旅とハンカチ

 夫は「履く履く詐欺」だ。

 居間の隅にそろえて脱いである靴下を「また履くから」と言って放置しておくのだが、また手に取って履くところなどついぞ見たことがない。

 だから私は今日もそれを拾い上げ、ランドリーネットに入れて洗濯にかける。最近、父親と自分の服を一緒に洗うなと娘が生意気を言いだしたので、洗濯は数回に分けて行わなければならない。

 洗濯機の蓋を閉める音に、溜息が飲みこまれた。


 この春、5年ぶりに専業主婦に戻った。

 子どもたちが高1・中1・小1に進学した。それぞれ、息子・娘・息子だ。

 次男が2歳になる歳から保育園に預けてワーキングマザーをやっていたけれど、小学校に上がったのでほっと一息つける。

 普通とは逆かもしれない。子どもの手がかからなくなってから社会復帰する母親の方が多いだろう。

 けれど、私は嫌だった。いちばん手のかかる時期の子どもと家の中でみっちり向き合って過ごすなんて、上の子たちのときで懲りていた。

 ましてや次男は多動気味で、プロの保育士の手も借りずに育てるなど無理ゲーに等しかった。

 給料も出ない、定時もない、評価もされない、主婦という名の無償労働。それは、家政婦よりもステイタスが低いのではないだろうか。

 とは言え正社員としてがっつり社会に埋もれる覚悟もなかったので、派遣会社に登録し、いくつかの企業で事務職に就いた。

 収入は家計と娘のピアノの月謝の足しにしつつ、夫に知らせていない自分専用の口座に貯蓄を増やしていった。


 最後の就業先となった外資系企業は居心地が良くて、満期まで勤め上げてしまった。経理事務の仕事だった。

 月々の繁忙期に休みを取りづらい点と、同じエリアに机を並べる総務課の社員たちの噂好きには閉口したけれど、専門学校で学んだ経理の知識が生かせることや、派遣元の同じ仲間と一緒に過ごすお昼の時間は気に入っていた。

 派遣仲間。

 まだ20代の長谷川さんは、昔モデルをやっていたというだけあって、顔もスタイルも日本人離れしていた。

 若者らしく恋と美容の話が好きで、効果的なダイエットの知識を惜しみなく披露してくれるのはありがたかった。そのおかげもあって、私はこの1年で9kgの減量に成功していた。

 そして去年ちょうど30歳になった舘野たてのさんは、この春から異例の早さで正社員になった。

 長谷川さんと違ってあまり自分のプライベートをぺらぺら喋るタイプではなかったのでつい先日まで知らなかったのだけど、10年近く付き合って同棲もしていた彼氏に実はもうひとり彼女ができ、なんだかんだの末になぜか彼氏の弟と恋に落ちたという。

 しかもその弟というのが、長谷川さんがアプローチしていた相手なのだから驚きだ。

 自己主張の強くない舘野さんが、目立つ上にはっきりしている長谷川さんの意中の人を射止めるとは。舘野さんもきれいな子だけれど、その逆の方が私にはしっくりくるのだった。

 けれどたしかに、新たな恋が始まってから舘野さんは雰囲気が変わった。バレンタインデーに気持ちが通じ合ったという話だが、その頃からそれまで彼女を包んでいた水の膜のようなものが取り払われて、幸せと自己肯定感がにじみ出てきた気がする。

 昨日交わした3人でのLINEのグループトークでもそうだ。

 最近彼氏ができたらしい長谷川さんが、GWに初めて北海道でお泊りデートをしたらしく、その様子を赤裸々に報告してきた。すると舘野さんも

「長谷川さん、幸せそうで何よりです! わたしも彼とモルディブに行ってきました」

というメッセージに添えて、数枚の写真を送ってきた。

 水着姿で、浜辺でふたりで飛び上がっている瞬間の写真。頭に花飾りをつけ、南国模様のワンピースを着て、プールサイドで微笑む写真。そこに写る舘野さんは、びっくりするほどきれいだった。

