三
珍しく、紗代ちゃんの起こしにこない朝だった。
それでも早起きの習慣がつきつつある僕は、目が覚めて窓からさす朝陽を見ると、もう眠れなかった。
顔を洗って飯を食おうと、階下におりた。
食堂の隣の居間に、話し声があるのに、気づいた。
聞こえてくるのは、老いた女と、優子さんの声である。
客の僕が、見知らぬ来訪者に、挨拶をするのもおかしい。かといって僕が起きてきたことに気づけば、優子さんは話を止めて僕の朝食の用意をするだろう。
僕はこっそり、食堂に入って座り、息を殺した。話し声が止めば朝食を出してもらえば良い。
向こうの部屋には、老いた女と優子さんの他に、紗代ちゃんもいるのが、襖越しの気配で感じられた。
「優子、あんたなあ。いっつもそんなことばっかり言うて。たまにはお母さんの言うこと聞きんさい」
「うるさいなあ。お母さんは神経質すぎるんよ。大丈夫よ」
女は、優子さんの母親らしかった。優子さんの声はいつもより幼げで、紗代ちゃんの声にも、由梨花ちゃんの声にも、どこか似ている。
「神経質て……あんたが大らかすぎるんよ。そのお客さんて、まだ高校生の子どもなんやろ?」
「ちょっと、お母さん、声大きい。起きはったらどないするんよ」
僕ははっとして、身体を強張らせた。
僕の話を秘かにしているのを、こうして盗み聞きするのはいけない気がしたが、しかし今から出て行くのも憚られる。かといって、部屋に戻って寝ていたふりをするのも、途中で気づかれそうでおそろしい。
結局僕は、じっと座り込んだままでいるしかなかった。
「だいたいなあ、お母さんの言う通り、高校生なんて子どもや。せやから、あの人が紗代とか由梨花にようしてくれはんの、お母さんがそんなに危ない危ない言うてる、意味がうちには分からへん」
「なに言うてんの、子どもやから危ないんやんか」
「なんで? ばあちゃん。兄ちゃんなんも危なないで?」
紗代ちゃんがいじらしい声で不思議そうに言う。
優子さんがそれに続けて、
「せやなあ。ええんよ、紗代はなんも気にせんで」
と、微笑みの見えそうなあまい口ぶりで言う。
すると紗代ちゃんの祖母は、優子さんの言葉など聞こえてないように、
「ええか、紗代。危なあ見えん人ほど、危ないもんや。他所から来た人なんか、なに考えてるか分からへんよ」
優子さんがすかさず、いつになく鋭い声で割って入る。
「ちょっと、やめてよ子どもにまで」
祖母は、優子さんの気迫に驚いたのか、一瞬言葉に詰まってから小さく答える。
「なんや、心配して教えたってんのに」
「押しつけがましいこと言わんとって。そんなアホなこと、うちの子に教えてくれんでよろし」
「うちの子て、紗代はうちの孫でもあるんや。なんかあったらたまらんわ」
「お母さんの孫であるよりも、うちの子や」
「おおそうや。あんたと、畜生の子や」
祖母が、憎らしげにそう言った、その瞬間。机を強く叩く音が響いた。
重い静寂が流れる。
優子さんが、声を震わせてゆっくりと呟く。
「お母さん、ええかげんにして。子どもの前で、怒鳴らさんといて」
「子どもの前で怒鳴らんで、どうする」
祖母は一応は言葉を返したが、もうすっかり、さっきまでの勢いは失っていた。紗代ちゃんの声もなかった。きっと、わけもわからず空気の重さだけを感じ取って、むっつり黙り込んでいるのだろう。
それから二人は、野菜の売値や山に出た大きな猪のことなど、他愛ない会話を、盛り上がりもせずに淡々と交わした。最後には、祖母が気まずそうに、宿を出て行った。
玄関まで彼女を見送った優子さんと紗代ちゃんは、居間に戻ってくるなり、気を紛らわせるような明るい声で、
「母ちゃん、今何時?」
「ええと、十時前やね」
「あかん、兄ちゃん起こしたらな。祖母ちゃん来たから、つい忘れてた」
「ちょっと待ち、紗代。あんた毎日毎日兄ちゃん起こしてるけど、迷惑とちゃうん?」
「迷惑ちゃうよ。だって兄ちゃん、いっつもすっと起きるもん。母ちゃんみたいに二度寝せえへんもん」
