Ⅹ 花と団子と君と
「世界が終わる前にしたいことは──って聞かれたら、後輩くんはなんて答える?」
──四月。
新学期の準備なのか、時折、ドア越しに教員たちの忙しない足音が通り過ぎる。そんな中私たちは、ネタ出し大学ノートと文庫本を長机に置いて、家から持ってきた緑茶を呑気に啜っていた。
そう。──花見である。
「…………、はい? 唐突なのは今に始まったことじゃありませんけど」
例によって特に意味はない。ただ単に、話題に詰まったのだ。後輩は呆れたようにこちらを見ているが、パッと思いついた話題がこれだっただけなのだからそんな目で見られても困る。
──お察しのとおりというか何というか、花見をしよう、と言い出したのは私だった。
桜をテーマに短編小説が書きたかったのと、例によって急な思いつきと、あとは単に緑茶が飲みたかったのだ。これで団子のひとつでも用意できれば最高だったのだが、残念ながら近所のコンビニでは団子を売っていなかった。
それから、私はそこらの公園まで出掛けようと言ったのだが──折角春休み中の部活なのだし──、出不精の後輩に「桜ならそこの窓から嫌ってほど見えますよね?」などと風情も何もないことを言われてしまい、そちらも断念せざるを得なかった。非常に無念である。
「ああ、もしかしてアレですか。最近ニュースでやってる、どっかの民族の終末予言みたいな」
「えっ、嘘。そんなのやってるの?」
首を傾げる私に、後輩はちらと壁の方を見遣りながらため息をつく。
「……先輩って、ニュースとカレンダーは見ない人ですか?」
「………………、あっ」
してやられた。
涼しい顔で茶を啜る後輩と悔しがる私という構図は、なんというか、あまりにもいつも通りだ。
後輩が先程見遣った壁を見ると、そこには去年の夏からめくることを怠ったままのカレンダーがかかっていた。──なるほど、存在自体を忘れていた。そりゃあ万愚説にも気付かない訳である。
もう慣れたことではあるが、それでも少しばかり癪だったので、エイプリルフールについては一言も触れずに話題を変えてやることにする。もっとも、さっきから話題が長続きせずころころと話を変えた結果、冒頭のようなよく分からない質問をするに至ったのだが。
「四月だねぇ、後輩くん」
「そうですね。というか、だから花見をしようって先輩が言ったんじゃないですか。『四月だからお花見しようよ、後輩くん!』って。まったく、接続詞の使い方おかしいですよ」
「前にもこんなことを言った気がするけど私の真似があまりにも似てないし、あと四月とお花見はそこそこ繋がってると思うんだけど」
「そうでもないかと」
この素っ気なさもいつも通りだ。そしてずっと気になっていたのだが、後輩がちっとも桜を見ていない気がする。
私は茶を飲みながら、気のない声で他愛のない話題を続ける。
「ほんと素っ気ないんだから。高校二年生の四月なんだよ? 後輩くん。なんかこう、もっと青春を謳歌しなきゃ」
後輩も後輩で、気のない声で応じる。
「……わざと言ってるんですか? それに先輩、知ってます?」
「なんだい、後輩くん」
「『青春』って元々、古代中国の陰陽五行説で『春』の色に当たるのが『青』だったから使われている言葉なんですよ」
「何それ初耳なんだけど」
「ちなみに残りは、夏、秋、冬の順に
「えっ待って、えっと、秋風だっけ?」
「正解です。『白』い風で秋風。たぶん他にもそれが由来の言葉があると思いますよ」
どこか得意げに、出処不明の謎知識を披露する後輩。一体何をして生きていたら古代中国の陰なんとやらのことなど知るというのだ。
「なんでそんなこと知ってるのさ......そういうのどこで知るわけ? っていうか、そんな野暮なこと言わないでよ」
「野暮かどうかはさておき、今の話なら古典の授業でやった筈ですけどね」
「私が知ってるわけないでしょ。古典の時間なんかずっと執筆してたんだから」
「なんで偉そうなんです?」
まぁそんなことだろうとは思ってましたけど、と後輩は半眼で茶を啜る。そんな呆れたような顔をされても、授業でちょっと触れた程度の雑学を覚えている方がおかしいのだ。例え授業中に執筆していなかったとしても覚えていなかったに決まっている。
