Ⅴ その物語はきっと

 少しだけ、期待していた。


 例えば、私の秋嫌いのこと。後輩にあんなふうに言ってもらえて、この季節も少しくらいは好きになれるんじゃないだろうか──と、そう思っていた。

 けれどどうも、私の秋嫌いとあの時の失恋とは直接は関係なかったらしい。きっと、美しい色々と共に全ての生命が終わってゆき、冷たい風が肌を撫でるあの感じが、元より好きではないのだ。高くなる空と比例するように広がる私の心の隙間には、相変わらず秋声の吹き込むばかりである。


 例えば、後輩の感情のこと。あの時は確かに後輩の明確な感情が垣間見えたのだ、きっとすぐに彼は感情を見つけるだろう──と、そう思っていた。

 けれどそれもまた、そう簡単な話ではなかったらしい。まあ私だって多少感受性が豊かなだけでその手の専門家ではないわけだし、彼が十六年間どうにも出来なかった問題を私がたかだか数ヶ月でどうにかできるわけがないのだ。よく考えてみれば当然の話である。


 そして、例えば──私の、停滞したきりだった原稿のこと。


「──部誌、ですか?」


 何それ初耳、とでも言いたげに首を傾げる後輩に、私は歌うように答えた。


「そそ。他人事みたいに言ってるけど、後輩くんだって何か書くんだからねー。何せうちの部員は二人しかいないんだからね、後輩くんが書いてくれなきゃ私の単行本になっちゃう」


 すると後輩はげんなりした顔をして机に突っ伏す。


「そんな......実質活動してないっていうから文芸部に入ったのに」


「さては君、ただの怠惰だな?」


 感情を言語化するからどうこうと言っていたような気がしたが。


「それはそれ、これはこれです。俺が運動部で汗水垂らして努力するタイプに見えますか?」


「ごめんすごく納得した」


 そんなどうでもいいやり取りをしつつ、大学ノートに設定を書き出す手は止めない。ここ最近はずっと不調だが今日は特に不調で、何かを思いつきかけ書いつけてみては、ああでもない、こうでもないと即座に二重線で消してしまう。創作意欲は溢れるほどあるのに、肝心の中身が全くと言っていいほど決まらないのだ。


 私はため息をつき、窓の外を見遣った。秋ももうすっかり深い。紺碧の空には気まぐれに筆を払ったような筋雲が浮かび、哀愁の色に染め上げられた街路樹の葉たちは行く宛もなく宙を舞っている。彼らもまた、私の心と同じように──秋の郷愁に絆された迷子だ。


「まあ、どうしても書けないって言うなら無理強いはしないけどね......でもさ、なにも私みたいな作風じゃなくていいわけだよ? 例えばミステリーなんか後輩くんにも書けそうじゃない」


 私は自分のネタ出しを諦め、シャーペンを机に投げ出した。こんなにも不調な時の原稿が単行本みたいに出されたのではたまったものではないので、後輩のネタ出しに構うことにする。


「ミステリーは無理ですよ。トリックなんか考えたことないですし、あんまり素人が手出していいジャンルじゃなさそうじゃないですか」


「じゃあホラーは?」


「恐怖心の描写が皆無のホラーになりますね」


「えーっとじゃあSF......」


「あ、SF読まないんで」


「何なら書けるのさ」


 私は再度ため息をつく。駄目だ、このままでは確実に単行本だ。別に特段部誌に力を入れているわけでもないが、私の作品のみが載った部誌が今後何十年にも渡ってこの部室に積まれ保管されるのは出来ることなら避けたい。


「そういう先輩はどうなんですか。俺に構ってる場合じゃないでしょう」


「そうなんだけどさぁ......不調なもんは不調だし」


 話題の矛先を私に向ける後輩。私は口を尖らせて、大学ノートのページ端を弄る。


「いや、私はいいのよ後輩くん。私ほどの文章力があれば、最悪その辺の木の風景描写でも載せとけば部誌クオリティくらいにはなるし」


「うわぁ自著自賛」


「やっぱり今話し合うべきは後輩くんの部誌内容についてだよ。書きたいもの......はまぁ無いにしても、書けるものとかないの?」


「はぁ......というかそもそも何書いていいか分からないんですって。俺は先輩みたいに創作衝動があるわけじゃないんですから」


 なるほど、確かによく聞く話だ。小中学生の頃に何度か「どうやったらそんなふうにお話が書けるの?」と聞かれたことはあるが、どうしたらもこうしたらもない。書きたいものを書けというのである。書きたいものがないのなら、書き時ではないのだ。


