Ⅵ あの夏の日の記憶(前編)
都合の良いお伽話に、夢を見ていた。
全ては私が勝手に見た虫のいい幻想で、私がひとり先走っていただけだった。
思いつきのシナリオ通りに上手く事が運ぶもの、と根拠もなく信じてしまった私の自分勝手──そして、ともすれば後輩への思慮さえ皆無だったかもしれない、自己満足。
或いは、事の大きさを理解していなかった、極楽蜻蛉の愚行。
だって、そうでもなければ──鍵もかかっていない無防備な引き出しに、あの原稿を置いて帰れるものか。
「今から私が綴る物語は、きっと時限爆弾だ」──己が書き上げてしまった物語の危うさを、自分でもよく分かっていた筈だ。
それなのに。
「......どうして」
足先から芯まで冷え切った身体を抱えるようにして、部室の壁にもたれて座り込む。
制服越しに伝わる冷たい壁の感触が、追い討ちのように私の身体から体温を奪ってゆく。
長机に掛ける気にはなれなかった。向かいの空席を見るのも、あれから触れていない退部届を見るのも、とてもじゃないが耐えられる気がしなかったからだ。
それに、退部届に書き添えられたあの一言。あれが、彼からの緩やかな拒絶だと思うと──気遣いや忖度といったものを知らない筈のあの後輩からの、優しさに包まれた拒絶なのだと思うと──それは、あまりにも残酷で、あまりにも無慈悲だった。
なんて──なんて、らしくもない去り方をしてくれたことだろう。
去るのならいっそ、最後まで無神経でいてくれたら良かったのに──何時か、私の定期考査の順位を馬鹿にしてきた時のように──何時か、年功序列など都市伝説だと宣っていた時のように。
勿論彼が本質的には無神経などではないことは分かっていたが、そんなことを考えずにはいられなかった。
そもそもどうしてこんなことになってしまったのか──さして働いてもいない頭で、私は考える。
直接的な原因ならば、それは間違いなく、事が起こる前日──部誌の執筆内容について散々話したあの日──、私が暴走して書き上げたあの物語を、後輩が読んでしまったことだろう。今の私には、あれを読んでしまった後輩の感情の機微を最大漏らさず想像してやることなど出来ない。だが、多少の検討をつけることは出来る──何らか、この部室から去りたくなるような感情を抱いたのだろう、と。それが嫌悪なのか戸惑いなのか、はたまた別の感情なのか、それを知る由はない。何にせよ後輩は、この部室から去ったのだ。
だが、間接的な原因──それが、私の、この感情にあるのではないか、と。
私があの後輩に向けている、恋愛感情にあるのではないか、と。
そんな考えに至ったのだ。
実際に彼の為になっていたかどうかはさておき、彼に淡い感情を向ける少女である前に仮にも彼の先輩である身として、なるべく彼の迷子の感情探しの助けになるよう心掛けてきたつもりだった。なるべく彼の為になるように、努力はしたつもりだった。
けれどそこに、彼が見つけた強い感情の向く先が私であって欲しい、と──身も蓋もない言い方をするならば、私を好きになって欲しい、と──そんな私情、願望、もっと言うなら欲望、それらが混じっていなかったと、言い切れるだろうか?
言うまでもなく、否だ。
寧ろ、動機の半分くらいはそれだったと言える──もしかしたらその感情が動機そのものだったかもしれない。
──そもそも、彼が感情を知ったところでどうなるというのだ?
晩夏の日に考えたではないか。彼はあのままでも良い、と。知らなくてもいいのかもしれない、と。
彼の感情探しを手伝ってやるなどと宣って。
それは、本当に彼の為だったのか?
恐らく何らか感情を自覚してしまった後輩に、取り返しのつかないことを、してしまってはいないだろうか?
そして、私が本当に彼の為だけを思って、私情抜きで動けていたのなら──こんなことには、ならなかったのではないか?
