断り切れず、手を繋いだまま連れられて行くと、少女の家は小さな民宿だった。

 外観は一目にはこじんまりして古式な民家のようだが、表に、悠庵と書かれた看板が立っている。

 僕は少女に言われるがままに、玄関をあがり、暗い廊下を進み、食堂らしき部屋に入った。二十畳ほどの和室で、六人ほどはかけられる卓が四つ置いてある。

「とりあえず好きなとこ座っといて」

 少女は僕を部屋に案内してそう言うなり、駆け足で廊下へと消えた。

 さて、どうしたものか。

 流れにまかせているうちに、よく分からない状況に陥ってしまった。

 見知らぬ村で出会った見知らぬ少女に連れられ、見知らぬ民宿に来てしまっている。

 僕はざわつく胸をどうにか落ち着かせようと、なんとはなしに部屋の中を見回した。

 床の間の掛軸は水墨山水である。山が霞み、小川がゆるやかに流れ、谷間にささやかな庵が佇んでいる。僕が入ってきたのとは反対側の障子から、陽がぼんやりと透け入って、やわらかく軸の表にさし、淡い墨の自然が微笑むようである。

 深い静けさを味わっていると、廊下側の障子が開いた。

 入ってきたのは、少女と、その後ろに大人の女である。少女はワンピースに着替えていて、女はエプロンを着けている。年の頃は三十にさしかかるかどうかくらいで、一本に結んだ長い髪の、その陰に見える首や肩に女らしい肉がついている。

 おそらくは、少女の母であろう。この身体の温かい崩れ方は母の身体だ。

 僕は立ち上がりながら、

「あ、どうも、すみません。急にお邪魔してしまいまして」

「いえいえそんな」

 女は微笑んで手を振り、

「お兄ちゃんが謝らんといてください、どうせ、この子が無理言うて連れて来たんでしょう?」

「いやあ、僕もつい」

「ええんです、気を遣わんといてください。この子、村の外から来た人見たら、よう引っ張ってくるんです。すんません、アホなわがままに付きおうてもうて」

 女の隣で、少女が目をキッと吊り上げる。

「なんやねん、ええやんか。みんなでおるほうがええやんか」

「せやけど、お兄ちゃんもお兄ちゃんで予定とかありはるんやから、無理言うて連れてきたらあかんやないの」

 女に叱られて、少女はむすりと黙り込んだ。

 その面持ちのあどけなさに僕がやわらいでいると、女が思い出したように、

「あ、言い遅れました、わたし、ここの女将で、この子の母親の、優子です」

 と、深く頭を下げた。

 僕も慌ててぺこりと礼を返して、

「安藤です、どうも」

「安藤さん、でっか。ほんまに、えらいすんませんでした、ご迷惑おかけして」

「いえ、僕も楽しかったので」

 僕はそう言いながら、もう一度小さく頭を下げ、

「じゃあ、そろそろ」

「ああ、はい。どこまで行きはるんですか、せめてお見送りさせてください」

「いや、そんな、お構いなく」

 僕と優子さんがそんなやり取りをしていると、少女が突然、大きな声を張り上げた。

「いや、兄ちゃん帰んの、いや」

 優子さんが困ったように笑う。

「もう、わがまま言わへんの。お兄ちゃん困らせてどないすんの」

「いやや、いやや」

 少女が、ぶんぶんと小さな頭を横に振る。

「母ちゃんと兄ちゃんと由梨花とうちと、四人でご飯食べんの!」

 優子さんはほとんど泣き出しそうな困惑の面持ちで、

「もう、わがまま言わんとって。赤ちゃんみたいやんか」

 と、少女をなだめる。

 僕はふと、少女の髪の揺れに目が惹かれた。顎のあたりで切り揃えられた髪は、幼い女の子の髪らしく細く軽やかで、少女が頭を振ると扇のようにひらひらと揺れる。見ているだけで思わず微笑みがこぼれる。

「あの、すみません」

 僕は優子さんに声をかけた。

「ここ、民宿ですよね?」

「はあ、そうですけど……」

 優子さんが、少女を落ち着かせるようにその髪を撫でながら、こちらを振り返って頷く。

 僕はできるだけ気さくな笑顔で、

「じゃあ、今日はここに泊まらせてください」

「泊まるって、お客さんとして、宿泊しはるんですか?」

「はい。それで、客として昼食をいただく……っていうのは駄目ですか?」

 この申し出なら、少女もむずがらずに済むし、優子さんにも気を遣わせずに済むだろう。

 それになにより、僕もこの少女と、もう少し一緒にいられる。

 優子さんは、気を遣わせぬようにしようという僕の考えもくみ取ったように、目を細めて、

「そんな……もちろん大歓迎です。わたしからお願いしたいくらです。すんません、ありがとうございます」

 と言い、少し過剰なほど深く頭を下げる。

 その隣で、少女が大きい目でまっすぐこちらを見上げる。

「兄ちゃん、泊まっていくん?」

「うん、そうさせてもらうよ」

 僕が頷くと、少女は弾けるような笑みを見せ、「うそやん! やったあ!」と繰り返しながら部屋中を飛び跳ねまわった。

 それを眺めて、優子さんは呆れるように笑ってから、ふと僕の方を向き直して、

「でも、ほんまにええんですか。この辺やったら二、三件、他にも宿ありますさかいに、こんな小っちゃい宿やなくても……ちょっと行ったら、大きい温泉地もありますし……」

「いやあ、いいんです。あてもない気楽な一人旅ですから」

「はあ、ありがたいです、ありがとうございます」

 優子さんは礼を言ってもう一度頭を下げてから、少女に向かって、

「ほれ、いつまで走り回ってんの。お兄ちゃんのご飯用意すんねんから、あんたも手伝いなさい」

 と声をかけた。

 優子さんは、廊下へ足を踏み出しながら僕に言った。

「ほんなら、ちょっと座って待っててください。すぐ出しますから」

「はい、ありがとうございます」

 少女が、優子さんの後を追うように走って廊下に出ていく。去り際にこちらを振り向き、天真爛漫な可愛い声で言った。

「兄ちゃん、待っててな。うちが美味いもん作ったるわな」

「うん、期待して待ってるよ」

 僕が言うと、少女は満足げに頷いて走り去っていった。


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