三
この宿に来て、思えば長い月日が経った。
部屋のそこかしこに、僕の私物が転がっているのも、すでに見慣れた風景である。もはやここは、僕の日常になりかけている。
白昼の眩い日光がさし込む部屋のなかを、ぼうっと眺めながら、そのことに気づいた。
僕は、部屋を片付けはじめた。
文庫本、シャツ、小さなカメラ……すべて、鞄に仕舞いなおした。
紗代ちゃんは、たった今日夏休みが明けて学校に行っているが、もしここにいれば、帰るのかと騒ぎ立てただろう。いや、しかし、そんな威勢も今の彼女にはないだろうか。
彼女の強情な引き止めを食らわずに、この村を去る方法は、どんなものだろう。僕はそんなことをぼんやり考えた。
いつまでもいるわけにはいかないのだ。
彼女と同じように、僕の夏休みも、もうすぐ終わる。
そうでなくても、このままここにいる理由は、もはやない。由梨花ちゃんは入院していなくなり、そうなれば紗代ちゃんはますます、醜い脆弱さを見せるだろう。
そしてなにより、僕にも、変化がある。
この場所に、そして三人の住人に対して、親しみが芽生え始めている。紗代ちゃんがこのまま打ち沈んでいけば、憐れみ、肩に手を携えそうなほどに。由梨花ちゃんが横たわる病室に、明るい花を活けてしまいそうなほどに。
だから、僕はここを去らなければならない。また旅に出なければならない。ここが、僕にとって、宿から家になり果てる前に。かげがえなく、愛おしく、醜く、息苦しいものになってしまう、その前に。
僕は、なにかを愛するために、旅に出たわけではないのだから。
そもそも、旅の先に愛はない。
だから僕は、旅を続けるのだ。
どこにも心を通わせず、あてなき彷徨を繰り返し、人生のすべてを旅にして、生活の前後に旅の道を引いて、そうやって生まれた街さえ旅先の一つにして……。
そして、いつまでも、空虚な魂を美しいもので染めるのだ。
ふと、階下から、台所で水の流れる音が聞こえた。優子さんが洗い物でもしているのだろう。
もうすぐ、耳にすることのない音を、僕は快いさみしさで聞いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます