獣 三

 叔母は病院のエントランスで車の鍵を取り出して見せて、乗るか? と尋ねた。断るつもりだった。叔母がタバコを取り出すのを見て、喫煙室までの長い道のりを思い出す。公共施設、病院や学校が全面禁煙になってもう何年にもなる。車の中でなら。今すぐに吸えるかもしれない。帰ろうとする意志に反して、口が先に動く。

「一本もらえるんやったら」

 結局二人で、車の窓を閉め切ってタバコを吸っている。

「聞いたで、おやじさん刺して務所入っとったんやろ」

 叔母は愉快そうに言った。叔母からもらったタバコは思いのほか重い。ニコチンを含んだ煙を吸い込むと頭の靄が晴れる気がした。

「似てますか、俺と」

「兄が? はは、どやろね」

「若いころの、とか」

「お兄よりはあんたのんが男前ちゃうか」

 叔母は思っていたよりも陽気だった。でもそれは客商売で培われた表面的な陽気さのように思える。

「会いに行ったってくれる?」

 叔母が言った。親父に、ということなのだろう、と俺は思った。否定しきれないまま、俺は叔母の運転に身を任せている。このまま親父に会いに行ったとして―――その先を考えると何となく怖かった。もう後には戻れない気がする。

 連れて行かれたのは精神病院だった。

「え、ほんまにここ?」

 叔母は笑う。

「自分から入院してはんねん。外出たら何されるかわからへんから、って」

「やっぱ親父は―――頭のおかしい変なやつなんですか」

「いや、ちゃうねん。ふつうの。気の弱い、情けない人よ」

「ほななんで」

「薬の後遺症やろね」

 叔母は言った。もとから神経も細かったし。という叔母の手は落ち着きがなくポケットや服の袖の上を動き回っている。

 

 親父を待つ間、叔母の口から親父がやくざの幹部だったこと、覚せい剤を売っていたこと、若いころから違法薬物所持や恐喝でたびたび掴まったこと、そのたびに身元引受人になったり、獄中の親父に差し入れをしに通ったこと、年取った親父は病院や施設の外に出ることを怯えること、ライトを怖がること、なんかが飛び出してきて、そのたびに薄々勘づいてたばらばらの事実がひとまとまりに捏ね上げられていくような、不思議な感慨を覚えた。

「だからスマホは兄の目の届かんところに隠してあげて。手も何も隠してないいうんがわかるように、開いて上向けて」

 俺は意味も分からず頷いた。荷物を預け、まるで本当に刑務所の面会のようだ、と思う。


 プラスチックの強化ボード越しに会う親父は、痩せこけていて俺の想像する体の大きい、恐ろしげな男とはまるで別人だった。叔母が声をかける。

「元晴くんがきてくれたよ」

 男の虚ろな目が俺を見る。

「ああ」

 男は返事なのかうめき声なのかはっきりしない音を発した。叔母が舌打ちする。「わたしがくるまで薬やめといてな、ってお願いしておいたのに」

「薬って?」

「安定剤。調子が悪いとあの人暴れるから」

「暴れる」

「今日はもうあかんね、薬効いてないときにまたおいで」

 叔母の助言で面会は打ち切りになった。

「せっかく来てくれたのに、ごめんな」

「いえ、別に。会えるんは会えたし」

 いざ目の前にすると、相手が本当に自分の血を分けた父親なのか、わからなくなる。俺は自分の顔にあの人の面影を少しも見出せなかった。

「あ、せや。写真見る?」

 あてが外れてがっかりしたやろ、うち寄って行き。と叔母が言う。

「見ず知らずの人間を、家まで連れていくって、こわないですか」

「覚えてへんやろけど、元晴くん。わたし、あなたと何回も会うてるんよ」

「俺名前変えたんです。親父の苗字名乗るんも嫌やったし、かといって自分が刺した人間の苗字名乗り続けるんも、そうはいかんってなって。それならいっそ名前ごと替えてくれ言うて。弁護士のおっさんに頼んで書類書いてもろて。母の旧姓を名乗ってて。下の名前も、おとんがつけた名前やと思たら憎らしいんですわ。やから今は新しい名前。寺島直輝って名乗ってます」

「そうか、直輝くん言うんやね」

 どんな字書くの? と言う叔母にスマホの画面に打ち込んだ自分の名前を見せた。

「男前に似合った名前やね」

 叔母は笑う。この年代の人間は若い男を見ると大体男前と言う。ほんとうは見分けがついていないのだと思う。

 言っている間に車はマンションの駐車場に入っている。

「病院の近く、わざわざ借りてるんですか」

「まぁねぇ、あの人、身内言うてもわたしのほかにおらへんから。後の兄弟にはみな絶縁されてんねん」

 叔母と一緒に車を降りて、エレベーターに向かった。七階のボタンを押す叔母の指は、きれいに塗られている。やはり接客の仕事をしているのだと思う。

「あのな、あんたのお父さん、やくざ辞めるって約束して、あんたのお母さんと付き合ってたみたい。でも結局は組抜けられへんかって、あんたのお母さんには、会社員してるって嘘ついて暮らしてたんよ。あんたが生まれてしばらくして、あの人捕まってん。新居に警察の人がきて、そら奥さんビビるわな。でもな、兄が組抜けるために色々人のつて探してなんやかやしてた時な、ちょうどわたし、お店移ったところやって、お世話になった先輩が独立したところに引き抜かれて、それで、その新しいお店にいっぱい嫌がらせの若い子がきたんよ。なんとかして、あんたが撒いた種やろ、って頼んだんはわたしなん。お父さんが結局やくざ辞められへんかったんは、わたしのせいでもあるんよ」

叔母は俺に背を向けたまま、喋った。エレベーターの扉が開く。生ぬるい風が吹き込む。

「七〇三号室やから」

 叔母は言って、歩き出した。そしてぽつりと、

「ごめんな」

 と呟いた。

「もっと早く、辞めさせるべきやったんやね」

 叔母の家で父親の若いころの写真と、幼少期の写真を見せてもらって、スマホで撮った。俺に似ていると思う? と尋ねると、叔母はすこし、と笑った。叔母は表情をやわらげ、クラブで働いているとき、面倒な客を父が追い払ってくれた時のことを話す。俺はまだ健康だった頃の父が動いて喋っているところが、まだ上手く想像できない。写真の中の威勢のいい貫禄のあるチンピラ風の男と、さっき見た古木のような男が同一人物だと、どうしても思えない。叔母の思い出す父親と、写真の中の男と、さっき見たやせこけた男、そのすべてがばらばらでうまく重ならない。

その日は叔母と連絡先を交換して帰った。家に帰ると母から「…」とうさぎの特大スタンプが届いていたことに気がつく。

「お父さん入院中やった」

「会えず」

 俺のメッセージへの返信の代わりに母は、花のスタンプを送ってよこした。

 俺らの仕事は雨が降ると休みになるから、天気が悪いとパチンコがはかどる。開店前の行列に並んでいると、「今日はお父さん具合よさそうやわ、来る?」と叔母から連絡があった。少し考えて、会いに行くことにする。

 親父の入院している病院はアクセスがあまりよくない。住宅地のはずれに建っている。見舞い客がそもそも少ないのか、とも思う。妙に堅牢で、昔ながらの、と叔母は形容した。昔ながらの? 

 叔母が先に親父と話していた。俺の話をしていたのだろう、親父の目はすくなくともこの間会った時よりは、意志疎通のできそうな様子だった。よかった、と俺はアクリル板越しに、親父の正面に座る。親父は俺に話しかける。

「元晴」

 ああ、人間の声だ。俺を、俺の名前を認識している声だ、と思う。

 留置所や拘置所の面会室と似ている。親父はこっちの方が安心するのかもしれない。堅牢な建物の中に守られている方が。親父が頬を緩めて笑う。苦痛そうに見える。額に脂汗が浮かんでいる。俺は名前を訂正しようかと考え、なんや、と返事をした。

「お母さん元気か」

 親父は言う。俺はうなずいて、低く唸るように、ああ、と答える。

「ああ、よかった」

 親父の手はさっきから小刻みに震えていた。

「おかんな、言うてたわ、もうおとんのこと怒ってへんでって」

「ほんまか」

 親父の顔が泣きそうにゆがむ。手の震えがますますひどくなる。汗がだらだら流れている。毛穴と言う毛穴から汗が噴き出している。ひどく苦しそうなうめき声が聞こえる。けだもの、と俺は思う。

「もう限界やね」

 叔母が看護師を呼びに行く。

「なぁおとん、俺な、義理のおとんを刺して、刑務所入らなあかんようなったんや」

 俺もあんたと同じなんや。犯罪者なんや。と呟いた。親父はアホゥ! とドスの聞いた声で叫んだ。眼光の鋭さだけは、若いころの写真と変わっていないように見える。落ちくぼんだ目元は黒目が目立つ。黄ばんだ白目の中で黒目だけが爛々と光っている。