特に何が起こるでもない、ただひたすらに穏やかな春の日の午後だった。微かな微睡みの中に身を投じてしまいたくなるような温い空気が、狭い部室で滞っている。いつもなら暴力的なまでに満開の桜に何か別のものを感じて短編の一本でも書けたことだろうが、今日ばかりは流石の私の感受性も、平和ボケしたように春眠暁を覚えずに居る。
……そして、後輩の若干眠たげな表情というのは、少し──否、かなり、貴重なのであった。
そんな私の視線に気付いたのか、唐突に後輩が湯呑みから視線を上げる。聞かれてもいない言い訳の言葉を慌てて探す──が。
先に声を発したのは、後輩だった。
「先輩」
「うん? どうした後輩くん」
こんな春の陽の中で聞くには、少しばかり硬い声音だ。少し空いた間が居心地悪くて、湯呑みを両手で覆ったりしてみる。
当の後輩はというと、自分から話しかけた割に窓の外の桜を見たりなんかして、続きを話す様子がない。痺れを切らして私の方から口を開こうとすると──まるでそれを知って遮ったかのように、また後輩が先に言葉を発した。
「…………いつも、こんな感覚を抱えて生活してるんですか」
誰が、とは言わない。
ただそれは、まるで以前の彼のような──何の感情も読み取れない声音で。
しかし、何かを意図的に隠すような、そんな声音だった。
「こんな、っていうのは──」
「俺に説明出来るわけないでしょう」
「なんで偉そうなのさ」
後輩の慇懃な態度はどうやら平常運転らしい。おかしいのとほっとしたのとで、思わず軽口と共に笑ってしまう。後輩もつられたように、少し笑みを零した。
「いや、こうして桜を眺めていて──何か、前に話したような、胸の底に巨大な何かが溜まるような感覚があって」
「うん」
「でも、あの時のように悪い感覚ばかりではなくて。──それが、もしかしたら、先輩の言うところの季節情緒なのかな、と思ったんです」
──たぶん、それは違う。何か別の感情だ。
直感的に、そう思った。私のような人間はたまにどうしようもないくらいの情緒の暴力に殴られてしまうこともあるが、恐らく大多数の人間にとって季節の変化なんて些細な問題だ。最近になってやっと感情を自覚した後輩が、そういうものに何かそこまでのものを感じているとはあまり思えなかった。
ただ、それが何の感情なのかは──勿論、分かる筈もない。
「………………もしかしたら……そう、かもしれないね」
当たり障りのない言葉に逃げる。
今になって──今更になって──後輩の内面に踏み込むことを、後輩のことを読み違えることを、酷く恐れている自分がいた。
私などが後輩に深く関わりすぎてしまうことが、とても怖くなっていた。
後輩の感情が見えそうになればなるほど、何か自分が取り返しのつかないことをしてしまいそうで──あの小説を書き上げてしまった時のように──、他の誰かに何もかもを委ねてしまいたくなる。逃げ出してしまいたくなる。誰かが、自分よりずっと上手く、後輩の感情を名付けてくれればいいのに、と思う。
……なんて、無責任な話だが。
口の中で「冗談だよ」と、後輩には聞こえない声量で呟く。
「……ま、俺に情緒なんて分からないですけどね」
私の曖昧な言葉に、後輩は困ったような笑みと共にそう言った。
……この後輩に気を遣われるようではお終いである。そして、彼のこんな表情もやっぱり初めて見るそれで──高鳴る胸は罪悪感以外の何も生みはしない。
窓の外で舞い散る桜の色が度々この感情に喩えられるのを思い出して、私は、何故か酷く悲しい気持ちになった。
──そんな気分と、少し気まずくなった部室の空気を払うように、私はつとめて明るく言う。今日は花見で、今は春だということを思い出すような、そんな調子で──言う。
「さてここで問題だ、文芸部員! 花見の場において、後輩くんみたいなのを何て言うでしょう?」
「花より団──…………違いますからね?」
「意味的には合ってるじゃない。風流よりも実利を取ること、って」
「そうですけど食い意地張ってるみたいなんで嫌です」
妙なところでむきになる後輩の様子が可笑しくて、私はまた思わず笑ってしまう。後輩もまたつられたように笑った。
急拵えで取り繕っただけの、そんな日常だ。何も解決してはいない。
ただそれでも──窓の外に見える、淡色の空や薄桃色の懸想文や。
生命芽吹く季節の全ては、輝いていた。
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