 以前の彼女なら、こんなプライベートな写真を送ってくることなどなかったはずだ。よほど幸せなのだろう。そしてその若い恋人は「イケメン!」と長谷川さんが騒いでいただけあって、本当に端正な顔つきだった。

 いいな、いいな、ふたりとも。LINEを閉じて、私は深い溜息をついた。

 恋とは、どんなものであっただろうか。その手触りが、もう思い出せない。

 夫の重光しげみつとは20代の半ばに結婚して、すぐに長男が産まれた。そこからはもう、怒涛どとうの育児の日々だ。

 気づけばぶくぶく太ってしまった自分も悪いが、私が痩せようと美容院へ行こうとちっとも変化に気づいてくれない夫もどうかと思う。まったく張り合いがない。

 夫は穏やかで優しい人だ。でも、私が専業主婦になってからというもの、それまで分担してくれていた家事を少しずつ手放していることにも、じわじわ腹が立つ。

 私は私の時間を取り戻すために仕事を辞めたのだ。家族のためではなく、私のために。


 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴った。インターホンのボタンを押すと、若い宅配便業者の顔が映し出された。

「湘南急便でーす、お荷物お届けに上がりましたー」

 ああそうだ。先週発注したダイエットグッズが届く頃だった。

 はあい、と返事をしつつもシャチハタを探すのに手間取り、チャイムから1分近く経ってドアを開けた。

丹波たんば様でお間違いないですね。こちらに受領印お願いします」

 ドアに体を挟みこむようにして立ちながら、若い配達員は少し鼻にかかった声で滑らかに言った。

「タンバ……?」

「え? 違いましたか?」

丹羽にわですけど、うち」

 束の間の沈黙ののち、配達員は自分の勘違いに気づき、私も意味を理解した。

「あ、ああ、失礼しました。漢字を読み違えておりまして」

 かわいそうなくらい申し訳なさそうな声を出す。あらためて彼の顔を見た。まだ幼さの残る顔立ちの中に、しっかり社会に揉まれた大人の風格があった。

「いえいえ、大丈夫ですので……」

 なんだかどぎまぎして、私は口の中でもごもご言いながら伝票に捺印した。部屋着にノーメイクで対応してしまった自分に羞恥しゅうちを覚えた。

 配達担当者の欄には、「相馬」とサインされていた。


 その翌週、前回と同じ通販サイトからダイエットグッズを買った。

 減量は良い感じに推移して、久しぶりに50kg代に返り咲いたところだった。勢いがついて、口コミで評価の高い補正ガードルとサプリメントを試すことにしたのだ。

 配達スケジュールを確認し、そろそろかという頃、チャイムが鳴った。

「湘南急便でございますー」

 前回と同じ配達員の顔が映しだされる。やりすぎない程度の薄化粧をして出迎えた。

「お疲れ様です」

 シャチハタを手にドアを開けると、相馬さん(たぶん)はなぜか少し切羽詰まったような顔をしていた。

「えー……丹羽様」

 名前、ちゃんと覚えてくれたんだ。少し嬉しくなって、前回よりは余裕で笑みを作り、彼の顔を見る。

「大変恐縮なんですけれども……非常識なお願いでございますけれども……」

「はい……?」

 宅配便業者から捺印以外で何か「お願い」されることなど、初めてだ。

「御手洗いをですね……貸していただけませんでしょうか……?」

 相馬さんは苦悶くもんの表情をして、下腹に手をあてている。瞬時に事態を察した。

「え、あ、はい、どうぞ」

 ご遠慮なく。そう言い添えて、受け取った荷物を抱えたまま案内する。恐縮しながらも、相馬さんはするりと玄関に入ってきた。トイレを指し示すと、何度も頭を下げながら入りこんだ。内側からドアが閉められる。

