XI 予感
「『海に向かって叫ぶ夢を見た。何を叫んでいたのかは覚えていない。ただ、切り立った崖から、不安定な岩肌に足を置いて、何もかもを内包してくれそうな色をした海に何もかもを吐き捨てていた』──どう?」
「いいんじゃないでしょうか」
「今すごい棒読みだったね!?」
なんという雑な対応であろう。先輩に話しかけられているというのに文庫本からちらとも顔を上げやしない後輩の姿は、最早我が部室の風物詩であると言っても過言ではないほどに見慣れた光景ではあるのだが──そろそろ一年が経とうという五月を迎えても、若干凹まないと言えば嘘になる。いや、今更この後輩に、先輩という存在への配慮なんか求めないが……ちょっとくらい私の話に興味を持ってくれたっていいんじゃないだろうか。ちなみに後輩が今日読んでいる本は梶井基次郎の短編集『檸檬』で、先程覗き込んだら『冬の蠅』のところを読んでいた。……季節感に対する配慮というのはないのだろうか。
「いや、他に何を言えっていうんです? 文章を書かない俺に冒頭だけ言われたって良し悪しとか分かりませんし。強いて言えば、先輩が創作のことでスランプ以外の言葉を発してるのが珍しいですね、とか?」
「酷い言われようだ……しかしまぁ、今のだけでよくあれが新作の冒頭だって分かったね。さっすが、伊達に一年も私の後輩をやってないね!」
「分かりました、分かりましたからこっち来ないで下さいよ。鬱陶しいんで」
「……なんか後輩くん、今日いつにも増して私の扱い酷くない?」
「気の所為です」
さらりとそう言うと、後輩はさっさと読書に戻ってしまう。何だか癪だったので「ところで私、梶井基次郎は『闇の絵巻』が一番好きだよ!」などと言ってみたが、完全に黙殺されてしまった。
まるで一足飛びに夏が来てしまったかのような、そんな日和だった。桜が散ったと思ったらすぐこの暑さと日差しだ──これで蝉でも鳴いていたなら、夏だと言われても容易に納得してしまう。そういえば、一年のうちで一番日差しが強いのは五月だとどこかで聞いたような気もする……いや、それは紫外線の話だったか。その辺りはよく分からないが、深呼吸をすると微かに夏の足音が聴こえるのは確かだ。
本当に夏が来てしまえば、私はいよいよこの部室から去らねばならない。そう思うと、少しの焦りと、巨大な悲しみと、それ以上に質量を持った、切なさによく似ているがどうにも名状し難い感情に、すっかり心を占拠されてしまって──そのことを考えるだけで、何も手につかなくなってしまう。
その反動というかそれを誤魔化すためというか、最近の私は、可もなく不可もないような文章を量産してばかりいるのだった。
「ところで、後輩くん。さっきもさらっと言ったけどさ、君が入部してそろそろ一年になるんじゃない?」
「いつも思いますけど先輩って、人が読書してるのに容赦なく話しかけてきますよね。確かにそろそろ一年……というか記憶が確かなら今日でちょうど一年だったと思いますが」
「それは後輩くんが話しかけても本から顔も上げないから意地になって何回も話しかけるんだよ。ていうかよく覚えてるね」
「記憶力は良い方なんで」
彼の先輩をして一年ともなれば、少し得意げな後輩の表情の微細な変化に気付くのだってお手のものである。……彼の感情については、未だに分からないことばかりだが。
「あっ、入部一周年祝いしようよ。お菓子パーティー的な」
「嫌です」
「すっごい即答したね……」
「この間花見したばっかりじゃないですか。あと先輩がお菓子食べたいだけでしょう」
「…………ちょうど入部一周年だからって、素っ気なさとかノリの悪さまで入部当初並にならなくていいんだよ?」
「ノリ良くなった覚えはないんですが」
……確かに。
彼にあえなく断られた行事の数々を思い返し、私は深く納得した。よくよく記憶を辿ると、お花見を除いた行事に乗ってもらえたことはこの一年で一度もない。お花見だって部室でお茶を飲んで窓から桜を眺めただけだし、半分くらい断られたようなものだ。
「そんなことより、新入部員が一人も入らなかったこの部の未来でも憂いた方がいいんじゃないですか?」
「うぐっ」
痛いところを突かれて、私は思わず言葉に詰まる。
「来年は新入部員なんて到底望めないですし、今からでも部員勧誘に勤しんだらどうなんです」
「なんで自分は勧誘しない前提なの!?」
「や、ほら、俺そういう積極的が求められるものは無理なんで」
