五
夜深く、庭で鳴きしきる虫の声だけが聞こえる僕の部屋に、由梨花ちゃんが訪ねてきた。
「ちょっと、寝られへんから」
彼女は言い訳をするようにそう言ってはにかんだ。いつものことだ。三日に一度は必ず、宿のなかが静まってから、この部屋に来る。
僕は布団は敷いているが入らずに、畳に座って卓に凭れかかり、酒を飲んでいた。由梨花ちゃんは、こちらまで歩み寄ろうとして、ふと窓の前で立ち止まった。窓の向こうの夜空へ、視線を投げている。
「どうしたの」
「月が……」
由梨花ちゃんは、恍惚の滲む虚ろな口ぶりで呟く。
僕は彼女の横顔に、
「月が、どうしたのさ」
と問いかける。
「あんな、月がな、すぐそこで、座ってるみたい」
「すぐそこに?」
「うん」
「……」
僕の無言に、伝わっていないことを察したらしく、由梨花ちゃんはもどかしそうに、
「ええとなあ、なんていうかなあ。……いっつもより大きいねん」
「ああ。そういうこと」
納得した僕に、由梨花ちゃんは嬉しそうに頷いて、窓へ身を寄せる。窓枠に半身を腰かけ、ガラスに手を添えて、月ののぼる夜空を仰いでいる。
僕は、仰向いた彼女の、冷たい感じのするほど静かな横顔から、やさしい首筋にかけてのなだらかな流れを見つめた。黒髪は血に濡れた鴉の羽のように豊麗な黒髪が、首の後ろにかかり影をつくって、腰のすぐ上までたなびいている。
「満月?」
僕は言いながら立ち上がった。知らぬ間に酔いが回っていたらしく、足元がふらついた。
由梨花ちゃんは慌てて僕に歩み寄り、僕の胸ほどしかない身体で、僕を支えた。
「大丈夫だよ。いきなり立ったから、ちょっと足がもたついただけ」
僕はそう言って、示すようにしゃんと立った。
その様子が可笑しいのか、彼女はくすっと小さく笑った。それから、自分がまだ僕の胸に手を置いたままなのに気づいて、乙女の敏捷さでさっと身を離した。
誤魔化すように由梨花ちゃんはまた、窓枠の木に小さな尻を半分のせて、夜へ視線を逃がした。彼女の纏う寝間着のワンピースの首は広く、白い肌が清潔を匂わせながら温かく染まるのが見えた。裸が剥き出しになったような烈しい魅惑だった。髪の深い黒との溶け合いが、なお官能を焚きつけるのだろうか。
なにも言わず彼女の後ろに立ち、身体を少しかがめると、月が見えた。均整な円ではなく、楕円である。満月よりもやさしい。うすい雲がかかり、まだらな星の輝きは鈍い。
だいぶ落ち着いたらしく、由梨花ちゃんが敷いてある布団にうつ伏せに寝転がり、唐突に軽い笑い声を立てた。
「兄ちゃん、夜はいっつも酔うてる」
「でないと、うまく寝れないからね」
「兄ちゃんの身体、火みたいに熱かった」
由梨花ちゃんは、恥じらいを微かに含んで、頬をやわらげた。
僕はふと、紗代ちゃんの身体も熱が迸っているのを思い出した。しかし彼女のそれは生命の燃焼で、僕はといえば陶酔の果ての爛れである。
由梨花ちゃんの肌はどんなだろう。やはり紗代ちゃんのように熱いだろうけれど、底に冷たさの流れている、あわれな温度だろうか。雪に消えゆく炎だろうか。
「お母さんもな、お酒飲んだら、赤ちゃんみたいにあったかなるねん」
「ふうん。親子が入れ替わるわけか」
「そうそう。ほんまにそうやねん。もう寝ようって言うても、まだ嫌やってぐずんねん」
由梨花ちゃんは、話しながらその姿を思い出すのか、ころころと笑った。
「ほんでな、うちがお母さんみたいにな、頭撫でたらな、顔溶けそうなぐらい嬉しそうに笑うねん」
「意外だね。僕には見れないいちめんだ」
「うちとか紗代にも、滅多に見せへんけどな」
「そんな可愛い姿、見せてくれればいいのに」
