It's a small world
振り返ると坂の下に広がる街並がとても小さく見えた。水平線ははるか遠く、空の色はどんよりと鈍く、それにつられて海の色も昏い。燕が低く飛んでいて、ああ、雨が降るのだろうか。と思う。
側にいる人の声が遠くに聞こえる。心臓がバクバクと音を立てている。坂道を駆け上がった後の太ももは熱を帯びている。今日私は母を刺した。
あれは事故だった。自分に言い聞かせるように目を閉じる。私はなにもしていない。母が勝手にしたことだ。いや、なにもしていないというと嘘になる。私は―――。
街はいつもどおり美しく、静かで人気がない。まるでミニチュアの世界に紛れ込んだような気になる。
「律っちゃん」
ようやく耳をふさぐような心臓の音を貫いてその人の声がわたしの耳に届く。五つ年上の義理の父親。私はふと、つなぎっぱなしだった手に気付いて振り払った。養父の手は肉付きが薄く、夏だというのに氷のように冷たかった。私の義理の父。母の教え子だった人。この三年で母はまた老いたのに、この人はどんどん成長して、大人の男の人になってゆくのが不思議だ。今はまだはたち。きっとこれからもどんどん変わってゆくのだろう。母はそれをどんな気持ちで見ていたのだろうか。
この街の男の人たちはみな日に焼けて引き締まった体つきをしている。なのに養父だけはいつ見ても幽霊のように白く女のように柔らかい頬をしていた。
「俺がやったってことにしよう」
養父は言う。
「俺はヒモだし、社会的信用もゼロだ」
「俺が律っちゃんに暴行を働こうとした。それを見咎めた優菜ともみあいになって、殺した。そこに律っちゃんが帰ってきて、口を封じようと連れ歩いたけど、殺す勇気が出ずに、出頭。そういう筋書きはどう?」
「でも私、かあさんのこと、うしろから包丁で……だからもみ合いになってなんて、誰も信じてくれない。やっぱり最初に本当のことを言うべきだと思う」
「じゃあそうだな、……。他にどうしたらいいか、少し考えよう」
養父は震災の時に建てられたプレハブの住宅が打ち捨てられているのをみつけ、どうやったのか、鍵を開け中に入った。こんなところをまた人に見られたら、なんて噂をされるかわからない。ただでさえうちは街の人の話のタネなのに。母さんは現アル中の元高校教師で、教え子の子を身ごもって仕事を辞めた。それをネタにバーを経営してて、興味本位の客相手に楽しくやってる。いや、ほんとうは楽しくないからアル中が加速したのかもしれない。今となってはどうでもいいことだ。私は転校を余儀なくされ、新しい中学でいじめに遭い、不登校になった。そこにおしかけてきたのが養父だった。日中いつも家族三人で過ごしていた。昼過ぎに目を覚ましご飯を食べてゲームをしてネットで映画を見て過ごす。私たちの暮らしは母さんがいなければ立ち行かない。なのに私は。
私は母さんを殺してしまった。
こどものころは母さんのことが好きだった。好きで好きでたまらなかった。でも母さんは忙しくてほとんど家にいなかった。保育園の迎えも延長ばかりで待ちくたびれて、私はつも泣きながら保育園の先生の腕の中で眠ってしまっていた。でもお母さんは高校の先生だから。とてもすごいお仕事なんだよ。かっこいいんだよ。って先生たちが教えてくれる。私はすこし誇らしくなって、お母さんを待つ元気が湧いてくる。
小学生に上がると一人の時間が増えた。学童も四年生の頃に辞めてしまって、その代わり家でゲームをするようになった。スマホを買ってもらってからは、映画を見たり音楽を聴いたり知らない人とチャットしたり、いつのまにかお母さんを恋しいと思う気持ちよりも、疎ましいと思う気持ちの方が大きくなっていた。殺してしまいたいと、死ねばいいと思うようになったのはいつからだっただろう。やっぱり、お母さんが先生を首になってからだっただろうか。いや、それよりも前だったのか、殺してしまった今ではわからない。お母さんの背中に包丁を突き立てた瞬間。骨にステンレスがぶつかり、包丁が曲がってしまい抜けなくなった。力任せに引き抜こうとすると、お母さんはすごく痛そうだった。思い出すだけで手が震える。肉を裂く感触、骨を断てない、ぶつかってごり、と音を立てる、その振動が包丁を伝って腕に走る。ごめんなさい。咄嗟に呟いた声は震えていた。お母さんは謝る私の目をじっと見て、包丁は横に構えるの。と血まみれの私の手を握って内臓を傷つけるために必要な構えを教えてくれた。お母さんが教えてくれたようには、私はお母さんを刺せなかった。
