二
優子さんから、虫よけスプレーを渡された。
「あんさんも、これやっとき。蚊に全身噛まれてまうで」
「ああ、どうも」
僕は言われた通りにして、その後に由梨花ちゃんにスプレーを渡した。それが紗代ちゃんにも渡り、全員がスプレーを肌に振ってから、僕たちは宿を出た。
優子さんの提案で、蛍を見に行くのだった。
彼女が子どもの時に一度行ったことのある近くの川辺だが、今でもいるのかは定かでないらしい。紗代ちゃんも由梨花ちゃんも行ったことがないというのを聞いていると、優子さんはそうは言わなかったが、客である僕へのもてなしの一つなのだろう。
夏の夜の湿った空気で、草の匂いが濃い。
由梨花ちゃんが歩きながらぽつりと呟いた。
「夜の匂いするなあ」
「せやねえ。嗅いでるだけで、むしむししてくるわあ」
優子さんが、団扇で隣の由梨花ちゃんに風を送りながら、頷いた。
「ええ匂いやねえ」
由梨花ちゃんがうっとりもらした。優子さんは微笑んで、
「あんたは、なんでもええ匂いやて言うなあ」
「だって、匂いって、なんでも気持ちええもん」
優子さんは、僕の方に向いて、
「この子、なんでもええ匂いええ匂いって言うんよ。昔はうちがお酒飲んでても嬉しそうに寄ってきてずっとお酒の匂い嗅いでたんよ」
「へえ、そうなんですか。僕はそんなところ見たことないな」
由梨花ちゃんが、こちらに視線を流す。
「だって、お酒の匂いは小っちゃい時から知ってるから、わざわざ嗅ごうとせんぐらい、もう慣れてんもん」
僕はふと、夜の明けきらぬ青い庭で、彼女が酒の匂いを漂わせる僕に、そっと鼻を寄せた日のことを、思いだした。眼だけで微笑むような、由梨花ちゃんの視線のせいだろう。
それを会話の流れに任せて優子さんに話すことは躊躇われた。由梨花ちゃんの眼差しの秘密めいた表情のためでもあり、また他の理由もあった。連想は更なる連想を誘って、彼女が僕の部屋に来て男の匂いがすると夢見がちに言ったことを、思い出したのだった。男の匂いを嗅ぐ姿の妖しさが、酒の匂いに浸る姿にも薄らと滲んで、口に出すのが憚られるような官能的な瞬間のように感じられるのだった。
黙り込むのも不自然な気がして、僕は心にもないことを言った。
「でも、確かにこの草の匂いはいいね。僕も好きだよ」
すると、僕たち三人の前を童謡を口ずさみながら歩いていた紗代ちゃんが、こちらを振り返った。
「草の匂い?」
「うん、今してる、この匂い」
「これ、草の匂いちゃうで、兄ちゃん」
紗代ちゃんが、こちらを向いて後ろ向きに歩きながら、真面目に言う。
「お月さんの匂いやで。満月やから、今日はいっぱい匂いする」
「へえ、月の匂いか」
僕は、思いがけない言葉に胸をつかれて、ぼうっと繰り返した。
どんなきっかけで生まれた錯覚かは知らないが、お伽噺のやさしさがある。
訂正する気など起きるはずもなく、なにも言わないでいると、優子さんも同じ思いなのか、ふふと微笑んだ。由梨花ちゃんは納得するように、空にかかった月を仰ぎ見ている。
僕もつられて、歩きながら夜空を見上げた。
月から星が舞い散っている。そう感じた。ほとんど丸い月があって、その欠片のように幾千もの星が光を放っている。星の鋭い輝きのなかで、月暈はぼうっとやわらかかった。夜空はところどころ白く染まりながら、それでも果てしない暗闇だった。雲はなかった。
目的地の細い川に着くと、蛍を探すよりもまず、水面に映る月に目がとまった。水のおだやかな流れに、月は儚く揺れていた。やさしいせせらぎが、月のささやきのようだった。水面に映る月暈のぼんやりした白は、ささやきの色だった。月光に染まる波が、天女の衣を織る銀の糸のように、清らかであった。
川辺に佇んでいると、優子さんが隣に立って言った。
「ごめんなあ、あんさん。もしかしたら蛍おらへんかもしれへん」
「え、そうなんですか」
「うちが子どもの時は、探さんでもそこかしこにいっぱい飛んでたもん。時期が悪いんかなあ」
優子さんは夜闇を眺めながら独り言のようにもらし、それから僕に顔を向けて、
「ごめんやで、わざわざ夜に外まで引っ張り出してんのに」
「いやあ、全然。この川の景色を見れただけで」
その時、蛍を探して由梨花ちゃんとともに少し遠くを歩いていた紗代ちゃんが、僕たちを呼んだ。
「母ちゃあん、兄ちゃあん」
こちらまで届く大きさで、しかしできるだけ静かに抑えようとする、間延びした声である。
二人の傍まで行くと、紗代ちゃんが川向こうの繁みを指した。
「今、あの辺に光見えてん」
紗代ちゃんは潜めた声で言った。
僕たちは四人とも息を押し殺した。
そして、目の前の暗闇をじっと見つめた。
川のせせらぎが、夜闇の底に流れついた。
水辺の草の匂いは、より濃く、どんより重く、鼻腔いっぱいに漂った。
どれほど経ったか、額に汗がしんしんと滲み始めた。僕は拭うこともせずに、ただただ、目を凝らした。草木は微かに月光に濡れて、死んだように静止していた。奥には月の光がささず、どこか誰も知らないところへ続いていそうな暗黒である。
果実を爛れさせるような熱風が、頬にじっとり滲んだ。すると草木がすすり泣くようにそっと蠢く。そして、たよりない風に乗るように暗闇にふわふわと浮かび上がる、緑の光があった。蛍だった。
誰からともなく嘆息がもれた。
蛍は風の消えた夜をゆるやかに飛んだ。光が薄らと糸を引き、煙のように浮かんでは儚く消えた。蛍は幾本もの糸で暗がりを彩り、川に垂れている水草の先端にとまった。水面には月があった。その傍に光が点った。月に小さな花が咲いたようであった。
蛍は再び飛んで、こちらへ漂ってきた。
「きた、きた」
紗代ちゃんが押し殺した声で、楽しげに呟いた。
蛍は、僕たち四人が寄り固まっている、その中心の隙間を過ぎていった。
由梨花ちゃんの斜め後ろにいた僕から見れば、淡い光が、由梨花ちゃんの横顔の、目の辺りを、飛んで消えたのだった。目尻に流れた仄かな光の線が、涙のようだった。澄み切ったかなしみの結晶に見えた。夜の闇のなかで、霧のような彼女の肌と、蛍のあわれな光は、清らかに溶け合った。
刹那の幻想のこの世ならざる美しさに打たれていると、蛍を追って振り返ろうとする由梨花ちゃんと、目が合った。彼女の目は、どんな夜空よりも、さみしかった。
彼女は、僕に秘かに微笑みかけて、蛍の去った方を振り返った。
僕も誘われて、同じ方へ視線を投げた。
蛍はもう消えていた。
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