 ......とは言っても部誌発行は絶対だし、今に限っては書き時などとは言っていられない。もちろん最悪私一人で部誌を発行する手もないわけではないのだが、恥ずかしいのでそれは困る。自分の創作物を恥じることなどない、堂々としていればいいじゃないか──というお叱りも当然あるだろうが、幾ら創作の徒を気取っていたって所詮私は一介の女子高生だ。そこまで達観しちゃいないわけである。


「だからさ、後輩くん。いい加減堂々巡りな気もするけど本当に何でもいいんだって。部誌が私の単行本にならなければ何だっていいの」


「本音漏れてますけど」


「空耳だね」


 後輩の指摘をさらりと切って捨てて、私は強引に話し合いを続行する。どうやら後輩は既に諦めかけているようで、帰りたそうにしていたが──そうは私が卸さない。例え問屋が卸したとしても、だ。


「後輩くん、本は読むでしょう? だったら基本的な文章のリズムは何となく分かる筈だし、見たまんまの景色を描写してみるとかでもいいじゃない」


「季節情緒が分からないのに?」


「えーっと、じゃあアレは? 論説文みたいなの書いてみるとか」


「部誌で何を論じようっていうんです」


 ここまで書けない尽くしだと、いよいよ手詰まりというものである。こうなったら私も意地だ、既に尽きているアイデアを何とかして絞り出す。


「えー、じゃ、じゃあ、ほら、あれ......あれだよ、なんか普段の何気ないさ、こう............、ん?」


 ──普段の何気ない、なんだ?

 ふと私は、自分の発言が原稿の内容に繋がりそうな気配を感じ取った。

 

 いや、原稿だけじゃない。他の何か、大切な問題とも、だ──繋がりかけた点と点の間にあるものを探して、私は黙り込む。


「......先輩、どうしました?」


「待って。......私さっきなんて言った?」


 あと少し。もう少し、何かあと一押しで、繋がりそうなのだ。

 それも、さっき一度は思いついた筈の何か。掴もうとして掴み損ねて、思考の海に沈んでしまった何か──。


「はい? えーっと、確か、普段の何気ないなんとかって……」


「────それだ」


 ふっ──と、それは、初めからそこにあったかのように、私の頭の中に降りてきた。


 頭から足先までを、爽やかな秋風が吹き抜ける。


「どうしました?」


 そう問う後輩の声も、私の頭の中で廻り始めた物語には届かない。


 ──それは、私が考え得る限り、最高で最悪の物語だ。後輩が分からない感情とか、私が抱いたままの感情とか、そんなこの部室に在る感情の何もかも──この物語は、それらの突破口にも、はたまたそれらが壊れてしまうきっかけにもなり得る。後輩が解れないと言う感情に、素手で触れてしまえるような───そんな、物語。


 今から私が綴る物語は、きっと時限爆弾だ。部誌が発行されて、この物語が後輩の目に触れる前に──私は、自分の感情にも、後輩の感情にも、けりをつけなければならない。

 急いでどうにかするものじゃない、って? 何、構いはしない。どうせ部誌が発行されれば私はじきに引退なのだ。否が応でも進路のことばかり考えなければならなくなるし、それが終わればもうこの後輩と会うこともないだろう。


 ならば私が──私の手で、私らしい手段で。



 後輩が分からないと言う後輩の感情に、触れてみせようではないか。



 ──それから私は後輩そっちのけで、ただひたすらに原稿用紙を埋めに埋めた。後から思えば、よくもまあ散々部誌の話し合いに付き合わせた挙句、当人そっちのけで猛然と原稿を書き始めたどうしようもない先輩に気を遣い、黙って待っていてくれたものだと思うが──この時の私には周りなど見えていない。鮪か猪も真っ青なブレーキのなさで、ひたすらペンを走らせる。思考に手が追い付かない。こんなに快調なのはいつぶりだろうか──。

 

 と、そんな、最早本能とも言える勢いでひたすら書き続け。


 次に私がペンを置いたのは、最終下校時刻の鐘が鳴ると同時に私の原稿が書き上がった時であった。


「......先輩。帰りますよ」


 呆れたように言う後輩の声で、やっと我に返る。夢から醒めたかのように、周囲の温度が一回り下がった気がした。窓から吹き込む晩秋の夜風が火照った頬を撫でて、私を現実に引き戻す。


