三
猛暑の続く毎日で、ひときわ暑い白昼だった。
部屋の畳に横になりうだっていると、蝉の鳴きしきるのが遠く聞こえる。窓の向こうにぽっかり広がる青空には、夏の荘厳な雲が緩慢と流れていく。
窓を開け、扇風機を回しているが、いっこうに涼しくはならない。時折、どこかから風鈴のささやかな音色が流れてくると、暑さにささくれ立つ神経がひんやり静まるが、それも泡沫の気休めでしかなく、すぐに熱気が肌を包み心に蘇る。
風鈴の音が漂うたびに、僕と同じく横になっている由梨花ちゃんが「あ」と嬉しそうな声を出して、音の来た方を探るように開け放した窓へ目をやる。それもまたどことなく僕を涼めた。古い扇風機の前にぺたりと座る紗代ちゃんが、回転する羽に向かって「あー」と出す声が歪んで聞こえてくるのも、重苦しい暑さのなかで軽やかな可憐さだ。
そうやって、夏の匂いにだらだらと流されていると、ふと、扇風機の音と紗代ちゃんの声に交じって、虫の飛ぶ音がした。
見ると、窓から一匹の蜂が入ってきたのである。
「うおっ!」
僕は瞬時に身体を起こした。
紗代ちゃんと由梨花ちゃんが、同時に僕の方を振り返り、そしてすぐに蜂に気づいた様子であった。由梨花ちゃんは「きゃ」と短く声をあげて後ずさり、紗代ちゃんはすぐさまがばりと立ち上がった。
「でっかいなあ!」
紗代ちゃんが興奮した声で言う。
確かに大きい。丸々と肥えて、足もグロテスクに長い。蜂の種類など分からないが、東京では見ることのない大きさだ。
蜂は不気味な羽音を立てて、ふらふら彷徨いながら、ひるんで寄り添い合う僕と由梨花ちゃんへの方へ飛んできた。
「きた、きた」
由梨花ちゃんが怯えて言い、立ち上がり部屋の隅へ逃げる。僕も慌ててその後を追う。
しかし、紗代ちゃんは僕たちとは違った。
彼女は部屋中を見回して、床に置きっぱなしにしてあった自分の麦わら帽子を手に取った。
「なにしてるの」
聞くと、彼女は蜂をじっと睨みつけながら、
「なにって、捕まえるんに決まってるやんか」
「なに言ってるんだ、やめとけよ、危ない」
僕の制止の言葉は、彼女の耳には届かなかった。
紗代ちゃんはこちらを振り返ることもなく、びゅっと俊敏な動きで蜂へ襲いかかった。蜂が迷ったようにぶらぶら飛んでいる中空へ、麦わら帽子が振り下ろされる。
しかし捕獲は失敗だった。蜂は帽子をするりとかわし、刺激されたからか、羽音を高くして激しく飛び回り始めた。
由梨花ちゃんが僕のシャツの裾を、ぎゅっと掴む。
蜂は狂乱の飛行で、僕たちの方へ突き進んできた。
「ああっ、兄ちゃん」
叫ぶようにもらす由梨花ちゃんの、恐怖で固くなった肩を抱いて、僕は一目散に走り出す。狭い部屋のなかを縦横無尽に走り回る。蜂はその動きに余計興奮してしまったのか、ますます勢いづいて僕たちの後ろを飛び躍る。
「ああ、またこっち来た」
由梨花ちゃんの肩を引き、頭を掴んでしゃがませるたびごとに、彼女は弱々しく声を震わせて悲鳴をあげた。
一方、紗代ちゃんは蜂と同じように昂ぶった笑い声をあげながら、僕たちの後ろを追い回す蜂の後ろを追い回し、ぶんぶんと帽子を振り回した。
段々と息が荒くなってきて、もう逃げるのも駄目かと思ったその瞬間、遂に紗代ちゃんの捕獲が成功した。蜂は帽子のなかに囚われたのではなく、振るった拍子につばで打たれたのか、畳の上にまっすぐ落下した。ぽとりと、あっけなかった。
紗代ちゃんがしゃがみ込んで死骸を眺めた。
「足長いけど、ぶっといし、スズメバチかなあ」
彼女はそう言いながら、死骸を躊躇なく可愛らしい指で摘み上げて、つぶらな目を寄せる。
すると、僕の隣でさっきまで人形のようだった由梨花ちゃんも、おずおずとしゃがみ、死骸を観察した。
「あ、なんか出てる」
由梨花ちゃんは興味深そうに呟いて、蜂の腹から滴る淡い黄緑色の体液に指をのばした。細長く、女のゆるやかさのある小指を、そっとのばした。白い肌に微かに、体液が付着する。彼女は指を窓からさす日光にかざして、そのきらめきを珍しそうに見つめた。
あれほど大きな蜂に立ち向かい易々と殺せる紗代ちゃんは、言うまでもなく野生であろう。しかし、おののくばかりであった由梨花ちゃんも、死骸の体液のきらめきを罪のない眼差しで見つめるのだ。それもまた一種の野生だろう。清純な生命の華々しさだろう。都市の少女とは、まるで違う。
残虐な色彩に濡れ艶めく死骸を、観察し弄る二人の姿を、僕は立ち呆けていつまでも眺めていた。
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