 気を遣って居間に移動して待っていると、水洗の音が聞こえてきた。トイレの前に戻り、洗面所を指し示すと、彼はひたすら恐縮しながら手を洗った。

「あ、待って」

 家族のタオルで手を拭こうとした彼を制し、急いで居間に引き返して、洗ったばかりの清潔なタオルを持ってきて差しだした。

「失礼いたします」

 若者とは思えない腰の低さで、相馬さんはそっとタオルで手を拭った。そそくさと玄関に戻ってゆく。

「本来であればですね、このようにお客様のお宅にご迷惑をおかけするといったことは厳禁なんですけども……本当に申し訳ありません」

 帽子を脱いで、何度も何度も頭を下げた。そのハリがありそうな茶色い髪の毛を、私はじっと見つめた。

「いえ、うちは気にしませんので……」

 むしろトイレ内は清潔だっただろうかと危惧しながら応える。このまじめな青年の役に立てたことが嬉しかった。


「ねえねえ、今日ね、宅配便の人がね」

 その夜、寝床で夫に報告した。なんとなく、反応を試したくなったのだ。

「へえ、別にうちは構わないよ。トイレ貸してあげるくらい」

 夫は私の意図を取り違えて、許可を与えるような返事をした。無性にいらいらした。

「そんなこと当然じゃない。そんでその人ね、今時の若者と思えないくらい礼儀正しいんだよ。腰が低くて」

「ふーん。そんなこともあるんだね」

 もう興味を失ったらしい夫はおざなりに言って、スマホゲームを始めた。パズルゲームの一種に最近はまっていることは知っていた。無課金でプレイしているというけれど、実際のところはわからない。

「ねえ、旅行のことは考えてくれた?」

 元同僚たちに触発されて、夕食のときに提案したのだ。今年の夏休み、久しぶりにどこか行かない? と。海外旅行としては、3年前にグアムに行ったのが5人家族での最初で最後になっていた。

 思春期を過ぎた長男と長女の反応がいちばん気になっていたけれど、ふたりとも「海外なら行く!」となかなかゲンキンだった。幼なすぎて前回の記憶がおぼろな次男は、兄や姉の様子にわけもわからないまま両足をばたつかせて賛同を示した。

「夏休みかあ。シーズン真っ只中だと、高いかもね。旅費」

 いちばん現実的なのは夫だった。

「だって、それしかみんなの休み合わないじゃない」

 少しの予算オーバーなら私の貯金から補填するから、という言葉を飲みこんで、私は夫の顔を見つめた。ひとつ年上なだけなのに、半分ほどが白髪になっている頭。疲れのにじむ目元。

「うーん、考えとくよ」

 返事を濁されたまま保留になっていたのだった。

「ねえってば。依光よりみつ佐知子さちこはハワイがいいんだって。重光は考えてくれた?」

「んー」

 セミダブルベッドに横たわってうつぶせでゲームをしている夫は、ちらりとこちらに視線をよこした。

満知子まちこの好きな場所でいいよ。任せる」

 ああ。なんてやる気のない返事。

 私はそれ以上口を開く気になれず、布団をかぶって目を閉じた。


 いつもの通販サイトから、また購入した。期間限定でセール価格になっている化粧品だ。しかし、とりわけほしいものというわけではなかった。

 これまでのパターンだと、注文からだいたい中2日で届く。そのスケジュールを計算して平日に届くように注文ボタンを押し、「ご注文の商品を発送しました」のメールを確認して、準備万端その時を待つ。

 普段あまり着ないフェミニンな服を取りだして着てみた。30代の頃に買った、生成きなりのインド綿のワンピース。化粧は、前回よりほんの少し濃いめに。ほんのり、香水もつけて。

 トイレには、ガーベラを一輪飾ってみた(娘に「ママ、どうしたの?」と言われた)。

 ぴんぽーん。来た。

 思わず生唾を飲みこんだ自分に軽く動揺しながら、インターホンを押す。彼の笑顔が映しだされる。

「丹羽様、前回は大変お世話になりまして。本当に申し訳ありませんでした」

 荷物の受け渡しをする前に、相馬さんは深々とお辞儀をしてみせた。

「いいんですよ、そんな。うちはいつでも平気ですから」

 顔を上げた相馬さんは一瞬、おや、という顔をした。私の変化に気づいてくれたのだろうかと、鼓動が早くなる。実は体重も前回より1.5kg絞っていた。

 どきどきしながら荷物を受け取り、シャチハタを押したところで

「あの、こちらなんですけど」

と、相馬さんが何かをポケットから取りだした。百貨店の薄い紙袋。受け取ると、その中身の柔らかな感触が紙越しに伝わってきた。

「え……」

「先日の御礼です。すみませんハンカチなんですけど、こんなものしか思いつかなくて」

 どくん。胸がときめいた。

「え、あ、あの、いいんですか? お気を遣わせちゃって……」

 どもりながら私は言った。今、自分の顔を鏡で見たら、きっと耳まで染まっていることだろう。

「いいんですいいんです、たいしたものじゃないですので。本当にありがとうございました」

 大げさに手を振りながら、相馬さんは出て行こうとする。

「あのっ」

 必死で、呼び止めた。自分とは思えないほどの瞬発力だった。

「『そうま』さん、でいいんですよね」

「えっ?」

 彼はドアに体半分挟んだ状態でこちらを振り返った。

「『あいば』さんとかじゃないですよね」

「ああ」

 相馬さんは、人懐っこい笑みを浮かべた。

「はい、相馬そうまです。今後とも宜しくお願いします」


 胸が苦しい。

 食器を洗いながら、洗濯物を取りこみながら、バスタブに湯を張りながら、相馬さんの笑顔と少し鼻にかかった声は何度も胸に蘇った。

 早く会いたい。早く、また。

 会って何を話すでもないけれど、ただシャチハタを押して荷物を受け取るだけだけれど、その瞬間に心の隅にひっそりと、小さな花が開く気がして。

 もう、夫にも相馬さんのことは話さなかった。そもそも、おそらくは一回り以上年下であろう青年に心奪われるなど、どうかしている。主婦であることを抜きにしても、非常識にもほどがある。

 それでも、会いたかった。もらった淡いオレンジの花柄のハンカチを、何度も何度も取りだしては眺め、顔に押しあてて甘い溜息をついた。

 いつもの通販サイトを開いて、特別必要でもない商品の中から必死で買うものを探した。


 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴ったのは、天気予報が関東の梅雨つゆ入りを告げた日だった。昼過ぎから、しとしとと雨が降りだしていた。

 グレーのツーピースを着て、髪の毛を結い上げ、パールのピアスをつけてみた。久しぶりすぎて、ピアスホールが塞がりかけていたので焦った。社会人時代でさえ、こんなにばっちりきめることなどなかった。

 声が弾みすぎないように気をつけながら、インターホンのボタンを押す。そして、目を見開いた。

 そこに映しだされたのは、相馬さんと同じ制服を着た初老の男だった。

 何が起こったのか理解できないまま、ふらふらと玄関に出る。

「あいー、いつもありがとうございます」

 初老の配達員は愛想よく言って、身振りで捺印を求める。

「えっと……あの」

 かすかに雨粒の染みたダンボール箱を受け取りながら、私はかすれた声をひねりだした。

「はい?」

「あの、いつもの相馬さんという方は」

「ああ。6月からエリアの担当が代わりまして、今後は私になりますんで」

 初老の男はこともなげに言った。

「そうですか……」

 失望を隠しもせずに、私はつぶやいた。彼が雨の中へ出て行った後も、しばらく放心状態で玄関に立ち尽くしていた。


 何も考えられないまま、生協で届いた食材で夕食を作っていた。順番に帰ってきた子どもたちは、手伝いもせずに自室へ引き上げてゆく。今日は、小言を言う気にもなれなかった。

「ただいまー。あれ?」

 夜7時、夫が帰宅した。

「おかえり」

 味見もしていない炒め物を皿に移しながら、私は感情のこもらない声で答える。

「ん、どっか行ってたの? 満知子」

 夫がスーツを脱ぎもせずに私を見つめていることに気づいて、やっと顔を上げた。

「なんで?」

「いや……」

 その顔が、なんだか当惑している。

「なに?」

「いや、なんか……すごい、かわいいから」

 一瞬ののち、涙がせりあがってきた。私はキッチンの床にしゃがみこんで泣き崩れた。

 どうしたの? ねえ、どうしたのさ。

 私を必死になだめようとする夫の手から、旅行会社のパンフレットがばらばらと落ちた。

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