「ごめんなさい」
私は泣いていてたのだと思う。
「ごめんね」
お母さんは言った。それから自分で自分の二の腕を縦に割くように包丁を入れた。血が噴き出して、お母さんの血はとても温かくて、薔薇のようなにおいがした。
プレハブの中は意外と涼しかった。断熱材がしっかりしているのだろうか。養父は疲れたね。と呟いた。海辺の家から坂の上まで駆け上がったのだ。疲れて当然だった。失血死って寒いんだよ。と脈絡もなく養父が呟く。うん。そうなんだ。と私も小さく呟く。養父はなにを考えているかわからなくて、苦手だ。一緒に住むことになるのがわかっていたら、母さんは赤ちゃんを堕ろさなかったかもしれない。そもそもなぜ一年経ってから母を頼ってこの街ににやってきたのか。この人さえ現れなれば、お母さんと、私のふたりでやり直せたかもしれないのに。
やり直す? 一体何をやり直すというのだろう。壊れてしまったものは二度と戻らないし、傷ついた傷はなかったことにはならない。そして、死んでしまったものは二度と生き返らない。母さんは。
「私の母さんは」
わたしの。そもそも母さんは私のものではなかったのかもしれない。
「もう」
「わからないよ。まだ生きてるかも。生きてたら、どうする?」
養父はふと勢いづいて畳みかける。この人はいつもそうだ。会話のリズムがまったくつかめない。
「生きてたら、私はちゃんと警察に行く」
「……そうだね」
養父はまたしゅんと落ち込んでしまった。面倒な人だな、と思う。母はなぜこんな人と一緒に暮らしているのだろう。たぶんどうせまだふたりは籍を入れていないのだ。それはなぜなんだろう。今更ながらの、配慮みたいなものなのだろうか。母さんのことをみんなが悪く言っているのは知っている。中学でも噂になる。
「みんな暇なのよ」
と母さんは言う。
「自分以外を責めてると気が楽なの。母さんもそう」
だから気にしないで。という意味だったのかもしれない。私は気になる。自分の母親が悪く言われるのは嫌だ。でもほんとうのところは、母さん本人も気にしていたのかもしれない。毎朝アルコールのボトルが開いているのを見て、またか。と思う。もしかすると教師の頃からお酒は飲んでいたのかもしれないけど、そのころはまだ、痕跡を私の目に触れさせないだけの余裕があった。
以前に一度だけ、母親の前で「死にたい」とこぼしたことがあった。「そうだねぇ」と母さんは返事をして、「そのときは一緒だよ」と言った。
私は約束を破った。
家に戻ると母さんはいなかった。
自分で救急車を呼んで病院へ行ったらしかった。養父は入院した母をつきっきりで看病した後、また姿を消してしまった。私は母の背中の傷について色々な人に話を聞かれ、都度正直な答えを返していたつもりだったのだけど、一貫してあいまいな供述しかできず、児童精神科に連れていかれ、適応障害、統合失調症の診断をうけて、保護観察処分を受けた。いまだに自分がなぜ母親を刺したのかわからない。養父からときどきお金が届く。このお金で律っちゃんを大学にやってください。と手紙が入っている。もしかすると彼は私の父親になろうとしてくれていたのかもしれない。母さんはそのお金でお酒を買う。養父さんがいなくなってから母さんのお酒が増えた。どうしてふたりは結婚しなかったのだろう。そもそもお母さんは本当に養父さんの子を身ごもっていたのだろうか。十六歳の夏、私は母のいる街を離れて、海を渡り、ベトナムの工場で働き始めた。言葉は通じないし、仕事は辛いし、賃金は安いし、辛いのは苦手だし、苦しいことばかりだけど、あの街で母さんといるよりは楽だ。何年かたって、母さんが自殺したという知らせを聞いた時も、日本に帰らなかった。喪主は養父さんがしたのではないか。そうだったらいい。
私は生涯子供を持たないと思う。
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