いつものように紗代ちゃんに連れられて、太陽の絶叫のような陽ざしを浴びながら村をあてもなくぷらぷら歩いていく。

 紗代ちゃんは、路傍の木の小さな赤い実を取った。汁の付いた指を、白いワンピースに押しつけて拭う。木の実を舌の上で転がしながら、可愛い呂律で言う。

「今日はなんしようかあ、兄ちゃん」

「そうだなあ」

 僕は少し考えて、

「駄菓子屋でも行こうよ。こう暑いと、ビールでも飲まなきゃやってらんない」

「ビールなんか売ってるっけ?」

「この前売ってたじゃん。ほら、アイス入ってるケースの、隣の小さいケースに」

「あそこ入ってんの、ラムネやで?」

「いや、ラムネに交じって、ビールもあったよ」

「そうやっけ」

 自分の興味のないものは全く捉えない紗代ちゃんの視線に、僕が感心していると、彼女は浮き立つように、

「ほな、うちはラムネ飲む」

 と、スキップした。少年のようによく焼けてすらりとした彼女の足が、サンダルをぱたぱた鳴らしながら歌うように地を跳ねる。

 駄菓子屋にはすぐに着いた。

 店の老婆は、框に腰かけて茶を飲んでいた。

 紗代ちゃんは店に入るなり、ケースからラムネとビールを取り出して、框に投げるように置いた。

「よっす、ああちゃん」

 老婆は皺の寄った目を見開き、冗談めかした口ぶりで、

「なんや、あんた、ビールなんか飲むんか」

「違うよっ、うちちゃう、兄ちゃんや」

 紗代ちゃんが真面目に答える。

 僕が彼女の後ろで老婆へ会釈すると、老婆は萎びた手をあげて、

「おう。よう来たねえ」

 と言ってから、

「あんちゃんも、ほんまは酒なんか、あかんねやけどな」

 と、鷹揚な笑みを浮かべた。

 僕は、ラムネとビールの代金を払い、紗代ちゃんに手を引かれ軒先のベンチに腰を下ろした。

 よく冷えて水滴で濡れ輝いている缶ビールは、手に握っているだけで涼しい。ラムネもそのようで、紗代ちゃんは瓶を頬に当てて破顔する。

「はあ、気持ちええなあ」

「確かにね。飲んでも触れてもいいんだから、ありがたいものだね」

 僕も、ビールを額に当てながら、息をつく。

 紗代ちゃんが心から寛ぐように、脚を前へ放り出して浅く座り、やや仰向いて、不意に言った。

「雲もこんなんかなあ」

「雲?」

「うん、雲」

 紗代ちゃんが空を指して呟く。

「雲のなか泳いだら、こんな感じなんかなあ」

 美しくあどけない夢想である。

 僕はそっと微笑みながら、ぬるくなる前に飲もうと、ビールを開けた。プルリングを引くと、シュカッと爽やかな音が弾ける。

 ビールが、喉を駆けるように流れていく。缶から口を離すと、思わず、ああ、と息がもれる。

 ささやかな快感からもれた僕の声に誘われてか、紗代ちゃんも、ラムネを飲もうと、ビー玉を落とす。ビー玉が瓶のなかでカランと鳴る。淡い水色のガラスのなかで、サイダーが微かに泡立つ。

 その瓶を口に傾ける。夏の光でなにもかもが鮮明な色彩のなかで、ひときわあざやかにきらめいている小さな唇が、飲み口へ吸い付く。すっきりと綺麗な喉が、ごくりごくりと音を立てながら、波打つ。

 紗代ちゃんは潤いを含んだ唇を飲み口から離して、ぷはあ、と息をもらした。そして、ニカッと笑う。

「兄ちゃんのまね。気持ちよさそうやったから」

 彼女はすぐにラムネを飲み終えると、飲み口のキャップを外し、ビー玉を取り出した。それを小さな人差し指と親指で挟み、太陽にかざす。透明なきらめきが舞い踊るのを、紗代ちゃんの大きな瞳が不思議そうにじっと眺めている。紗代ちゃんの瞳――ずっと昔、まだ獣だった人間が仰いでいた蒼穹と響き合うような、そんな深遠な黒を湛える瞳に――ビー玉から透ける陽の光が、ぱらぱらと映っている。白昼にあらわれた星空だ。

「なにしよかあ、今から」

 紗代ちゃんの声で、僕は恍惚から醒めた。

「そうだなあ、暑いし帰ってなにかするか?」

「ううん、なんかって?」

「そうだなあ……」

 僕はふと思い出して、

「人生ゲームとか。この前やって楽しかったし」

「ああ、人生ゲームなあ」

 紗代ちゃんも、数日前に由梨花ちゃんも交えて三人で遊んだ時間を、今脳裏に思い描くようにやわらかく笑う。

 しかし、笑みはそのままに、

「でも、今日は外でなんかしたい気分やねんなあ」

 ともらした。

「ほな、これあげよか」

 突然、店のなかから、老婆が言った。僕たちの会話が聞こえていたらしい。

「これやったら、外で遊ぶにええわ」

 紗代ちゃんが老婆の言葉に、小躍りするようにベンチを立った。

「なになに、なんか面白いもんあんの?」

「ほれ、これや」

 僕も紗代ちゃんに続いて店に入ると、老婆が手に持っているのは、一つの小さな袋だった。なかには、風船のゴムがいくつも詰まっている。袋にプリントされている文字を読むと、

