この宿に来て、思えば長い月日が経った。

 部屋のそこかしこに、僕の私物が転がっているのも、すでに見慣れた風景である。もはやここは、僕の日常になりかけている。

 白昼の眩い日光がさし込む部屋のなかを、ぼうっと眺めながら、そのことに気づいた。

 僕は、部屋を片付けはじめた。

 文庫本、シャツ、小さなカメラ……すべて、鞄に仕舞いなおした。

 紗代ちゃんは、たった今日夏休みが明けて学校に行っているが、もしここにいれば、帰るのかと騒ぎ立てただろう。いや、しかし、そんな威勢も今の彼女にはないだろうか。

 彼女の強情な引き止めを食らわずに、この村を去る方法は、どんなものだろう。僕はそんなことをぼんやり考えた。

 いつまでもいるわけにはいかないのだ。

 彼女と同じように、僕の夏休みも、もうすぐ終わる。

 そうでなくても、このままここにいる理由は、もはやない。由梨花ちゃんは入院していなくなり、そうなれば紗代ちゃんはますます、醜い脆弱さを見せるだろう。

 そしてなにより、僕にも、変化がある。

 この場所に、そして三人の住人に対して、親しみが芽生え始めている。紗代ちゃんがこのまま打ち沈んでいけば、憐れみ、肩に手を携えそうなほどに。由梨花ちゃんが横たわる病室に、明るい花を活けてしまいそうなほどに。

 だから、僕はここを去らなければならない。また旅に出なければならない。ここが、僕にとって、宿から家になり果てる前に。かげがえなく、愛おしく、醜く、息苦しいものになってしまう、その前に。

 僕は、なにかを愛するために、旅に出たわけではないのだから。

 そもそも、旅の先に愛はない。

 だから僕は、旅を続けるのだ。

 どこにも心を通わせず、あてなき彷徨を繰り返し、人生のすべてを旅にして、生活の前後に旅の道を引いて、そうやって生まれた街さえ旅先の一つにして……。

 そして、いつまでも、空虚な魂を美しいもので染めるのだ。

 ふと、階下から、台所で水の流れる音が聞こえた。優子さんが洗い物でもしているのだろう。

 もうすぐ、耳にすることのない音を、僕は快いさみしさで聞いた。


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