僕は襖越しに紗代ちゃんがそう言うのを聞きながら、微かに苦笑した。素早く起きるのは、そうしないと紗代ちゃんが、僕の睫毛を抜こうとしたリ、腹の上に飛び乗ったりするからだ。また、優子さんはそんなことをされてまで、二度寝に耽るのであろうか。
と、そんなことを考えている場合ではなかった。さすがに、もう隠れきれない。部屋に起こしに行くと誰もいない、というのは、あまりにばつが悪い。
僕は、いたたまれない気持ちで胸がいっぱいになりながら、襖を開いた。
「もう起きてるよ、紗代ちゃん」
そう言って僕は、曖昧に笑みを浮かべて、優子さんに会釈した。
優子さんは目を丸くして、ぽかんとしている。
その一方で、紗代ちゃんが驚きに勢いづいてはしゃぐ。
「うわあ、びっくりした! お化けか思った」
僕は、紗代ちゃんにも笑みで応えてから、すぐに優子さんへ向き直る。気まずさに襲われながら口を開く。
「すいません。僕の名前が聞こえて、ちょっと顔を出しづらくて……」
「はあ」
優子さんが、気の抜けた声を出してこちらをぼうっと見つめる。それからすぐ、目に生気が戻り、顔が薄く染まる。
「あ、ああ……」
言葉にならぬ声をあげて、
「き、聞いてた?」
「いや、まあ、途切れ途切れ、ですけど……」
そんなはずはないことは、優子さんにも分かったのだろう。彼女はますます気恥ずかしそうに目を伏せて、
「ごめんねえ。気い悪いこと聞かせて」
「いえいえ、そんな」
「うちのお母さん、厳しい人やから……」
「ええ」
僕は、優子さんのあまさを感じた。
盗み聞きされていたのに、不快げな様子を微塵も見せず、むしろ醜さを吐露したように恥じらっている。
それに、さっきの話でもそうだ。見知らぬ若い男への態度としては、優子さんよりも、むしろ祖母の方が、尋常の感覚であるように思える。
僕はふと、祖母の呟いた、畜生という言葉を思い出した。そう蔑まれるような男を優子さんは受け入れ、子を二人産み、そして今では、男はいない。これもまた、優子さんのあまさだろうか。優子さんの心のやわらかさで居心地よい生活を送るにも関わらず、こんな風に考えるのは悪い気がして、僕はもやつく頭を努めて空っぽにした。
「でもなあ、兄ちゃん」
紗代ちゃんが、胡坐をかいている僕の腿の辺りに座りながら、
「ばあちゃんもなあ、よう怒って怖いけどなあ、よう笑ってええ人やねんで」
紗代ちゃんの清純が、胸に涼しく流れた。
祖母や優子さんや畜生と呼ばれる男、そして僕、汚れたものの絡み合うなかで、紗代ちゃんの清らかさは眩かった。
優子さんと例の男から、この命が生まれたのは、ありがたい奇蹟に思えた。
父と母から生まれ落ちて、しかし父と母の汚濁に染まらぬのは、少女の神聖な力だ。
僕は微笑みながら、
「そうだね。いい人にきまってる」
と言った。
「優子さんのお母さんで、紗代ちゃんのお祖母ちゃんだ」
自分でも思いがけぬ朗らかな声であった。
優子さんも冴えた表情を取り戻して、話を変えるように、
「ああ、せや。あんさん、朝ごはんやね。すぐ用意するね」
と明るく言った。
「ああ、どうも。それでおりて来たんだった」
僕も同調するように笑顔で応える。
優子さんは紗代ちゃんに目をやり、
「ほれ、もうできてるから、運んでおいで」
「ええ? なんでうちが」
「ええから、ほれ」
優子さんは紗代ちゃんの肩を軽く叩いた。
紗代ちゃんが、不服そうに唇を尖らせて立ち上がり、ぱたぱたと駆けていく。
それを見送って、優子さんはこちらを向き直った。
「気にせんでね」
「え?」
「せやから、気にせんでねって。お母さんの言うたことね。いつまでも、ゆっくりしていってくれて、ええからね」
そう言って微笑む優子さんに、過ぎ去りし少女の頃にあったのであろう、弾けるような瑞々しさが、色褪せてちらついた。紗代ちゃんと同じ血の流れを、まざまざと目にするようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます