「雰囲気あるねえ」

 僕は呆然と呟いた。

 目の前には、一軒の色褪せた駄菓子屋がある。コンビニで菓子を買って育ったような僕には、初めてくるような趣の店だ。それなのに懐かしいのはどうしてだろう。

「そうかなあ。ただの駄菓子屋やん」

 紗代ちゃんが隣で小さく首を傾げる。

「いいや、すごいな。映画のセットみたいだ」

 僕は感嘆の息をもらした。

 そもそもここには、紗代ちゃんに連れられて来たのである。初めは特になんの感興もなく、誘われるがままに付いてきたが、こうしていざ店構えを目の前にしてみると、憧れに似た感傷がこみ上げる。付いて来て良かった。

 紗代ちゃんが戸を引いて中に入るのに、僕も続いた。

 古びた壁や棚と影が溶け合い、セピア色の薄暗がりである。木と線香と生活の匂いがする。土間に子どもの腰ほどの棚が設けられてあり、そこに駄菓子が所狭しと並んでいる。奥には台所が見え、土間からあがる和室には小さなちゃぶ台に仏壇、古ぼけたテレビと、誰かの家に遊びに来たように親しげな光景だ。

「ああちゃーん。おるんかー?」

 紗代ちゃんが声をあげる。

 するとどこからか、

「はあい。今行くなあ」

 と返って来た。

 待っていると、和室の障子が開いて、老婆が姿を見せた。髪はやさしい白さで、小さく曲がった身体に老人の可愛らしさがある。

 老婆は紗代ちゃんに目をやって、

「おお。よう来たねえ」

 と声をあげた。

 そしてそれから、僕の存在に気づいてこちらへニカッと笑いかけ、

「なんや、あんちゃん。紗代ちゃんのコレかい」

 と親指を立てた。

 思いがけない揶揄いに、僕が苦笑して首を振って答えると、隣で紗代ちゃんがすかさず張りのある声で言う。

「またしょうもないことばっかり言うて、この婆さんは。どつくで」

 すると老婆は演技がかった口ぶりで、

「おお、こわいこわい。そんなんせんでも、言うてる間に死ぬ老いぼれやっちゅうのに」

 彼女と紗代ちゃんが、二人して爽快な笑い声をあげた。

 老婆は框に腰かけながら笑い止んで、

「ほいで、誰なん、あんちゃん。紗代の親戚かなんかかい」

「いえ」

 僕が答えようとすると、紗代ちゃんが隣から、

「ちゃうよ。うちに泊まってる兄ちゃん」

「ほう、そうか。あのへぼ旅館になあ」

 老婆は僕へ、皺だらけの顔をくしゃっと綻ばせて、

「あんちゃん、よっぽど貧乏旅行なんやな」

 紗代ちゃんが鋭く口を挟む。

「ああちゃん、ええんやな、そんなこと言うて。知らんで?」

「冗談や冗談や」

 老婆は愉快そうに肩を揺らして笑い、僕に言った。

「あんちゃん、この子に悪うしたらあかんで。これはとんでもない悪戯娘やからな。うちなんか、さっきみたいにちょっとおちょくっただけでな、部屋に蛇投げられたことあるんやで」

「ふん」

 紗代ちゃんは小生意気に鼻を鳴らして、僕を振り返る。

「それはな、ああちゃんが、ああ、ああちゃんてこの婆ちゃんのあだ名やねんけどな、ああちゃんが悪戯したら面白いぐらいびっくりしよるからな」

「ほんまに、ひどい子やで。年寄りいじめて」

 そう言いながら、老婆の面持ちはやわらいでいる。紗代ちゃんの棘には、可憐な瑞々しさがあるからだろう。

「ああちゃんとしょうもない話しに来たんちゃうねん」

 紗代ちゃんは思い出したように言った。

「なに買おっか、兄ちゃん」

「なに買うって言ってもなあ。初めて見るものばかりで、迷うね」

「ああ、そっか。兄ちゃん駄菓子屋くんの初めてやねんな?」

「うん」

 後ろで、老婆が驚きの声をあげる。

「へえ、ほんまか。あんちゃん、どこの人な」

「東京です」

「ほええ。東京は駄菓子屋ないんかい」

「あると思いますけど、僕の育った辺りには……」

 そう言うと、紗代ちゃんが唐突に、僕の肩を叩いた。

「せや、ほんなら、うちがおすすめのもん選んだるわな」

「ああ、いいね。お願いするよ」

 老婆がケラケラ笑う。

「ええんか、あんちゃん。なに食わされるか分かったもんやあらへんで」

 僕も笑って答える。

「まあ、それもそれでまた一興です」

「ほうか。ええこと言うわい」

「大丈夫、兄ちゃん。ちゃんと選ぶよ。ただ、ここの店は腐ってるもんたまに置いてるからなあ」

 紗代ちゃんが悪戯っぽく八重歯をのぞかせて言うと、老婆が手を叩いて笑った。

「滅多なこと言うもんやないわい」

「ほんまやんか。兄ちゃん、これは冗談やないからな」

 紗代ちゃんはそう言いながら駄菓子を見て回る。

 少し待っていると、彼女はいくつかの商品を、框にどさっと置いた。

「はい。ああちゃん、これでいくら?」

 老婆は框に腰かけたまま商品を眺め、指を折ってぶつぶつと数を呟き、顔を上げた。

「ええと、三百十円やね」

「はいよ」

 紗代ちゃんは頷いて、僕の方を見る。

「やって、兄ちゃん」

「やって?」

「いや、だから、三百十円やって」

 ややあってからようやく、僕は紗代ちゃんの言わんとするところを理解した。金を出せと言っているのか。

 子どもであるから、金を出してもらうなど、当然のことなのであろう。目には媚態の弱さがない。ねだるあまさもない。ただまっすぐだ。

 僕はポケットから財布を出した。

 老婆がそれを見て、

「あんちゃん、そんな若くからヒモなんか持つもんやないで」

 と、喉の奥でさぞ可笑しそうに笑う。

「相手が子どもだからですよ。お小遣いみたいなもんです」

「はっは。ませたこと言いよるわ」

 僕が老婆に金を渡すと、紗代ちゃんが外に出ようと言った。

 暑いのに、と僕が躊躇うと、店の前のベンチを指す。ベンチは店の庇で陰になっている。

 ベンチに腰掛けると、熱のこもる店のなかよりも、かえって涼しい風が汗ばむ肌を撫でた。軒先に吊っている風鈴の音が、どこからか響く蝉の鳴き声のなかに、ちりんと咲いた。空の青は目に痛いようなあざやかさで、遠い悲しみのような、清々しい果てしなさだ。

「な? ここ座ってるんが一番ええんよ」

 紗代ちゃんは自慢げにそう言いながら、アイスを手に取った。

 木の棒の刺さった、水色の四角いアイススティック。二本が一つにくっついているのを、紗代ちゃんはポキリと一本ずつに割って、片方を僕に渡してくれる。

 舐めるとソーダ味で、切ない爽やかさがする。

「うん、美味しいね」

「せやろ?」

 紗代ちゃんは、まるで自分が褒められたかのように満面の笑みで、アイスに口をつける。大きな一口だ。鋭い歯が、獰猛にアイスを齧る。唇の周りまで濡れてぬらぬらと輝いているが、そんなことは気に留めず、むしゃむしゃと頬張る。今、接吻なんてすれば、清純な味がするのだろう。

「んー、うまいっ!」

 紗代ちゃんはぱあっと破顔して、

「うちな、ここ来たら、いっつもこれ食べんねん」

「いつも?」

「うん。夏も、冬も、秋も、春も」

「冬にも食べるんだ」

「当たり前やんか」

「アイスなんて、冬に食べても美味しさが分からないでしょ」

「んなことあらへんよ。寒い時に冷たいもん食うのも、美味しいもん」

 それは、紗代ちゃんのような美しい少女の、美しい味覚であるような気がする。

「昔は由梨花ともしょっちゅうここ来て、これ分け分けしてん。由梨花はこれ一本食べきらへんかったけどな」

 僕は、不意に由梨花ちゃんについて話した、紗代ちゃんを見た。

 悲しげではない。

 なんのきなしに、思い出したに過ぎないのだろう。

 もしかすると、彼女の魂には、過去へのあまい追憶などないのかもしれない。過去は過去であり、心に宿るのは今という瞬間の炎だけなのかもしれない。そう思わせる、麦の穂のように色づいた紗代ちゃんの横顔だ。

「由梨花ちゃんと、今では来ないの?」

 僕が聞くと、紗代ちゃんは変わらず気丈に、

「うん。昔よりもあの子、胸悪いから、あんまり」

「ふうん」

「まあ、言うてる間に治るやろし、たまには体調ええ時もあるし、行ける時また行こうって言うてるねん」

「そっか」

 僕は続けて、慰めの言葉をかけようとして、止めた。

 慰めに誘われて紗代ちゃんの心があまえてゆるめば、美の崩壊である。

 僕は黙ってアイスを舐めながら、横目に紗代ちゃんを見つめた。

 タンクトップから露わになっている薄い肩、ほっそりして長い首、太陽から生まれたような輝かしい褐色の肌、濡れた唇、それを荒々しく拭う小さい手、ぴいんと張り切った目つき……。

 すべてが、見ているだけで目のなかに閃光を散らすようであった。


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