「ああ、水風船か」

 僕が言うと、紗代ちゃんがこちらを振り返り、目を丸くする。

「水風船?」

「あれ、知らないの?」

「うん。初めて聞いた」

 紗代ちゃんが、袋を不思議そうに見つめる。

 老婆が僕に言った。

「ここにこれ、初めて入荷したからね。この子が知らんでも無理ないわ」

「で、なんなんよ、これ」

 もどかしそうに、紗代ちゃんが僕と老婆の顔をかわるがわる見つめて、言った。

「水風船ってことは……水で膨らますん?」

「お、鋭いね。正解」

 僕が言うと、紗代ちゃんは目を見開いて、老婆の掌の水風船に眼差しを据えた。

「そんなんあるんや……」

「えらく感心するね。そんなに珍しいかい」

「うん。こんなドキドキするもん知らん」

「大袈裟だな」

 僕は小さく噴き出したが、紗代ちゃんはこちらを振り返ることもなくずっと水風船を見つめている。僕はそのひたむきな好奇心に微笑みながら、彼女の小さな頭に手を置いた。

「よし、じゃあ今日はこれで遊ぼうか」

 僕はそう言ってから、老婆に向かって、

「いくらですか、これ」

 と聞いた。

 紗代ちゃんが、驚きの入り混じった激しい笑みでこちらを見て、また水風船へ視線を戻す。

 その視線の熱に、老婆はやさしい視線を重ねながら、水風船を紗代ちゃんへ差し出して、

「ええよ、タダで。面白かってまた買いに来たら、そん時は金貰うけどな」

「いいんですか?」

 僕が言うと、老婆は紗代ちゃんの純真な面持ちに目を細めながら答える。

「おう、ええよ。お試し期間言うやっちゃ」

「ありがとうございます。だってよ、良かったな紗代ちゃん」

 僕は彼女の肩を押した。

 紗代ちゃんは老婆の手から水風船を受け取り、まだまじまじと眺めながら、

「ありがとうな、ああちゃん。こんな、こんなええもん……」

 と、喜びにぼうっとした様子で言った。

 それから僕たちは、駄菓子屋の台所の水道を借りて風船をいくつも作った。水でぷっくり膨らんだゴムの中に、水がたぷらぷ揺らめくのが透けているのを、紗代ちゃんはきゃっきゃと面白がって指で押し、それで割れてしまったものもいくつかあった。舞い散る水を浴びて、紗代ちゃんはまたはしゃぐのだった。

 できあがった風船は約ニ十個ほどだった。

 紗代ちゃんが、十個ずつ持って投げ合いをしようと言いだした。

「でも、どこでするの」

 僕は言った。

「前の道でやっても、向かい合って隠れるところもないんじゃ、つまらなくないかな」

「ううん、それもそうやなあ」

 紗代ちゃんは少し考えてから、「あ」と短く声をあげて、駄菓子屋の老婆に、

「ああちゃん、裏のところ、もう咲いてる?」

 と聞いた。

 すると老婆は、当然だという風に頷いた。

「もう、いちめん、咲いとるよ」

「よし」

 紗代ちゃんが勢いよく頷いて、

「兄ちゃん、ええ場所あるから、そこ行こ」

「いい場所? 森かなにか?」

「違う違う、ここの裏の、山はいるところにな……」

 紗代ちゃんは、言いかけてやめた。

「やっぱり、なんも聞かんとついてきて」

「え、なんで。なんだか恐ろしいな」

「大丈夫やから。痛いことせんから」

「その言葉が余計に怖いんだけど。なあ、教えてくれよ」

「あかんの」

 紗代ちゃんは赤ん坊のような頑固さで、ぶんぶんと首を横に振った。

 僕は仕方なく、それ以上なにも聞かなかった。

 水風船はすべて、駄菓子屋にあったバケツを借りてそこに入れた。僕はそれを持って、紗代ちゃんに連れられるがままに、店を出た。

 少し歩いたところで、紗代ちゃんが突然言った。

「あ、兄ちゃん。こっからは目つぶってて」

「え、なに」

「ええから、つぶって」

 紗代ちゃんが有無を言わさぬ強さでねだる。僕は目を閉じ、右手を紗代ちゃんの火のような左手に握られて歩いた。

 またそこから少し歩いたところで、紗代ちゃんは立ち止まった。

 繋いでいた手が離れる。

 風が掌を撫でる感触で、僕たちの手が汗ばんでいたのを知る。掌の湿った熱度がやわらいでいく。

「もう、目を開けてもいいの?」

「うん、ええよ」

 紗代ちゃんのやけにわくわくした声色に、かえって不安を感じながら僕は目を開いた。

 昏い視界が急に烈しい光を浴びて、白くかすむ。燦爛たる白光のなかで、ぼんやり見えるのは、黄色い海だった。あざやかな黄色が白い輝きにかすみながら、果てなく広がっている。