僕が何気なく言うと、途端に、由梨花ちゃんの眼がぼんやり曇った。
「うちは、お酒飲まへんくても、いっつもそんなんやで?」
彼女はそう言ってすぐ、はっとしたように唇を結んだ。自分の母親へのささやかな嫉妬も、口をついて出た言葉も、自分で信じられなかったのだろう。
僕も、由梨花ちゃんの思いがけない激しさに、言葉を失った。
しかしすぐ、
「知ってるよ。由梨花ちゃんがまだいつも、赤ちゃんみたいなのは」
と、沈黙を埋めた。
由梨花ちゃんは、頬を薄ら染めながら、たよりなく視線を泳がせた。その視線は、寝転ぶ彼女へ向いている僕の身体の、爪先の辺りに漂った。
「ほんまに?」
「うん、いっつも言ってるじゃん。急に大きな子どもができたみたいだって」
「そんなん、言ったことないやんか」
由梨花ちゃんは、安堵の息をもらすように、やわらかく笑った。それから一呼吸おいて、
「ほんならな、兄ちゃん」
と切り出した。
「うちのどこが赤ちゃんみたい?」
「どこが、か。挙げだすときりがないな、紙とペンある?」
僕が笑いながら言う。
由梨花ちゃんは、僕の足元に目を逸らしながら、しかし真剣に、
「もうっ、茶化さんとって」
とぐずるように言った。
僕はすかさず、
「今の怒り方とか、幼い子みたいだ」
「もう、またふざけて」
「ふざけてないよ」
「じゃあ、他には?」
「ううん……すぐに拗ねるところとか」
「うち拗ねる?」
由梨花ちゃんは首を傾げて、しかし嬉しそうに目を細める。
「ほんで、他には?」
「まだやるの?」
「うん、当たり前やんか」
僕は、いつもは恥じらい深いのに、堰が切れたようにあまえを隠さぬ由梨花ちゃんに、温かい驚きを覚えながら、
「そうだなあ……ジュースはオレンジジュースしか飲めないのとか」
「あれ? なんで知ってるん?」
「この前、自分で言ってたよ」
「あれ、そうやっけ」
由梨花ちゃんは思い出すように目を伏せて、
「ああ、そうやそうや。でも、兄ちゃんもオレンジジュース好きって言うてたやんか、その時」
「僕も子ども舌だから」
「ふふ、でっかい子どもやなあ。可愛くないわあ」
由梨花ちゃんが揶揄うような眼差しで、こちらを見上げた。上目をつかう面持ちは、いつもよりもあどけなかった。あまえのせいもあるのかもしれなかった。
それからも、彼女は自分の幼いところを僕にいくつも言わせて、そのうちにいつしか眠りに落ちた。いつも、眠れないという言い訳などすっかり忘れて、僕の布団で、寝息をたててしまうのである。
僕は彼女の身体に薄い毛布をかけて、再び卓につき杯を傾けながら、布団の方へ自然と目が惹かれた。
由梨花ちゃんの寝顔は、それこそ、あわれなほどに幼気であった。いじらしい唇が、咲きかける蕾のように微かに開いていて、そこから可憐な歯がのぞき、ささやくように静かな息がもれている。こころもち垂れた綺麗な眉に、眠りのやすらぎが漂っている。
寝顔の無垢がはずみになって、さっき並びたてた彼女の美点が、次々と僕の胸に浮かんできた。食事を済ませばすぐにぷっくりと膨らむ真っ白なお腹、紗代ちゃんと言い合っている時の頑強さ、歌を口ずさむときのたどたどしくも清澄な声音……。
彼女には言えなかったものもあった。湖面のように艶やかなささやかな胸、可愛いくぼみと瑞々しい張りのある掌、なにかを弄ぶときの指のなめらかな動き、触れればかなしい冷たさが流れていそうな首筋……。
言えなかったものばかりが、蠱惑的に揺らめきながら、浮かんでは消えた。
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