獣 一
生活が苦痛と言うよりも赤の他人と同じ空間にいることが苦痛だった。できることなら誰とも関わらずに生きてゆきたいと思う。けれども前科のある俺みたいな人間は、人間の気配にあふれた部屋や街で生活することしかできないし、一日中体を酷使して得られる賃金はほとんどパチンコに消えてしまう。パチンコを打ってるときだけ人間の気配を意識しないでいられる。人間が嫌いなので人間と接しない環境に置くよう配慮してくれ、と言ったところで誰も聞いてくれないだろう。
義父を刺したことについて母親は俺を咎めなかった。感謝もされなかった。なにもあんたがやることなかった。と呟いた母の真意は今でも俺にはわからない。母親の髪を引きずりまわす義父の脇腹に万能包丁を突き立てた。親父は「え」と虚を突かれた顔で俺を振り返り、ゆっくりと自分の脇腹を見た。その顔がとても愚かしく見えて、俺は煙を上げているフライパンで包丁の柄を思い切り打ちこんだ。焦げた野菜炒めが部屋中に飛び散り、母が呆然と俺を見ていた。十五になったあくる日だった。
親父は死ななかった。母親がとどめを刺すようなこともなかった。
人間といて安心するとか安らぐとかいう感覚がわからない。いつ襲い掛かってくるかわからない相手とどうして楽しく談笑なんかしていられるんだろう。一輪車で廃材を運びながら考える。今は笑って楽しそうにしていたって、十分後にはどうなってるかわからない。現場から帰る途中の駅で降り、パチンコにふける。気がつくと陽が沈んで帰宅ラッシュの時間に差し掛かっている。パチンコしてるときだけは、嫌なことを考えずに済むし、何より脳が疲れてちょうどよかった。
帰りの電車が思いのほか満員だったのは降り出した雨のせいかもしれなかったし、当たらない天気予報のせいだったのかもしれない。ふと靴の先を踏まれる。いってぇなと目線を向けると、女子高生が恐怖とも困惑とも取れる顔をこちらに向けていた。背後にべっとりと中年の男が貼りついていて、男の手は女子高生のスカートの上から尻を触っている。痴漢かよ、くっそ胸糞悪い。
「おいこらおっさん」
俺は女子高生のケツに手を回していたおっさんの肩を小突く。
「電車ん中や、キャバクラちゃうねん。」
周囲の人間の視線が一瞬で俺に集まって気持ち悪い。被害者面したおっさんは一瞬で背景に溶け込む。そういう特殊技能でも持ってんのかと思うくらい、自然に。女子高生はその隙におっさんから距離をとって場所を移動している。頭がいい、と思う。俺はおっさんの顔面を改めて睨みつけ、革靴を踏みつけた。満員のはずなのに、俺の周りから人が引いていく。潮の満ち引きのようにあまりに自然に。
深夜。労働は体に悪い、というツイートを見る。人間は密集した地域では人間は長く生きられない、の間違いではないかと思う。人間と関わらないことで金が得られるなら俺は喜んで働くなと考えて、世の中の人はそうではないのかもしれない、と気づく。自分がどれくらい「世の中」の基準から離れてしまっているのか、とうにわからなくなっていた。母親と年の離れた妹と暮らした生活、転校手続きが滞って半分通えなかった小学校生活、新しい親父の酒臭い体臭、親父が母親に投げかける卑猥な言葉、脈絡もなくはじまる暴行ともセックスともつかない行為。母親は俺の実の父親のことを話さない。かたくなに口を閉ざしたまま、知らなくていいことだ、という態度を貫いている。もしかすると俺の親父は人間ではなかったのかもしれない。俺の身体にも義父のような獣の血が、義父よりももっとひどい、言葉を介さない獣の血が混じっていたら、嫌だなと思う。
俺は俺の血が人間の物かいまだに区別がつかない。俺の体臭が人間と混じって暮らせるようなものなのか。それとも本人が気がつかないだけで、徹底的に異質なにおいを放っており、人外の獣としか形容できない不快さを周りに振りまいているのかもしれなかった。あるいはそれは、少年刑務所で繰り返し聞かされた、不可逆のレッテルが臭いとして周囲の人間に感知されているものなのかもしれない。いやそんなわけはない。出所してから何年も経っているのに、固有の臭いが肌に染みついているとかそういうことではないだろう。
少年刑務所にいるとき、人間になり方がわからない、という俺に中学の担任がよこした手紙に
「ひとはひととしてうまれてくるのではありません。人生をとおしてひととはなにかをまなんでいくものです」
と書かれていた。俺は何度も手紙を読み返して、どこかに人間の中に紛れる方法が描かれているのではないか、と探してみたけど、わからなかった。俺はまだ人ではない。ということなのだろう。紛れる方法はまだ身につかない。
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