そんなことを考えるのはよそう、彼の感情の機微にまで責任を持とうなんて傲慢だ──分かってはいるのだが、どうやら私の思考は留まるところを知らない。
冷え切って感覚を失ってゆく指先に、じわじわと自責の念が染み渡ってゆく。
ふと顔を上げるとすっかり日は傾いていて、部室は少しずつ夜の影に侵食されていっていた。うず高く積まれた部室の山が、だんだんに影絵へと変わってゆく。
けれども私はどうしても蛍光灯をつけに行く気になれず、再び膝に顔を埋めた。
──視覚からの情報をシャットアウトすると、後輩が部室から去る前の出来事たちが、嫌でも脳裏に浮かんできた。
部誌。進まない原稿。他愛のない世間話。朽葉四十八色。高くなる空。吹き込む涼風。郷愁。晩夏。形を忘れてゆく入道雲。ヒグラシ。文庫本。雨樋伝いに覗く朝顔。咽せ返るような古紙の香り。抜けるように透明な蒼。
そして、五月蝿いくらいの蝉時雨──。
耳の奥で蝉の声が鳴り出す。夏の香が蘇ってふわり、と鼻を突く。
押し寄せる追憶の波に、私はただ身を任せた。
全ての発端となったのは、やけに空が綺麗な、とある七月の晴れた日のこと──。
◆
「おはようございます」
縦付きの悪い引き戸を開けると、篭っていた熱気と古紙の香りと共に、後輩の声が私を出迎えた。
「おはよ。もう来てたんだ、早いね」
「ええ、まあ。夏休みの活動時間、教えてもらってないんで」
「あっ。......ごめんよ、後輩くん。すっかり忘れてた」
夏休み初日。
期末考査からも解放され、夏季課題の提出もまだ遠く、ただどこまでも高く澄んだ夏空と白く光る入道雲に高揚感を抱いていればいいだけの、夏の盛りである。
まだ午前中だからなのか、蝉の声は比較的大人しい。高揚感と共に胸をざわつかせる郷愁は見なかったことにして、私は床にスクールバッグを放り出した。
「いやぁ、夏休み初日から暑っついねぇ、後輩くん。ちなみにいつからここにいたの?」
「一時間くらい前です」
「そりゃ申し訳ない......。あっ、アイスでも買って来ようか?」
「結構です」
後輩の返事は素っ気ない。
彼はこの春から文芸部に入部した、たった一人の後輩だ。彼がいなければ間違いなく文芸部は廃部になっていただろう──有難くない筈がない。先輩として、後輩と仲良くやりたいという気持ちも大いにある。
だが、無表情な彼は何を考えているのかよく分からず、口数も少ないので言葉から感情を汲むことも出来ない。無遅刻無欠席で真面目に部に顔を出す割には毎日長机に腰掛けて本を読むばかりで、筆を取る様子も一向にない。あまりにも接し方が分からないものだから、悪いとは思いつつも私は彼に対して少し苦手意識を抱いていた。
「ねぇねぇ後輩くん、何読んでるの?」
「太宰の『人間失格』です」
「こんな爽やかな夏の日に太宰ねぇ......まぁ好きだけど、太宰。後輩くんも太宰好きなの?」
「いえ、特に」
「そ、そか。......好きな小説家とかいないの? 私は小川洋子とか好きだけど」
「......執筆しなくていいんですか?」
お手上げである。
入部当初はここまで愛想のない奴ではなかった気がしないでもないのだが──雑な対応は、彼なりに馴染んでくれていると取っていいのだろうか。或いは彼に嫌われているのだろうか。嫌われるほど会話を出来た覚えもないのだが。......さっぱり分からない。
そもそもの話、文芸部などに入っている時点でお察しだろうが私だって会話が得意な部類に入るとは言い難いのだ。加えて、中学校では帰宅部だった為、今までの人生で後輩というものがいたこともない。物語の中でよく描かれる「先輩」像に沿って私なりに振舞ってみてはいるのだが、こうも後輩に素っ気なくされるといい加減心が折れそうだ。
ただ、あくまで私の憶測に過ぎないのだが──それも、人付き合いの多い方とは言い難い私の、だ──、どうも彼は、