「私だってそうだよ! 後輩くんが入った時も部員募集の張り紙しかなかったでしょ!!」
「本当にあれしかしなかったんですか……? てっきり俺が知らないだけかと……」
呆れたように言う後輩。
逆に、どうして部員勧誘なんて積極性とコミュニュケーション能力が求められるものが出来るなどと思ったのだろうか。だいたい、そんなものが備わっているのなら文芸部になど入っていない。何せ小説なら部活に入らずとも家で書けるのだ。……まあ、結果として後輩と出会えたので、この部で良かったと思ってはいるが。
「って、今年はポスターすら貼ってないですよね」
「いや? 貼ってあるよ。去年のを剥がしてないからね」
「……やる気あるんですか?」
実はそのポスターも二つ上の先輩が書いたもので、一昨年から貼り替えられていないことは内緒である。この分だと来年も貼り替えられることはないだろうが……うん、物を大切にするのは良いことだ。たぶん。
「いやぁ、困ったねぇ後輩くん。廃部だよ廃部」
「困ってなさそうに言わないでください。先輩はいいかもしれないですけどね、俺は先輩が引退した後どうしたらいいんです?」
「卒業までは顔出したげるよ。で、来年は頑張って部員勧誘だね!」
「今廃部って言ったじゃないですか。あと来なくていいんで受験勉強に励んでてください」
「酷いなぁ……そこは喜ぶところだよ?」
「俺に忖度が出来るとでも?」
後輩はそう言って、話に飽きたように文庫本を開いた。私も、この部と忖度を知らない後輩の将来を憂いながら、渋々大学ノートに向かう。
──しかしまあ、後輩には「廃部だねぇ」などと軽々しく言ったものの、私は、私がこの部を去ってからのことが正直気に掛かって仕方がなかった。否……正確には文芸部そのもののことではない。
後輩のことである。
冒頭でも言ったとおり、タイムリミットは刻々と迫っている。旧暦五月はもう夏の盛りだし、私たちの暮らす現代だって初夏と呼ぶに差し支えないくらいの気候だ。窓の外からはもう、夏の影が差している。
否が応でも、いずれ訪れる季節のことを考えさせられてしまう。
今ここに日常として存在している、後輩との時間。狭い狭いと文句を言い続けた部室。それらが非日常になることの怖さを一度経験してしまったが故に、近い将来訪れる終わりが、不意に酷く悲しく思える。突然足元を冷たい風が吹き抜けるような、底知れぬ寂寥のようなものが胸を満たす。
私の感情のことも、後輩の感情のことも、何もどうにもなっていないというのに。
焦燥感だけが募るばかりで、私は、今日も日常に縋っている──残り少ない時間を、何も出来ず、曖昧にすり減らしている。
きっと、まだ怖いのだ。後輩の中で、自分が何か決定打になってしまうことが。秒読みのように迫る夏の足音に、怯えている私がいる。もう後輩の前から逃げ出すにはとっくに手遅れだと分かっているのに。──後輩にあの物語を読まれた以上、何も知らないことにしてくれる後輩の優しさに、後輩の忖度に、甘えているだけだというのに。
逃げ道なんてとっくになくて、私は、私の感情に責任を取らなければならないのだ。
そんなことはずっと前から、後輩が部室に戻ってきてくれたあの時から、分かっていたことだった。何ならこの時間に終わりがあることは、後輩が入部した時から当たり前に分かっていたことだった。
……そんな当たり前のことがこんなに悲しいなんて、どうかしているに決まっているのだ。
およそ、この感情と、夏が連れて来る郷愁もどきのせいなのだろうが──
「…………先輩?」
「後輩くん」
顔を上げる。
夏が近付くとどうにも感情が脆くなって駄目だ。心の一番奥の繊細な場所、敏感な部分がいとも簡単に剥き出しにされて、こんなふうに感情が溢れてしまう。
……だから、夏は好きではないと、言っているのに。
「どうもしないよ」
後輩に気取られぬように、制服の裾で滲みかけた何かを拭って。
本当にろくでもない季節だ。少しだけ表情を滲ませた後輩のレンズ越しの瞳とか、読みかけの文庫本とか、傍らに置かれた校閲用の赤鉛筆とか──そんなものに、また胸が高鳴っている。
この感情の危うさを、一年かかって嫌というほど知っても尚──。
──静かな夏の影に身を浸す。
忍び寄るように近付く青嵐の気配に、性懲りも無く、これから何かが始まる予感がした。
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