しょうじょ
しゃくさんしん
水の光
一
眠りから覚めると、眩い日ざしが目に降り注いだ。
手をかざして日ざしを遮り、車窓を見やると、電車は山の中を走るらしかった。
木々が入り組んでいる。生い茂る葉が陽の光に艶めかしく濡れながら窓ガラスに微かに擦れている。すぐそばに迫るように繁茂する森林の他に見えるのは、絵具を流したようにあざやかな青空と、燦然たる太陽のみである。電車の走行音と微かなクーラーの風音に混じって、蝉の鳴き声が窓を透かし聞こえてくる。
僕は額に手をかざしたまま、窓際に置いていた缶ビールをもう片方の手で口に傾けた。車内は冷房で涼しいが、さし込む日ざしでぬるくなっている。それがよけいに、喉を流れ身体に入り、そのままふわりと酔いになるような感じがする。
若干の酩酊と電車の心地よい揺れに、再びまどろみかけていると、ふと、景色が開けた。
線路の左右に田園が広がり、その奥に小さな山が連なっている。田と山のきらめく緑は目のなかに光るように明るく、風を受けた葉や草が時折ゆるやかに揺れると光の波が走る。ぽつぽつと並ぶ民家はここから見ると玩具のようにささやかだ。村の風景を抱くようにして青空が高く広がり、夏の雲が熱気に奮い立つようにもくもくとのぼっている。
電車が停まった。僕は降車した。
小さな駅だった。狭いホームと古びた木造の駅舎だけがある。
無人の改札を抜け、駅を出る。
日ざしが鋭く降り注ぎ身体が焼け焦げるような熱気を浴びる。肌が清々しく痛む。一気に汗が全身から噴き出てくる。風はなく、蝉の声が鳴り響いている。
僕は当てもなく歩き始めた。
車窓を流れていた風景が次々と目の前に現れる。あぜ道の土は陽を撥ねて白く、田にそよぐ草は自ら輝くように瑞々しい。純潔なきらめきが目を洗い心までをも浄めるようだ。
少し歩くと、小さな橋に行きついた。あまりの暑さに、僕はよろめくように欄干にもたれかかった。
橋の下に細い川が流れている。陽を受けてきらきらと光の玉を散らしていて、深いが橋からでも底まで見透かせそうな清らかさだ。流れる音も聞いていて思わず息をつくような優美な静けさである。自然のささやきのようだ。
たとえその水に触れずとも、目で見て耳で聞いているだけで仄かに涼しい風が肌にも心にも吹くようで、僕は長らく欄干にもたれたままでいた。
しかし、その繊細な川の流れゆく音のなかに、突然、どぶんと鈍い音がした。
なにかが落ちたのだろうと身を乗り出して川面を覗き込んだが、なにも浮かび上がってこない。
不思議に思い、もう片側の欄干からも身を乗り出して見る。
すると、川を泳ぐ一人の少女が目に留まった。
少女は平泳ぎで水のなかを滑るように進んでいく。そして、川辺にあがると、犬のように身を震わせて全身を流れる水を散らした。
ここからだとあまりに遠くて背丈もよく見えないが、まだ中学生にもならぬらしいとは分かる小ささだ。スクール水着を纏う身体のつくりにも少女の細さがあるように見える。髪は短く、肌がよく焼けているのもあって、まるで少年のようですらある。
少女は川辺にあがるやいなや、傍の巨大な岩を、ひょいひょいと身軽にのぼっていく。
岩の頂が、川幅の中心の真上に突き出しているのを見ると、飛び込みでもしようとするのだろうか。なら、さっき僕が耳にした、水になにかが落ちるような音も彼女の飛び込みの音だったのだろうか。
それにしても、岩の高さは相当なものである。十メートルはあるのではないだろうか。これを、あの少女が飛ぶというのか。
なにとはなしに胸が昂る。僕は、好奇心に背中を押されて、川べりへおりていった。近くで少女の飛び込みが見たかった。
少女ののぼる岩がある、その対岸におりたつと、川の音は、大きくなってもなお清らかだ。水も近くで見ると薄らと青い透明で、この世のものではないように澄んでいる。
岩の頂を見上げると、ちょうど少女が姿を現した。少女は背に太陽を浴びて一つの黒い影である。
「なんなん、そこの兄ちゃん」
不意に、可憐な声がした。
一瞬どこから聞こえるのか分からなかったが、すぐに少女のものだと気づいた。少女は続けて、
「なんしてるん、そんなとこ突っ立って」
「ちょっと通りかかってね。君、今から飛び込むの」
「うん、そうやで」
「じゃあ見ててもいいかな?」
「うん、ええよ。ほんなら、うちも気合いれてとぶわ」
少女はそう言って、ふっと岩の奥へと消えた。
どうしたのかと思って見ていると、次の瞬間、少女がまた現れた。
少女は岩陰から走り出てきた。その速度のままトントンと岩を踏みしめ飛び跳ね躊躇なく空中へ身を投げ出した。水泳選手が飛び込むように逆さまになった身体が、一閃の雷光のような鋭さで風を切って落ちていく。
僕は見惚れて息をのんだ。蝉の鳴き声が止む。川のせせらぎが消える。刹那、すべての音が消え、少女の身体が風を切り裂く断末魔のような高音だけが響く。
少女の身体は、まっすぐ水面に斬りこんだ。
白く輝く水しぶきが舞い散り、水面がうねる。爆ぜるような音がして、一瞬の静謐が破れる。
太陽が目の前にあらわれたような、眩い美しさだった。
少女が、水面から顔を出した。
「どう、兄ちゃん」
得意げな笑顔である。
僕は答える言葉もなかった。
少女は、すいすいと僕の立つ川辺まで泳いできた。そして水から出てきて、
「どうしたん、アホみたいな顔して、なんか言いや」
「あ、うん……」
僕はぼんやりとしながら、
「すごい、感動ものだ」
「おおげさやなあ、ただの飛び込みに」
少女は目を丸くして僕の顔を見つめ、それから可笑しそうに頬を綻ばせた。ぴいんと張りのある唇から、尖った奥歯がきらりと光る。
近くで見ると少女は、遠くで見るよりも少年のようである。赤ん坊のそれのように丸い目も、水滴を弾く瑞々しい小麦色の肌も、水着からのびる女の丸みのない両腕も、暴れ舞う火花のような純潔な生命力が漲っている。それでも間違いなく少女だと分かるのは、胸のほんの微かな膨らみと、顔立ちの清純な可憐さゆえである。
少女は、しばらく物珍しそうに僕の顔を眺めていたが、すぐに飽きたように砂利の上に寝転んだ。
「はああ、ええ天気やなあ」
ひとりごちる少女の身体は、激しい陽を浴びて細かな光を無数に放っている。小麦色の肌が濡れ輝いている。内から光が溢れるようだ。
「兄ちゃん、どっから来たん?」
不意に、少女が思い付きのように取り留めのない口ぶりで聞いた。
「この辺で見たことないけど」
「ずうっと遠くだよ。東京から来たんだ」
「東京?」
少女が半身をがばっと起こして、こちらを見つめる。ひたむきな眼差しだ。
「ほええ。東京の人なんてはじめて見た。ほんまにおるんやなあ」
「そりゃいるさ。ファンタジーだと思ってたの?」
僕が笑って言うと、少女が突然、
「おお! その喋り方!」
と威勢のよい声をあげてこちらをまっすぐ指差す。
「兄ちゃん、それ東京弁やろ! テレビの人らとおんなじ!」
「ああ、そうか。標準語も初めてなのか」
「あ! また!」
少女は指差す手を激しく動かしながら、はしゃいだ面持ちで、
「もっと、もっと喋ってみてえや、ほら、はよ」
「もっとって言われても、改めて言われると何となく気恥ずかしいな」
「それそれ! すごいなあ。おもろいなあ」
少女は目を爛々とさせる。
標準語を聞くだけで楽しそうに手を叩いて笑う姿は、心にあたたかいいじらしさだ。
少女は標準語を真似て呟き、それに自分で笑い転げ、そんなことを何度も繰り返した。
ひとしきり笑ってから、少女は思い出したように、
「あ、そういえば兄ちゃん、なんでそんな遠いところから、なにしにきたん」
「ああ、それは、えっとね……」
僕は言い澱んだ。
灰色の生活から逃げ出すように旅に出たなんて、こんなあどけない少女には分かってもらえないだろうし、また言うにも憚られる。
「ほんの気まぐれだよ。学校も夏休みだし、退屈でね」
僕は答えになっていないような曖昧な言葉を返した。
少女は、よく分からないという風にきょとんとしたが、気を取り直すように、
「ま、ええや」
と軽く言った。
「兄ちゃん、いま何時?」
「え? いま?」
言われて、腕時計に目をやる。
「ちょうど、十二時になったばっかり」
「あ、ほなちょうどええな」
「なにが?」
「兄ちゃん、うちの家行こう」
少女が唐突に言った。
僕は、思わぬ誘いに耳を疑って、
「え? な、なんの話?」
「せやから、お昼やし、昼ごはん食べような」
「お昼ごはんって……僕が、君の家で?」
「うん、そう」
「いやいや」
僕は慌てて首を振った。
「それはダメだよ」
少女が口をぽかんと開けて首を傾げる。
「なんで? もう食べたん?」
「いや、食べてはないんだけど……」
「ほな、ぐずぐずしてんとはよ行こうな」
「でも、お家の人びっくりしちゃうよ、急に知らない人連れて帰ったら」
「大丈夫やよ。ええやんか、おもろいし」
少女はこだわりなく言った。
まさか、田舎では普通のことなのか? そんなはずもないだろう。
困惑していると、少女は駄々っ子のように唇を尖らせて、
「もうっ、ええやんかええやんか。はよう行こうな」
「そ、そんなこと言われても」
少女の火のついたような勢いに尻込みしていると、突然、少女が立ちあがって僕の手首を掴んだ。驚く熱さの掌だ。陽の光が残ってくすぶるのか、あるいは純潔な生命の発露か。
「ほら、はよ、お腹もすいたしぐずぐずせんといて」
「いや、そんなこと言ったって」
僕は仕方なく立ち上がりながら、それでも言葉では拒絶を崩さなかった。
そしてその時ふと、少女がスクール水着に裸足のままの姿であることに気づいて、
「っていうか、君、靴とか、着替えとかは?」
「え?」
少女は、自分の姿を見下ろした。
「ええんよ、そんなん。これできたんやもん」
当然のような、口ぶりだった。
少女の剥き出しの野生が、胸に響いた。
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