二
断り切れず、手を繋いだまま連れられて行くと、少女の家は小さな民宿だった。
外観は一目にはこじんまりして古式な民家のようだが、表に、悠庵と書かれた看板が立っている。
僕は少女に言われるがままに、玄関をあがり、暗い廊下を進み、食堂らしき部屋に入った。二十畳ほどの和室で、六人ほどはかけられる卓が四つ置いてある。
「とりあえず好きなとこ座っといて」
少女は僕を部屋に案内してそう言うなり、駆け足で廊下へと消えた。
さて、どうしたものか。
流れにまかせているうちに、よく分からない状況に陥ってしまった。
見知らぬ村で出会った見知らぬ少女に連れられ、見知らぬ民宿に来てしまっている。
僕はざわつく胸をどうにか落ち着かせようと、なんとはなしに部屋の中を見回した。
床の間の掛軸は水墨山水である。山が霞み、小川がゆるやかに流れ、谷間にささやかな庵が佇んでいる。僕が入ってきたのとは反対側の障子から、陽がぼんやりと透け入って、やわらかく軸の表にさし、淡い墨の自然が微笑むようである。
深い静けさを味わっていると、廊下側の障子が開いた。
入ってきたのは、少女と、その後ろに大人の女である。少女はワンピースに着替えていて、女はエプロンを着けている。年の頃は三十にさしかかるかどうかくらいで、一本に結んだ長い髪の、その陰に見える首や肩に女らしい肉がついている。
おそらくは、少女の母であろう。この身体の温かい崩れ方は母の身体だ。
僕は立ち上がりながら、
「あ、どうも、すみません。急にお邪魔してしまいまして」
「いえいえそんな」
女は微笑んで手を振り、
「お兄ちゃんが謝らんといてください、どうせ、この子が無理言うて連れて来たんでしょう?」
「いやあ、僕もつい」
「ええんです、気を遣わんといてください。この子、村の外から来た人見たら、よう引っ張ってくるんです。すんません、アホなわがままに付きおうてもうて」
女の隣で、少女が目をキッと吊り上げる。
「なんやねん、ええやんか。みんなでおるほうがええやんか」
「せやけど、お兄ちゃんもお兄ちゃんで予定とかありはるんやから、無理言うて連れてきたらあかんやないの」
女に叱られて、少女はむすりと黙り込んだ。
その面持ちのあどけなさに僕がやわらいでいると、女が思い出したように、
「あ、言い遅れました、わたし、ここの女将で、この子の母親の、優子です」
と、深く頭を下げた。
僕も慌ててぺこりと礼を返して、
「安藤です、どうも」
「安藤さん、でっか。ほんまに、えらいすんませんでした、ご迷惑おかけして」
「いえ、僕も楽しかったので」
僕はそう言いながら、もう一度小さく頭を下げ、
「じゃあ、そろそろ」
「ああ、はい。どこまで行きはるんですか、せめてお見送りさせてください」
「いや、そんな、お構いなく」
僕と優子さんがそんなやり取りをしていると、少女が突然、大きな声を張り上げた。
「いや、兄ちゃん帰んの、いや」
優子さんが困ったように笑う。
「もう、わがまま言わへんの。お兄ちゃん困らせてどないすんの」
「いやや、いやや」
少女が、ぶんぶんと小さな頭を横に振る。
「母ちゃんと兄ちゃんと由梨花とうちと、四人でご飯食べんの!」
優子さんはほとんど泣き出しそうな困惑の面持ちで、
「もう、わがまま言わんとって。赤ちゃんみたいやんか」
と、少女をなだめる。
僕はふと、少女の髪の揺れに目が惹かれた。顎のあたりで切り揃えられた髪は、幼い女の子の髪らしく細く軽やかで、少女が頭を振ると扇のようにひらひらと揺れる。見ているだけで思わず微笑みがこぼれる。
「あの、すみません」
僕は優子さんに声をかけた。
「ここ、民宿ですよね?」
「はあ、そうですけど……」
優子さんが、少女を落ち着かせるようにその髪を撫でながら、こちらを振り返って頷く。
僕はできるだけ気さくな笑顔で、
「じゃあ、今日はここに泊まらせてください」
「泊まるって、お客さんとして、宿泊しはるんですか?」
「はい。それで、客として昼食をいただく……っていうのは駄目ですか?」
この申し出なら、少女もむずがらずに済むし、優子さんにも気を遣わせずに済むだろう。
それになにより、僕もこの少女と、もう少し一緒にいられる。
優子さんは、気を遣わせぬようにしようという僕の考えもくみ取ったように、目を細めて、
「そんな……もちろん大歓迎です。わたしからお願いしたいくらです。すんません、ありがとうございます」
と言い、少し過剰なほど深く頭を下げる。
その隣で、少女が大きい目でまっすぐこちらを見上げる。
「兄ちゃん、泊まっていくん?」
「うん、そうさせてもらうよ」
僕が頷くと、少女は弾けるような笑みを見せ、「うそやん! やったあ!」と繰り返しながら部屋中を飛び跳ねまわった。
それを眺めて、優子さんは呆れるように笑ってから、ふと僕の方を向き直して、
「でも、ほんまにええんですか。この辺やったら二、三件、他にも宿ありますさかいに、こんな小っちゃい宿やなくても……ちょっと行ったら、大きい温泉地もありますし……」
「いやあ、いいんです。あてもない気楽な一人旅ですから」
「はあ、ありがたいです、ありがとうございます」
優子さんは礼を言ってもう一度頭を下げてから、少女に向かって、
「ほれ、いつまで走り回ってんの。お兄ちゃんのご飯用意すんねんから、あんたも手伝いなさい」
と声をかけた。
優子さんは、廊下へ足を踏み出しながら僕に言った。
「ほんなら、ちょっと座って待っててください。すぐ出しますから」
「はい、ありがとうございます」
少女が、優子さんの後を追うように走って廊下に出ていく。去り際にこちらを振り向き、天真爛漫な可愛い声で言った。
「兄ちゃん、待っててな。うちが美味いもん作ったるわな」
「うん、期待して待ってるよ」
僕が言うと、少女は満足げに頷いて走り去っていった。
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