いつのまに?」

「ほんと、いつのまに、だよな」

 彼はせつなそうに笑って、

「とにかく、ハイチは行くからさ。生まれ変わりたいんだ、俺」

と、つくろったような明るさで言った。


 長期の海外ボランティアは、若い頃に行ったフィリピンの貧困ボランティア以来だった。

 今回は、ハイチ。

 あたしがスポンサーとなって毎月支援金を送っているチャイルド、デニスという小さな男の子の暮らす国だ。

 デニスに会いに行くわけではないけど、どこかですれ違える可能性はゼロではないわけだし、何より彼の住む国を知ることでより深い絆が生まれる気がした。わくわくした。

 かずくんの気が変わらないうちに、あたしは数あるNGO団体のひとつに登録し、4月から始まるボランティアプログラムの参加申し込みをした。

 それから、引越し準備で忙しい彼――ハイチへの出発まで実家に帰って過ごすという。うちに住めばいいのに――を何とかうちの近くのドッグカフェに呼び出して、スマホで彼自身が事前登録を完了するまでを見守った。

「……なんか、緊張するな」

 彼に最後に会ったのは2月の第2土曜日、嵐の日にずぶ濡れで駆けつけてくれたとき以来だ。

 あのときは、キュンとしたな。

 本当に、彼が、彼だけが、世界で唯一あたしを気にかけてくれる。守ってくれる。

 絶対に離れない。あたしは胸の奥で決意を新たにする。

「これから、忙しくなるね。説明会は一緒に行こうね」

「そうだね」

 彼はアイスミルクティーをひと口すすった。こんなもの飲む人だったっけ、と思う。何かが引っかかるけど、言葉にできない。

「書類もいろいろ必要だし、わからなかったら教えるから。それと、予防接種」

「ああ、予防接種か」

 やる気はある、生まれ変わりたい、そう言う割に彼の様子はどこか投げやりに見えた。

 胸が、ちくちくする。彼女との10年近い日々を清算中なのだから、そりゃあ疲れているんだろうけど。

「あとは、ザッシュをどうするかだなー」

 犬用のおもちゃをひたすら噛んでいるザッシュを眺めながら、あたしはつぶやいた。

 あたしには、身寄りはいない。ただのひとりもいない。

 友達もいないし、同僚にだってもちろん頼めない。近所付き合いだって皆無だ。

 ペットホテルに2ヶ月も預けたら、いったいいくらかかるんだろう。

「あ、それなんだけどさ」

 彼は急に顔を上げて言った。

「よかったら、実家に頼んでみるよ。結構動物好きなんだよね、うちの親」

 え!?

 あたしの胸は、再びときめいた。

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