夏の雨
一
夜、ふと目が覚めて、便所に立った。
済ませると、なんとなく気が冴えた。便所へと廊下を歩いていた時には纏わりついていた眠気も、既に消えた。
一階から、小さく声が聞こえた。
さっきからあったのに、寝ぼけて耳にとまらなかったのだろうか。それとも今初めて起こった声か。どちらにせよ、廊下の窓から見えるのは、未だ深い夜の闇だ。
僕は廊下にそっと佇んで、耳を澄ませた。
次第に聴覚も眠りから覚めるのか、徐々に声が判然と聞き取れるようになってきた。
「お母さん、お母さん」
切ない弱々しさで母を呼ぶのは、由梨花ちゃんの声である。
「大丈夫。お母さんはここにおるよ」
言葉では慰めているのに、あまえるような頼りなさの、優子さんの声だ。しかし、あまさゆえに、やわらかい。
「お母さん。どこ、どこ」
「ここおるよ。手握ってるよ」
咳き込む、掠れた息の音がする。軽い風邪の時に出る、鋭い力の漲った咳ではない。くたびれた喉からため息と一緒にもれるような力なさだ。
「お母さあん」
「どないした?」
「胸なでて」
「胸?」
「ぜえぜえするねん」
「うん。分かった。これでええか。ちょっと楽か」
「うん。ありがとう。ごめんな」
「ううん。大丈夫やで。大丈夫」
「お母さん」
「うん?」
「朝なったら、しんどくないかなあ」
「うん。お薬飲んだやんか。すぐ良くなるよ」
「ほんま? ほんまに?」
「うん、ほんな。この前も、すぐ治ったやんか」
「ああ、ほんまやあ」
由梨花ちゃんは春の空のような安堵の声で、しかし少し間があってから、怯えた悲しみへと不安定に変貌して、
「でもな。お母さん。あん時に治っても、今またしんどいやんか」
「そんなん……」
優子さんが言葉に詰まる。ほとんど涙に濡れそうな由梨花ちゃんの声が続く。
「また、しんどいやん。ほんならな、今の発作治ってもな、またしんどくなるの?」
「そんなん……。ならへんよ、ならへん。心配しいな」
優子さんの声も少し潤んでいる。
「大丈夫やからな。うん。大丈夫」
「お母さん。手握って」
「うん。握ってるよ。ほら」
「ああ、ほんまやあ。ありがとう。ごめんなあ」
「ううん。お母さんが、ごめんなあ」
娘を救えぬ母の悔恨は、惨たらしいほど哀れに響く。
暫くの静謐の後、由梨花ちゃんが不意に、
「お母さあん」
「はあい? ここにおるよ」
優子さんの応答に、しかし由梨花ちゃんは答えずに、荒い息で、
「はあ、はあ、お母さあん」
とまたあまえるように呼ぶばかり。
「うん。大丈夫やからね」
「うう、うう」
由梨花ちゃんは小さく唸って、
「紗代……紗代……おるん?」
「隣の部屋で寝てるよ。すぐ傍におるよ」
「紗代、お母さん。紗代、お母さん……」
由梨花ちゃんは、譫言のように繰り返して、
「怖いよお。はあ、はあ。怖い」
「うん、うん。大丈夫」
優子さんの声は、震えてほとんど言葉にならずに、ただ反応を示すばかりという風であった。涙は、見ずとも見えた。
それからも、由梨花ちゃんの儚い声と、優子さんのあまい慰めが、重なって繰り返された。
完全な静もりが来たのは、空がぼんやり青に移ろう頃であった。
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