光と翳



 夏の太陽もまだ穏やかな早朝に、宿を出た。

 田園の緑に光の波が流れるのを眺めながら畦道を歩き、古びたバスで長い区間の三駅を行って、それからまたのどかな道を歩く。

 紗代ちゃんが、拾った木の棒の先にプール鞄を括りつけて、それをぶんぶん回して弄びながら、小躍りするように歩みを進めていく。

 少し遅れる僕は、隣で同じくとぼとぼ歩く由梨花ちゃんに、声をかけた。

「平気? しんどくない?」

 由梨花ちゃんは、こちらを見上げない。麦わら帽子を目深に被っていて、表情が見えない。

「うん。大丈夫。ありがとう」

 そう短く言った声が、微かだが、掠れていた。

 僕は即座に答えた。

「そこらで、ちょっと休憩を入れよう。お茶でも飲もう」

「ううん、ほんまに大丈夫やで」

 彼女はそう言って、ようやくこちらを見上げた。肌が青白いが、それはいつものことである。疲弊もそう深くは出ていない。

 しかし、用心に越したことはないだろう。

「いや、休もう。実を言うと、僕が疲れててね」

 そう言って、明るく笑いかけると、由梨花ちゃんもこくりと頷いた。

 僕は、少し先の路傍に、ぽつんと木が立っているのを見つけた。その陰に、僕のリュックを座布団のようにして、由梨花ちゃんを座らせた。

 それから、紗代ちゃんの名を呼んで、

「ちょっと、ここでお茶を飲んでから行くよ」

 と伝えた。

 紗代ちゃんは力強く頷いて、また歩き出しながら、こちらを向かずに言った。

「はあい。ほな先行っとくなあ」

 小さくなっていく彼女の後姿を少しの間見送ってから、僕は由梨花ちゃんの隣に座った。

 彼女は、ぺたりと足をまっすぐのばし、背中を木の幹にあずけて座っていた。太腿の辺りに麦わら帽子を載せて、水筒のコップにお茶を注いでいる。

「はい」

 彼女はお茶の入ったコップを、僕に差し出した。

「いや」

 僕はポケットからペットボトルの水を出す。

「これがあるから」

「ああ、そっか」

 由梨花ちゃんはつまらなそうに言って、コップを、自分の口へ傾けた。静かに飲み干して、濡れた唇から、ぷふうとあどけない息をもらす。よほど喉が渇いていたのか、安堵に浸るように、目をぼうっとさせている。こうして外を歩くのもあまりないらしいから、無理もない。

 僕たちは、紗代ちゃんと由梨花ちゃんの通う分校へ、向かっているのだった。二学期が始まるのはまだ先だが、今日から何日かプールが開放されるから、来たのである。最初は紗代ちゃんだけが行くはずで、僕は彼女に強引に誘われたのである。部外者の僕が行くのは憚られたが、学校のプールとはいえ自由に開放している期間なのだからと優子さんの勧めもあった。もし教師や他の生徒に鉢合わせたとしても、親戚ということにすればとやかく言われまい、と彼女は言った。

 優子さんがそうまで言って僕を口説くのは、由梨花ちゃんのためでもあったのだろう。由梨花ちゃんが、近頃体調が良いこともあって行きたいとせがんだのである。そして彼女はそれと併せて僕に付いて来てくれるようにもねだった。普段はなかなか外に出る機会すら失われている由梨花ちゃんの願いを、優子さんも叶えてあげたかったのだと思う。

 そんな心やさしい母親である優子さんから、由梨花ちゃんの引率も頼まれた僕は、由梨花ちゃんが木陰で十分に体力を回復したと判断してから、また歩き出した。

 何度かの休憩を挟み、三十分ほど歩いて、ようやく分校に到着した。

 校門に立つと、ささやかな校庭と、夏の陽ざしを浴びる木造校舎に、僕は不思議な郷愁を誘われた。

 都市の喧騒のなか、冷たいコンクリートの校舎のなかで周囲に聳えるビル群を眺めながら育った僕が、このような学校の風景をふるさとのように感じるのは不可解だ。しかし、心があまくしびれるほど、なつかしい。なぜだろう。灰色の壁にずっと描いてきた夢だからだろうか。