「あほか、お前は俺とは違う、お母さんの子や、お前には半分お母さんの血が流れてんねん。わかってるやろ。次同じこと言うたら殺すからな」

「そんなとこ入っとって、どないして殺すんや、それこそ阿保やろ」

「刑務所やったら俺が代わりに入ったる。お前はお母さんのとこにおったってくれ」

 親父が汗を拭いたタオルには血が混じっているように見えた。

「ごめん、嘘や。俺、とうの昔に出所したわ。全部ガキの頃の話や」

「知ってるわ」

 親父はにかっと笑った。セラミックの歯が病室には不似合いに白い。冷や汗がしたたり落ちる。異常な発汗。

「薬のせいなんか、その震えも、汗も」

「そうみたいやな。どうしようもないわ。ほんま、あかんな」

「あかんことない。どっちみち俺の血のつながった父親は、あんたしかおらんねん。達者で死んでくれ」

「生きとってほしいんか、死んでほしいんか、どっちやねん」

 親父は脂汗を玉のように光らせながら、笑った。

 

 廊下で叔母とすれ違う。

「もう帰るん?」

「話したいことは話せたんで」

「あのな、こないだ持って行ったあのお金な、お兄ちゃんが若いころ、あんたのお母さんに養育費やって渡すために、貯めてたお金やねん」

「でも、まじめに働いて得た金やないんでしょう」

 叔母は黙った。それが答えだと思った。

 病院を出て住宅地をしばらく歩いた。外はまだ雨が降っていた。冷たい雨だ。親父は外の天気すらわからないような地下の部屋で一日中過ごしているのだ、と思う。その足でそのまま母親の病室を訪ねた。

「なんや、あんたか」

 母親は、俺の姿を認めるとすぐに、退院の日にちが決まった、と嬉しそうに告げた。

「荷物なんぼか持って帰るわ。貸して」

 俺は父親と会った話を母親にするかどうか、迷う。

「なんや、ぼーっとして。元気ないな」

 母親は笑った。

「なぁおかん。俺とおとん、そんなに似てるか」

「なんや、あんたまた、あの人と会うたんか」

「ああ、会うた」

 母親は黙り込む。さっきまでの明るい雰囲気が打って変わって、静かになる。

「俺、ほんまは知ってたよ、親父の職業のこと」

 母親は返事をしなかった。

「俺なぁ、ずっと怖かったんや。親父の血が、遺伝子が、俺の人生になんか悪さしよるんちゃうかと思って。有名やったやろ、親父。周りの人間も俺のこと怖がるんや。なんか腐った血が、人間と違う血が流れてるんちゃうか、そうやったら嫌やなぁって」

「あほちゃうか。あんたは、あんたや」

「せやな。親父と会うて話したんやけど、おかんの血が半分入ってんねんから、大丈夫や、お前は俺とは違うって、言うてはったわ」

「調子ええねん、あの人は。口から先に生まれた人やから」

 母はそう言って、ため息をつき、そして困ったような顔で笑った。

「俺、後悔してないねん」

「お父さんに会ったこと?」

「いいや、刺したこと」

 母は黙る。義父はあのあと一命をとりとめ、分厚い脂肪が義父の命を守ったみたいだった――――母も離婚しなかった。義父を看病し、いつのまにか、義父は昔の仕事仲間と新しい仕事を始めていた。海外を行き来することが多いらしい。義父に貞操観念とか一般常識が通じるかはわからないけど―――ふたりはまだ戸籍上は夫婦だ。

「殴られてるおかんを黙って見てる人間でなくてよかったって、今でも真剣に、そう思てる」

 母親は絶句して、それからあははと笑った。

「気ぃ弱いくせに大きいことばっかり言うねんな。あんた、実のお父さんそっくりや」

「そうやな、気の弱い、普通の人間やから」

 俺は母親に、今日父親に教えた嘘のことを話した。おかんがもう、怒ってへんで、って教えたこと。まぁ、あながち嘘でもないな、と母親は言う。そんな長いこと怒ってられへん。人間はね。そう言って俺に、俺の金で買ったチョコを勧めてくれた。手が汚れない一口サイズのチョコ。口にすると甘い。

「ああ、病院食も飽きたわ。家帰ったら好きなもん作って、好き放題食べんねん」

 母親は俺の顔を見て笑った。

「お好み焼きでも焼こかな。好きなもん全部乗っけて、ホットプレートいっぱいの大きいの。あんたも食べにおいで」

「うん」

 母親のお好み焼きを食べるのは何年ぶりになるのだろう。もう味もおぼろげで思い出せないのに、と考えた矢先、鼻先にソースのにおいがツンと蘇って、参った。

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