だから一応先輩として、その辺りは気にかけてやるべきなのかな、とは感じている。そんなわけなので、私がここで折れるわけにはいかないのだった。
「もう、本当に後輩くんはつれないなぁ。少しくらい先輩の雑談に付き合ってやろうって気にはならないの?」
「や......特に話すこともないですし」
「目的もなく話すのが雑談でしょうに......まあいいんだけどさ。──でもほら、純粋に一文芸部員として、後輩の好きな小説家くらい気になるものじゃない?」
「.....そういうもん、ですか」
「そそ。そういうもんなの」
そういうもん、なのかどうかは、正直私も知らないが。
──黙ってしまった後輩を待つ間が所在なくて、窓の外に視線を遣る。
雨樋に絡みついた朝顔が一輪、顔を出しているのが見えた。徐々に五月蝿くなりだした蝉の声が、白く光る入道雲に木霊している。
夏はあまり好きではない。
根拠のない郷愁の中に詰まっているのは、ただ肌にまとわりつく熱気と、夏草と高い空の間に広がる空虚で──それらは、何時からかぽっかりと空いてしまった私の胸の空洞を、いたずらになぞるばかりで決して満たしはしないから。
毎年懲りずに襲い来るこのどうしようもない郷愁を、どうにかする為の名前が欲しい──。
「──......アガサ・クリスティです」
一瞬、蝉の声が止んだ。
驚いて窓から視線を戻すと、後輩は、珍しく文庫本を閉じてこちらを見ていた。
「というか全体的にミステリは好きです。あとホラーもよく読みます。比較的淡々としている気がして。基本的には何でも読みますがね。──小林泰三って知ってますか?」
そこまで一気に言うと、後輩は、ふいと目を逸らし、閉じた文庫本の表紙に視線を落としてしまう。
──初めて彼と、会話らしい会話をした気がした。
少なくとも彼が文庫本を閉じ、こちらを見て、会話をしようという姿勢で会話に応じてくれたのは初めてだった。
そして何より、無表情で全く読めない彼に、好きとか嫌いとか、そういう感情が備わっているという当たり前のことを知れたのが──とても、嬉しかった。
込み上げる嬉しさと持ち上がろうとする口角を抑えながら、私は会話を続ける。
「ううん。恥ずかしながら存じ上げない」
「そうですか。面白いですよ」
「ほんと。......特にどれが面白いとか、ある?」
「あ、じゃあ明日持ってきますよ」
「おお!そりゃ嬉しいな。ありがと、後輩くん。楽しみにしてるよ」
「いえ」
なんてことのない、日常の雑談だった。けれど私にとっては、大きな意味を持つ雑談だった。
彼が入部してからずっと他人だった私と彼が、やっと、部活の「先輩」と「後輩」になれた気がした。
そして沸き起こるのは、純粋な好奇心──無表情な後輩の内面や感情が垣間見えるのが、面白くて。
後輩のことをよく知るのを、この夏休みの目標にしてやろう、と思ったのだ。
その為にはやはり会話をしなくてはならない。今日みたいにそう何度も上手くいくものだろうか──共通の話題なんて読書くらいしか思いつかないし、他にアプローチを考えなければ。
どう考えてもそれは前途多難だった。けれど、ひと夏かけて取り組むならば、これくらいの難易度の方が面白いじゃないか──そんなふうにも、思えていた。
数年ぶりに、正体不明の郷愁を抜きにして──ただどこまでも高い透明な夏空と白い入道雲に、駆け出してしまいたい程の高揚感を募らせていた。
窓の外の青空を眺め、深呼吸を一つ。夏の香に溶けた古紙の香りが、胸に空いた空虚を満たす。
どうやら今年は楽しい夏になりそうだ──早々に読書に戻った後輩を尻目に、抑えきれない衝動を文字に変えるべく、私は筆を取るのだった。
《To be continued》
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