 由梨花ちゃんに連れられて、校庭の隅にあるプールに行くと、紗代ちゃんが早くも飛び込み台に立っていた。

 スクール水着を纏っている姿に、初めて彼女を目にした瞬間が脳裏を去来する。

「お、ちょうどやなあ」

 紗代ちゃんはこちらに手を挙げて言った。

「今から入ろう思ってたとこやねん」

 由梨花ちゃんが、慌てて紗代ちゃんへ駆け寄る。

「ええ、ちょっと待ってえや。うちも入る」

「ほなはよ着替えておいでや」

「う、うん。待っててな?」

 由梨花ちゃんは不安そうに言って、更衣室らしきところへ慌ただしく入っていった。

 僕はそれを見送りながら、

「で、僕はどこにいたらいいのかな」

 と紗代ちゃんに投げかけた。

 彼女は悪戯っぽい微笑みで、

「一緒に入ったらええやんか」

「まさか。水着も持ってきてないよ」

「そのままでええやんか」

「馬鹿言うな」

 紗代ちゃんは高い笑い声を響かせた。

「冗談、冗談。あそこ座ってたら?」

 彼女の指すのはプールサイドの一角で、ところどころ穴の開いたトタン屋根と、その下に古びたベンチがある。

 僕はちらと見て、

「あんなとこで部外者が堂々と寛いでて、怒られないかな」

 と尋ねた。

 紗代ちゃんはぷっと噴き出して、

「もう、怖がりやなあ。怒られるもなんにも、うちら以外に誰もおらへんやんか」

「まあ、それもそうだけど」

 しかし、今日はプールを開放しているのだから、教師が見に来るか、あるいは他の生徒が来たりしそうなものだ。とはいえ突っ立っているわけにもいかず、僕は結局そのベンチへ腰かけた。

 屋根の穴から光がさすので、それを避けて、ベンチの端に座る。僕は、歩き続けていくらか疲れた足をだらりとのばして、ふうと息をつき、視線を周辺の風景に漠然と泳がせた。

 静謐な水面に、光の綾が揺れている。水面が風を浴びてやわらかくうねると、まるで水が透明に燃えるように、光の粒がきらきらと舞い散る。

 青空にわきたつ夏の雲が水面にぼんやりと映っていて、空と水のやさしい青が溶け合っている。仰ぎ見た空が、水のようにたおやかに波打つ幻が、ふっと浮かんで消えた。

 由梨花ちゃんが、着替えを終えて出てきた。

 僕は彼女の姿を一目見て、なにか恐ろしいものに出会ったように、息をのんだ。紗代ちゃんとは違って、スクール水着ではなく、花模様の水色のビキニを着ていた。下はスカートであるが、やはり紗代ちゃんと比べて眺めると際立って華美である。女の匂いのするその水着は、脆弱な感じのする由梨花ちゃんの身体にはよく似合っていて、いつもより大人びて見える。

 対してスクール水着は、紗代ちゃんのすこやかな力に満ちた身体にこそ相応しく見える。彼女の中性的な肉体の、爆発の瞬間のような純潔を、より強める。

 由梨花ちゃんは僕の方をちらと見ると、こころもち俯いて、身をよじった。僕が驚いたのは、彼女の身体の美しさもあったが、その素振りに不意に滲んだ初々しい心に対してでもあった。無垢な恋の美しさだった。目に見えぬ速度の矢が、輝きを放ちながら目玉を突き刺したようだった。

 紗代ちゃんは由梨花ちゃんが出て来たのを見て、待ってましたと言うように飛び込み台へ跳び乗った。

「なあ、競争しようや」

 紗代ちゃんの浮足立った提案に、由梨花ちゃんは首を横に振る。

「なに言うてんよ。うち、泳ぐの何年ぶりか。競争ならへんわ」

「大丈夫やって。昔は泳げててんから」

 紗代ちゃんはそう言って由梨花ちゃんの手を引き、強引にプールサイドに立たせる。

 由梨花ちゃんはおどおどと水面を見つめて、

「怖いわあ、溺れへんかなあ」

「あほらし」

 紗代ちゃんは一笑した。

 そして次の瞬間、彼女は由梨花ちゃんをプールへ突き飛ばした。

 由梨花ちゃんが手をばたつかせながら、鈍い音を立てて水中へ沈んでいく。必死の動きでなんとか水面に浮き上がって、顔に纏わりつく前髪を払い、水を飲んだような咳をしながら、

「あほっ、死んでまうわ!」

 と紗代ちゃんをきっと睨みつける。足が着く程度の深さらしく、首から上が生首のように突き出ている。

 その鬼気迫る面持ちがよほど可笑しいらしく、紗代ちゃんは由梨花ちゃんを見下ろし、手を叩いて笑った。由梨花ちゃんは、それでも燃えるような眼差しを紗代ちゃんへ投げていたが、少しして、つられるように笑い出してしまった。

 紗代ちゃんは笑ったままの勢いで、身体が奥底から奮い立つような敏捷さで、プールサイドを駆け飛び込み台に跳び上がりそのままの勢いで空に身を投げた。水の弾ける音が天高く響く。

 紗代ちゃんは魚のようななめらかな動きですうっと水中から顔を出した。そして、彼女の野性的な動きを憧れるようにぼうっと見つめる由梨花ちゃんの傍へ、顔を出したまま平泳ぎですべっていく。

 底まで透き通る清らかな水をかいて泳ぐ紗代ちゃんは、由梨花ちゃんのすぐ傍まで来ると、顔を沈めて深くまで潜り込んだ。由梨花ちゃんの足へと手をのばす。しかしそれは由梨花ちゃんも見えているので慌てて避ける。またしかし、後ずさる足と追いかける手では水中では後者の方が素早く、紗代ちゃんは由梨花ちゃんの両足を掴み、そのまますくりと立ち上がって由梨花ちゃんを水中に一回転させた。

 由梨花ちゃんは、苦しそうに、

「あぷ、あぷ」

 と声を出しながら浮かび上がってきて、また顔の髪を払う。

 溺れた人間は本当にあぷあぷ言うのかと、僕は可笑しく感じながら眺めていると、今度は由梨花ちゃんが紗代ちゃんと一緒になってけらけらと笑いながら、

「えいっ!」

 と、両手で水をすくって力いっぱい紗代ちゃんの顔に浴びせようとした。

 紗代ちゃんは飛んできた水を難なくかわし、また潜って由梨花ちゃんの足を掴み一回転させる。由梨花ちゃんはまた「あぷあぷ」言って浮かび上がり、紗代ちゃんと顔を見合わせながら二人して笑いを弾けさせる。

 それからも由梨花ちゃんは反撃を仕掛けようと、再び水を投げてみたり紗代ちゃんと同じ悪戯を試みたりしたが、すべて避けられて何度も仕返しを受けるのだった。そのたびに由梨花ちゃんと紗代ちゃんは、綺麗な声で笑った。

 少しして、疲れ切ったような草臥れた微笑みで、由梨花ちゃんがプールから上がってきた。彼女は全身びっしょりのまま、ふらふらと歩き、ベンチの僕の隣に腰かけた。

「しんどくなってない? 大丈夫?」

 聞くと、由梨花ちゃんは口を開けて息をしながら、

「うん、大丈夫、疲れただけ」

 と言って、なにかを思い出すように小さな笑い声をあげた。きっと、さっきまでの紗代ちゃんとの遊びの余韻だろう。

 彼女は笑いと疲れがおさまると、ふう、と息をついた。

「こんなに動いて、バス停まで歩けるかなあ」

「そんなに遊んだか? 三十分も経ってないよ」

「でも、外に出んのも久々やし」

「ああ、そうか」

「肌焼けたりせえへんかなあ。嫌やなあ」

「焼けるの、嫌なのか?」

「うん。当たり前やんか」

 由梨花ちゃんは軽く笑みをこぼして、当然のように言った。

 僕は思わず笑い声を上げて、

「じゃあなんで、しんどい思いしてまで、泳ぎに来たんだ」

 すると由梨花ちゃんは即座に、まっすぐ僕を見つめて、

「だって!」

 激しく言い、ふっと黙り込んだ。

 そして、一気に頬を染めて、そっぽを向く。

「いや、なんでもないけど……」

 胸の内が読めないが、しかし恥じらいは明白なので、僕も気を遣って口をつぐんだ。

 少しの沈黙の後、由梨花ちゃんがそっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた。

「水着……」

「え?」

「この水着」

 由梨花ちゃんは、俯きながらも、ちらとこちらに目をやった。

「この水着、どう思う?」

「どう思う?」

「う、うん……」

 由梨花ちゃんは微かに頷いて、水着の肩の紐にそっと手をやって、またそっぽを向いてしまった。

 彼女が今日ここに来たのは、この水着を見せたかったからなのかと、僕は思い巡った。

「似合ってるよ。ずっと見てたいくらい、よく似合ってる」

 僕は、心のままを言った。

 由梨花ちゃんが、いくらかやわらいだ面持ちになって、こちらを横目に見た。

「ほ、ほんま?」

「嘘に聞こえるか?」

 由梨花ちゃんは、そっと微笑んで、首を横に振る。

 そして彼女は、身体をこころもち斜めにして、僕に見せつけるようにした。秘められながらも滲む大胆さに、その恋心の清らかな輝きに、僕は眩暈がするようだった。

 そっと由梨花ちゃんの身体を眺めた。屋根の下の影のなかで煙るように白い肌に、水滴がしっとり流れていく。僕は震える手で、その肌に触れそうですらあった。

「兄ちゃん!」

 不意に鋭い声が耳に響いた。

 はっとして声の方を見ると、プールのなかで紗代ちゃんが僕を呼ぶのだった。

「兄ちゃん、ちょっと来て」

「どうしたの」

 僕は、彼女の声の切実なのに驚いて、プールサイドへ駆けて行った。紗代ちゃんはこちらを見上げて弱々しく笑った。

「あかん、足つってしもた」

 彼女はこちらへ手をのばして、

「ごめんやけど、引っ張ってあげてくれへん?」

「ああ、うん」

 僕はすぐに彼女の手を掴んだ。

 そして、その瞬間に彼女の狙いに気づいた。もう遅かった。

 紗代ちゃんは僕の手をきつく握って、力いっぱい引いた。僕は勢いよく水中に飛び落ちた。

 服が水を含んでずっしりと重くなるのを感じ、鼻から僅かに水を飲みながら、僕はなんとか底に足をついて立った。

 顔に流れる水を掌で払うと、目の前には紗代ちゃんの笑顔があった。彼女は僕を上目に見つめて、悪戯っぽく舌を出した。

 透明の水と、小麦色の肌と、水滴の滴る短い髪の黒のなかで、ひときわあざやかに眩い桃色の舌だった。

 僕は思わず高く笑い、そして、彼女へ両腕をのばした。

 素早くかわされて、再び水中に沈められるのを期待しながら。


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