獣 二

 妹から電話があった。画面のアナログ時計は夜の三時を指している。「お母さんが倒れた」妹は義父と母親の間に生まれた子で、俺とは少しも似ていない。俺は声のトーンを抑えて呟く。「ああそう、とりあえず行くから。病院どこの?」「わたしどうしてええかわからへん、お兄ちゃん」「おかんはなんて?」「意識ないねん」「医者は」「検査せなどないもわからんて」「でも命に関わるようなもんでもないんやろ」「わからん……」「親父は?」「連絡つかへんねん」「ほなまぁとりあえず俺が行くわ。交代しよう。それまで仮眠でもとり」「でも」「ええから、ちゃんと寝とくんやで」電話を切って、深く息を吐く。若い女特有の胡乱さにいらついている自分をなぐさめるために、たばこに火をつけた。

 

 母親がいくつになるのか記憶をたどっても手も、はっきりした数字が思い浮かばない。五十か六十の間だと思うのだが。そろそろガタが来てもおかしくない年代だ。ただでさえ働き通しだった人生なのに。

 妹は俺を恨んでいるのではないかと思う。たった一人の肉親を刺し殺そうとしたわけだから。俺が義父を刺した時、妹はまだ五才だった。恨むほどの知恵はなくても、憎むくらいの気概はあったかもしれない。幼児の感情がどれほどの強度をもって持続するのか、俺は知らないけど。

 彼氏ができないという悩みも突き詰めれば俺のせいなのかもしれなかった。高校生なんだから好きに遊べよ、と会うたび札を渡すけれども、妹が青春を謳歌している気配はない。誰も口に出して言葉にすることはないけれど、事実は明白だった。俺が妹からあらゆる男を遠ざけている。


 担当医の説明によると、子宮筋腫、と言うことだった。

「こんだけの大きさになるまで我慢して、痛かったん違いますかね」

 医者は人ごとみたいに言った。母親はベッドの上で気まずそうにしている。久々に母親の顔を見て、老けたな、と思う。医者が出て行ったのを見計らって、俺は母親の枕もとの椅子に腰をかけた。

「おとんまたどっかほっつき歩いてんのか」

「海外や。たまに現金振り込んでくれてやから、生きてるんやと思う。前はフィリピンって書いてあった。今はしらん」

「ええ年してこどものひとりも養えへんのか。あの時素直に死んでくれとったらよかったんや」

「直輝!」

 関西から工場が撤退していく。義父もそのときに大量に生まれた失業者の一部だった。暴力がひどくなったのもそれがきっかけなのだ、と母は言うけど、それ以前からずっと続いていたように俺は記憶している。今となってはどちらが正しいのかわからない。

「すまんな。言うて俺は他人やから」

 俺はそれ以上言葉を続けられなかった。おかんも黙った。

「筋腫てとらなあかんもんなん」

「切除いうことになるなぁてお医者さん言うてはったわ」

「ほなまぁしっかり食べて体力つけて」

「直輝」

 病室を出ようとする俺を母親が呼び止めた。手が宙を舞い、布団の上にそっと置かれる。

「……なんでもないわ」

「心配せんでもまたくる」

 病室を出ると、妹が所在なさげにたたずんでいた。

「先帰っとったらよかったのに」

「うん……」

 病院の廊下を並んで歩いた。金のことを少し話して、それから同じバスに乗って駅に向かう。がら空きのバスが徐々に人で埋まっていく。妹の寝息を感じながら窓の外を見る。

 病院に行くバスには色々な年代の人間が乗り込んでくる。老いも若いも、まぁ年老いた人間が圧倒的に多いわけだけれども。みな一様に憂鬱そうな顔をしている気がした。


 手術を終えても退院の日にちは知らされなかった。よくないのか、と医者に尋ねると、思うように体力の回復が追い付いていないようだ、と言われる。普段から疲れがたまっていたのではないか、と言う口ぶりがまるで俺を責めているようだった。

 妹は着替えや本を持ってきてやっているようだ。俺は院内で使える電子マネーをチャージして母親に渡す。母はそれでアイスや菓子を買っているらしい。金を継ぎ足すたびにいたくありがたがるので気色が悪い。そういえばここのところパチンコには行っていない。

 ある日母親の病室で見舞客と鉢合わせた。知らない女だ。

「あら、元晴くん」

 俺の改名前の名前を知っている。

「大きゅうなって」

 女は笑った。きつい香水の匂いのする女だった。

 母は硬い表情のまま、ベッドから上半身を起こした姿勢で固まっている。

 女は俺の叔母だと名乗った。義父に女の兄弟はいない。母にも。型は旧いが仕立ての良い服を着ている。

「これお見舞いです。兄から」

 女はカバンから分厚い茶封筒を取り出す。

「受け取れません。あの人とうちとこはもうなんの関係もありませんから」

「そう言わんと、これっきりにしますから、お詫びの代わりに受け取ってください。わたしらの気持ちやと思って」

 女は無理やり母親の手に封筒を握らせようとした。

「おとんの、父親のことなんか知ってはるんですか」

「あんたは知らんでええねん」

 母が苛立ちをにじませて言った。

「白井さん、検査のお時間です」

 看護師が入ってきた。女は茶封筒を母に押し付けると、軽く会釈をして、病室を出る。俺は女の後を追った。背後から、母親が俺の名前を呼ぶのが聞こえる。

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