 徐々に明瞭になっていく眼前の景色は、見渡す限りの向日葵畑であった。視界が澄んでくるにつれ、茎や葉や遠い山の瑞々しい緑も、空のさみしいほど遠い青も、向日葵の中心の円の焦げたような色と、花びらの絢爛たる黄色との堂々とした調和も、あざやかに心に迫ってきた。

 目が景色に慣れてくると、じんわり、蝉の鳴き声が大きく響いてきた。しかし蝉はずっと鳴いていたのだろう。色彩に心を染められていた僕に聞こえなかっただけだ。

「どう?」

 紗代ちゃんが言った。

「ここやったら、迷路みたいやから、投げ合いするのにええやろ」

「う、うん。そうだね」

「せやろ。うち、ええステージ思いついたわあ」

 紗代ちゃんが自慢げに言う。

 僕は、彼女がこの風景を美しいと褒め称えず、遊ぶのにいいとしか言わないのを、面食らうように思いながらも、好ましく感じた。自らの鼓動を爆発させるに精一杯で、美を見つめる怠惰な魂をもたないから、紗代ちゃんは美しいのだ。

 紗代ちゃんの言う通り、確かにこのいちめんは、遊ぶのに適している。向日葵は、さすがに僕よりは高くないが紗代ちゃんが隠れるには十分であり、それが見渡す限り咲き誇っているのだから、それこそ、まるで花の迷路だ。

 ゲームのルールは紗代ちゃんが決めた。といっても、単純で、向日葵の群れの入り口にバケツを置いておき、それぞれ三つを手持ちに畑に分け入って戦う。そして手持ちがなくなれば、三つまでならば補充しても良い。合計で使えるのは、一人、十まで。勝敗もまた簡潔で、より多くぶつけた方の勝ちだ。

 ルールの確認をして、三つの水風船を携え、紗代ちゃんの「よーい、どん」の合図で僕は畑に入った。

 普通に立っていると頭が向日葵より高いので、少ししゃがんだ体勢で走っていく。向日葵は見た目以上に繁茂していて、葉に肌を撫でられながら走っていると、森のなかにいるようだ。しかし陽ざしは頭にじりじり照りつけている。頭上に太陽を遮る葉はない。

 どこかから、紗代ちゃんのはしゃぐ声が聞こえてくる。声の遠さからすると、どの辺りにいるのかほとんど聞き分けられぬほどに離れている。

 それでも方角は分かるので、時折聞こえてくる声を頼りに、畑のなかを走っていくと、突然、ぽっかりと向日葵のない場所に出た。寝転べるくらいの広さで、周囲には向日葵が所狭しと並んでいるのに、そこにはなにもない。

 僕は、なんとなく安堵をおぼえて、その土の上に座り込んだ。

 額の汗を肩で拭う。

 さっきまでも頭髪が焦げつくようだったが、それでも向日葵が少しは遮ってくれていたらしい。ここは陽ざしが一層激しく、僕は、太陽を睨みつけるような視線を頭上へやった。

 その時、不意に一輪の向日葵が、目についた。座っているから、仰ぎ見るような格好だった。

 他のものとなにも変わらない、整然とした一輪だ。

 それでも目が離せないのは、その一輪が、まるで太陽だからだ。茎の頂についた花は、ちょうど後背に太陽を背負って、月暈のような荘厳な光を輪郭に帯びている。この一輪の向日葵が、陽ざしを放つかのようだ。地上に降り立った太陽だ。目をあざやかに染める花びらは、太陽の光が凝結した宝石だ。

 突然、顔面に冷たい衝撃がして、僕は我に返った。

 感覚は左頬に走っていた、左を振り返ると、投球した後の姿勢の、紗代ちゃんがいた。彼女は、してやったりと、鋭い歯を輝かせている。

 水風船を投げられたのだと、僕は気づいた。

 そして、その瞬間に、紗代ちゃんの顔が向日葵の花だった。

 彼女の顔を見て、そこに目に焼き付いた向日葵の残像が、ぼんやり重なるのだった。

 少女のすこやかな身体の上に、向日葵が美しく咲いていた。太陽から産まれた天使のようだった。太陽から放たれた一粒のきらめきが、地上で暮らすための姿のようでもあった。

 紗代ちゃんはこれまでもこの姿であったと思えるほど、自然な幻だった。むしろ、はじめて彼女を目にするようだった。

 紗代ちゃんは高い笑い声をあげながら、身を翻して走り去った。

 白いワンピースの裾がはためいて、向日葵の迷路へと消えた。


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