「後輩くん。......なんかその、ごめん」


 長い間彼を放ったらかしにしてしまったことに気付き、若干気まずくなりながら謝罪する。後輩は苦笑して、


「いいですよ、別に。──帰りましょう」


と文庫本を閉じ、鞄を持って立ち上がった。

 私は書きっぱなしで散らかった原稿用紙をまとめると、部誌を積んである棚の引き出しに大切にしまい込む。ほぼ勢いだけで書き上げてしまっただけに、明日の自分があの文章をどう感じるかは想像もつかない。それが少し怖くもあり、楽しみでもあり──それが、創作の醍醐味でもあり。

 あの物語が後輩に届く日を想像し、先程までの興奮の残滓と共に少し胸を高鳴らせながら、私も、後輩に倣って鞄を手に取る。


「うん、帰ろう」





 ──外に出ると、朽葉の香が鼻を抜けた。日の光は今にも消えそうで、西の空に辛うじて夕刻が残っている。東の空には既に星が幾つか瞬いていた。


 草いきれと夕空と、金木犀の香り。

 終わってゆく生命たち。


 もうすぐ──冬が、来る。


「秋も終わりだね、後輩くん」


「そうですね。......良かったですね」


 後輩の気遣いはいつも微妙に的を得ていなくて、それが私には嬉しくて。


「──じゃあまた明日ね、後輩くん」


「はい、また明日。──あ、明日見せてくださいよ。今日凄い勢いで書き上げてた原稿」


「だーめ。あれは自分で推敲するよ。後輩くんは部誌が出るまでお楽しみ」


 そんな言葉を交わして、私たちは反対方向に歩く。明日もまた、後輩の部誌内容についての終わりの見えない話し合いをするのだと思うと、やっぱりそれはどうしようもなく楽しみなのであった。


 こんなふうに、紺碧に映える朽葉四十八色をあの狭い部室から眺めながら秋を終えられるというのなら、私は──


 ──秋も、そんなに嫌いじゃない。





 早く部活に行きたい日に限ってショートホームルームが長引くのは最早、高校生の運命(さだめ)と言えよう。今日の私もまたその例に漏れることはなく、部室に向かうことが出来たのは、普段部室に着く時間の二十分も後だった。


 扉の前で一度立ち止まり、恐らく既に部室にいるであろう後輩のことを考える。どうせ人の気も知らずに、呑気に文庫本でも読んでいることだろう。少しくらいは自分でも部誌の内容を考えろというものだ──まあ、それがあの後輩らしいといえばそうなのだが。


 扉を開ける。


「遅くなったね、後輩くん。ショートホームルームが長引いて。勿論とは思うけど、部誌の内容は決まったんだろうね?」


 返事はない。


「..................後輩くん?」


 ──嫌な予感がした。


 速まる鼓動の音をどこか他人事のように聞きながら、部室の中へと足を進める。いつもと何ら変わりのない部室と立ち込める古紙の香りが、ひどくよそよそしい。


「────これって」


 果たしてそれは、すぐに見つかった。


 いつも後輩が座って本を読んでいる長机の定位置に、無味乾燥にただ一枚置かれた紙。




 ──退部届だった。




「なんで、そんな」


 開けたままだった窓からやけに冷たい白風が吹き込み、クリーム色のカーテンが舞い上がる。


 何か事情が書いてありはしないかと退部届を隅々まで見てみたが、整った字で申し訳程度に「今までありがとうございました。」と書いてあるのみだった。



 何も分からなかった。考えてみれば、後輩の感情に土足で踏み入りすぎていた節はあるのかもしれない。だが、確かに昨日、後輩は「また明日」と言ったのだ。いつも先輩を馬鹿にして楽しんで、お世辞にも性格が良いとは言えない後輩だが、それでも退部前日の別れの挨拶にわざわざ「また明日」を選ぶほど性格の悪い奴ではないことくらい私だって知っている。


 それとも、前々からこの予定でいたのだろうか。私がこれ以上秋を嫌いにならないように、秋が終わるのを待っていたとでもいうのだろうか? でも、そうだとしたら、昨日の出来事は、今までの出来事は──


「............何だったっていうのさ」


 そんな呟きも、静寂に消えて。



 窓から再び吹き込んだ涼風が、退部届を舞い上げた。

 それは、落葉のように、ひらり、ひらりと舞って──


 ──それが落ちた場所に、私は、後輩がいなくなった原因を見つけた。


「......そういうこと、か」


 掠れた声で、呟く。



 あんなに嫌いだった秋の風が、私に答えを示すなんて、この世界はどうやら限りなく皮肉だ。

 

 世界は限りなく皮肉で──世界は、限りなく優しい。

《To Be Continued……》


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